いや、これで終わりにしなければならないんだ、なまえのためにも。俺のためにも…。
このくだらない重い未練をずるずると引きずりながら、なだめながら過ごした休日は酷く億劫なものだった。
あのままなまえは仲直りしたのだろうか、なんて考えようものならどうしようもない憤りが漫画を読もうとする集中力を削ぐばかり。
諦めよう。やめよう。もう終わりなんだ。
何度だって呟いて、この思いを心の中に閉じ込めた。
「あ、伊佐敷さん、おはようございます」
「はよ」
「今日は外回り大変そうですね」
「…だな」
昨日から続く雨は今日も変わらずしとしとと地面を濡らしている。
朝早く出社していたサポートの子が話しかけてきて、下がりっぱなしの気分に拍車をかけた。
「今日、みょうじさん遅いですね…」
それをなぜ俺に聞く…。
少しにんまりとした顔が探るようにこちを見ていた。
探られても、何も出てくるもんなんて俺たちの中には存在しない。
むしろ前までは少しぐらいあったものが、今やゼロになってしまった。
「そうか」
これ以上なにか聞かれても面倒なので、さっさと自分のデスクに逃げた。
彼女が来るのが遅い理由なんて知るわけもないし、関係ない。
「おはようございます」
それでも彼女が来たのは声だけで理解。
仕事のたまった月曜に、始業のギリギリに来るなんてずいぶん良いご身分だな、と心で毒吐くぐらいにはイライラとした。
週末に出された書類を確認し、横から差し出した。
「これとこれ、確認。あと、この納期日遅らせてって言ったよな?」
「…すみません」
「じゃあ、外回り行ってくるから。戻るまでに…」
用意しとけよ、と急ぎでもないがそう言うつもりだった。
「夕方の会議までに、ようい、しておきます」
「…おい、お前もしかして具合悪いのか…?」
声に覇気がなく様子がおかしいと思ってやっと視線を向ければ、顔色は悪いのに目も頬も赤い色をしたなまえ。
思わず出しかけた手は、彼女が唇に人差し指をあてる動作で止まった。
「だいじょうぶ、です」
目の下には隠しきれていない隈もある。
それでも精一杯の作り笑顔に返す言葉もないし、無関係の俺が気遣うことでもない。
色々浮かぶ言葉すべて呑み込んで背を向け、伸ばせなかった手は強く握りしめ拳へと変えた。
夕方、帰社してもなまえはデスクに座りパソコンに向かっていた。
頼んでいた書類はきちんと出来上がり俺のデスクに置いてある。
さすがに午後は半休でもとって帰っただろうと思っていたし、そこまで急ぐ書類でもなかったのに…。
定時になれば帰るだろうと思っていたが、一向に席にから離れる様子もなく。
残業確定の営業会議に出れば、一時間、二時間と定時から時計の針は過ぎていき、終わって戻ってもまだそこに座っていた。
座っていた、と言うよりは突っ伏していると言った方が正しい。
もともと隅っこのデスクで、小さく丸くなってる姿に気付くやつはいなくて、会議に参加していたメンバーも早々に退社していった。
「おい」
「…ご、めんなさい、書類、不備がありましたか?」
顔を上げた彼女は既に意識が朦朧としているようだった。
高熱だろうことは一目瞭然。
「そうじゃねぇよ!体調悪いならなんで早く帰らねぇんだよ!」
帰ってこない返事の代わりに、いつもより早い呼吸音だけ聞こえる。
座っているのでさえ辛かっただろうに…。
こんな状況の人を放っておけるわけもなく、手早く彼女のデスクを片付けて、パソコンをオフにして荷物を掴んだ。
「送ってやるだけだから…」
それは彼女にも自分にも言い聞かせた言葉。
タクシーに突っ込んでから、彼女の額に触れれば予想以上の熱が伝わった。
なんでこうなるまで、無理するのか…。
彼氏と寄りを戻して調子に乗って風邪ひいて月曜を休む、なんてこと有り得るのか?
どれだけ考えても、なまえがそんなことをするような女には思えないし、例えそうだったとしてもそれは確実にあのクソ男がそうさせたとしか思えない。
ここで、なまえは“そういう女なんだ”って思えれば、どれだけ俺の傷んだ心が救われるだろうな…。
自分の一途さを嘲笑うしかない。
病院に連れて行くべきかとも思ったが、それを察した彼女が家に帰ると首を振るものだから、しかたなくタクシーをなまえの家まで走らせた。
マンションのエレベーターの中でさえ立っているのが辛いのか、壁にすがったまま目を閉じている。
「……じゅ、ん…」
薄っすらと目を開いたなまえがまるでうわ言のように俺の名を呼ぶ。
それだけで、苛々とか不満とかどうでも良くなって、なまえの大切なやつ面して抱きしめてしまいたくなる。
その視線を逸らすことに多大な労力を使うことをお前は知っているのか?
こいつの好意が俺に向くわけでもない。
本当ならこうやって優しくしてやる意味もない。
昨日の結果がどうであっても、大事なのは俺じゃなく、“今の彼氏”。
聞きたいことがたくさんあるが、聞くべきではないという自制で口を噤んだ。
もう、俺たちは終わったんだから…。
部屋の中は、驚くほど物が片付いていた。
なまえのことだから、もっとあいつとの思い出がたくさん飾って、なんなら家にでも居るんじゃないかとさえ思っていたぐらいなのに。
薬出すから着替えてろと言えばふらふらとベッドルームに消えていったから、ソファーになまえの荷物やらコートやらを適当に置く。
「薬とポカリ置いとく。ちゃんと飲めよ」
ロビーのそばの自販機で買ったポカリと、戸棚に見えた薬をテーブルに置いて声をかければ返事はなく。
(寝たか…?)
「おい、せめて薬ぐらい……!?」
しかたなく薬とポカリを持って部屋を覗けば、視界に彼女を捉えるより早く、腹部に回された腕が力強く抱きしめてくるのを感じた。
カッターシャツ一枚越しに彼女の体温の高さが伝わるし、視線の先、ベッドのそばに脱ぎ捨てられている先ほどまで履いていたスカートとストッキングが、混乱する頭を余計にクラクラとさせる。
「……純…ごめん、純…っ」
「……悪い冗談はやめろよ」
「ごめん、なさっ……わたし、もう、わからなくて……じゅんっ…」
卑怯だと思った。
気があることがわかってる元彼に、そうやって縋るように名を呼んで。
熱で浮かされた目で見つめて。
「…おねがい、……抱いて」
唇が触れたことに気付いたのは、それさえ熱を持っていたから。
柔らかなキスが、残酷すぎる。
ずるい。
触れた頬は熱のせいで熱く、涙で濡れているのを優しく親指で拭った。
ふと視界に入ったのはサイドテーブルに置かれている、水でふやけたショップバッグ。
こんなにまでなまえに思われてるくせに…!
「…ほんと、身勝手すぎんだろ…」
あいつも、こいつも
「もう泣くな」
でも、今この瞬間を拒めない俺が
「なぁ、今だけは俺を……いや、なんでもねぇ」
一番卑怯で
「後悔しなくて良い。俺がお前を抱くんだ。何も考えなくて良い…」
狡猾。
抱き上げ、ベッドの上に降ろせば熱く見上げる視線から逃れるようにその唇を貪った。
シャツのボタンをスルスルと外せば露わになる白い下着が火照る肌を強調している。
でもそれは気遣う材料にはならなくて、情欲を煽った。
「なまえ」
首筋に顔を埋め、柔らかな胸に手を伸ばせば、彼女手が力なく俺の髪を梳く。
なまえの匂いだけでずっと望んでいた思いが満たされていくような気もするし、何もかも失っていくような気もする。
それが怖くて、その手を掴んで無理矢理絡め、彼女が握り返せないほどバカみたいに強く握った。
今だけは繋がせててくれよ。
「…純っ…」
なぁ、どうか
今だけは俺を好きだと、言ってくれ。
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