07 踏み出せない一歩
そう思っていたのに結局当真を見つめる。といってもさすがに視線が合うのは気まずくて、後ろから目が合わないように見つめるだけの日々。当真は窓側の前から二番目。私は廊下側の一番後ろ。だから気兼ねなくその後ろ姿を見ていられるのだけど。
机に肘をつき、手に顎を乗せて首を傾げたことで、男のくせに色白い首筋が学ランの襟から覗く。あそこへ擦り寄って、キスをして、痕が残らない程度に噛みついたり吸いついたり。
この間エッチな夢見てしまったせいでピンク色の思考回路へすぐに迷い込む。そこらにいる節操なしの欲求不満男子高校生と大差ないな私……。
ますます自分に飽きれて項垂れ机に伏せる。この間、本部で出会った時の当真はいつも通りだった。私だって友だちとしていつも通りになれる。それならいったいなにが不満なのか、私はあれから何日か経っても当真へ話しかけられないでいる。
息を吐くたびモヤモヤと胸の中が苦しくなっていくことが、自分のことなのに理解できない。
「みょうじさーん」
ぼんやりとしていたところへ突然前方から声をかけられ、勢いよく上体を起こす。いつぞやの没収された携帯事件を思い返して背中には冷や汗が垂れた。しかし視線を上げると、田中くんがプリントを回してくれているだけで先生は黒板を消していた。
「驚かさないでよ」
「驚かすもなにも授業中だろ」
幸いにも周囲は配られるプリントでざわついていて、私の奇行はさほど目立たなかったらしい。周りを確認したが誰もこちらを見ていない。そう思っていた。なのに一人だけこちらを見ている。
『ばーか』
まっすぐ視線が合う。薄い唇がそう描いて、鼻で笑って。そうしてまたすぐに視線は逸らされた。
たった一瞬の間。私の心臓は止まっていたと思う。思い出したように感じる鼓動は意味もなく早くて顔まで熱くなっていた。
きっともうこちらを見ないだろうから私も逸らす。当真がこっちを、私を見ていた。
「ちゃんと授業受けてないとまた携帯取り上げられるよ」
「ちゃんと受けてますぅ」
背中を向けた田中くんも私の様子には気づかなかっただろう。俯いて、プリントへ目を通すフリをして冷静さを装おう。でも配られた課題のプリントをバカな私が見ているなんて、それこそ冷静じゃない。ボーダーのだれかには「槍でも降るんじゃないか」と言われてしまうだろう。
ぜんぶあの夢のせいだ。だから当真への態度が不自然になってしまうだけ。目が合うぐらい、前からよくあったことだと言い聞かせる。
体育の終わり、更衣室で着替えていた私へ柚宇ちゃんが擦り寄ってくる。隣で着替えていたのにさらに近い距離で、彼女は鼻をひくひくさせたあとにたりと笑った。
「え、なに? 汗臭い?」
「ん〜そうじゃなくて。なまえ最近香水の匂いしないなと思って」
「いつも学校で香水とかつけてないよ。お母さん柔軟剤安いのに変えたかな?」
今しがた着たばかりの制服へ顔近づけるが、普段と同じ匂いがすると思う。休日に出かけるときなんかはつけるけど、学校にまでつけてきていたら香水の減る量にお小遣いがついていかない。
「なまえのじゃなくて、当真くんの」
……妙なところ鋭いな。どうやって誤魔化そうかと思っていた私を覗き込む瞳には心配の色が含まれる。
「二人にはいつもみたいに仲良しでいてほしいからさ、ケンカなら早めに仲直りしなよ〜」
ケンカなんてしてないのに、仲直りという言葉は胸に刺さる。仲直りとやらでいつもみたいに戻れるのなら喜んでする。けれど仲直りの方法もわからなければ、“いつもみたいに”というのがどんな感じだったかも思い出せない。シていたことははっきりと思い出せるのにね。
仲良しってどんな関係だったか考えすぎて遅くなった「ケンカしてない」という否定を柚宇ちゃんは笑った。
それ以上追及されないとは思うけれど、たとえ柚宇ちゃんにであっても私たちのことを話すわけにはいかない。「ジュース買いに行ってくるね」と言って先に更衣室を出たのは逃げるためであることはきっと悟られていただろう。
膨らんでいくもやもやとした感情に目を背けることもできなければ、見つめていて答えがでるわけでもない。元に戻りたい。そんなことできるわけない。でも当真は戻そうとしてくれている。戻れないでいる一番の原因は意味の解らない自分自身。
特に飲みたくもないミルクティーのボタンを押すと音を立てて吐出された。しばらく佇んで、ようやく取り出そうかと思い始めた矢先だった。
「なーにやってんの」
「……当真」
「ジュース買わねぇの?」
「買ったよ」
ジュースは買った。屈んで取り出し口を覗くとミルクティーが私を待っていた。それを取り出して横へ避けると、当真も自販機へ小銭を入れてボタンを押す。すぐに音がして取り出されたのは私と同じミルクティー。
「珍しいね」
「なまえが持ってんの見たら欲しくなった」
「そうなの? 言ってくれればあげたのに。なんか飲む気なくなっちゃって」
ただ買っただけのミルクティーを当真へ差し出すと、表情が一瞬だけ曇る。そして吐き捨てるように言われるのは「お前そういうとこあるよな」という呆れ混じりの言葉。親切で言ったつもりだったのになにがダメだったのか。わからないまま私はミルクティーを引っ込めた。
お互いに紙パックへストローも挿さず、話題でも探すみたいな静かな空気が耐え難かった。
「教室、もどろっか」
私はそんな沈黙の間へ背を向ける。いままでこういう時に当真とどう会話していたかわからない。周囲に人気なんてすっかりなくなって、もうすぐ授業の予鈴も鳴る。
「なまえ」
こんなふうに私を呼ぶ当真の声はきいたことがなくて驚いた。気安くもなく、楽しそうでもなく、バカにしたわけでもなく。割れて壊れそうな音にきこえた。
振り向いたすぐそこへ当真がいた。顔も見えないほど近い距離で、柚宇ちゃんが私から匂わなくなったと言う甘い匂いが体の中に入ってきて、ひどく胸の奥が痛んだ。
「……どうしたの、当真? なにかあった?」
うるさく鳴る鼓動が、体中にひびを入れていくようだ。もしくは火傷をした時のようにヒリヒリとするような。
当真の両腕が体を締めつけ肩口へは彼の鼻が触れている。後ろから抱き締められることなんて前は日常茶飯事だったのに、身動きでも取ろうものならいまの私は……
「なんでもない」
ほんのちょっとの出来事だった。あっという間に離れていった男はいつもと変わらない表情を浮かべている。
「やる」と言って手の中に置かれたもう一本のミルクティー。くれるぐらいならどうして買ったのか。いらないのに私が持っていたから買ったなんて、理由としては不十分過ぎない?
予鈴が鳴る。私は先に階段を昇っていく当真の後を五段開けてついていく。私を待つでもなく置き去りにするでもなく、ついていきやすい速度で一段ずつのぼる。私たちの関係も一歩ずつのぼっていけば、こんなことにはならずに横へ並んでいられたのかな。
友だちとして仲良くなって、少しずつお互いを知って、恋と恥じらいが入り混じって、好きと伝えて、もっと知りたくなって、触れ合いたくなって。
長身細身の体はやや猫背。前を歩く当真のそんな背中を見て、後ろを振り向いてくれないかななんて勝手なことを願っている自分がいた。
「なあ」
些細なことに心がざわめく。もしかしてこの距離だと心の声が聴こえてしまうのだろうか。背中を見ていたのだから当然視線は上がっていて、あとは当真が合わせるだけだったのに。
「今日、一緒に帰ろうぜ?」
「……うん。いいよ」
目を合せようとしているのは自分だけだと気づいたのは、もう一度背中を向けられてからだった。
私は目が合うことを期待していたの? 振り向いてって願ったら振り向いたことが嬉しかったのに、視線が合わなくて期待を裏切られた気になっているの? でも一緒に帰ろうと言われたことには肯定の返事をしているの? いつからこんなふうに思うようになったの?
自分のなかにある一喜一憂の正体にいまごろ気づいてしまう。
……わたし、好きなんだ。当真のことが。
そこにある感情がいままでのそれとは比べ物にならないほど大きかったことを知る。大きすぎて、見えていなかった。大事なところを飛ばして手に入れていたものの価値をわかっていなかった。当真のことが好きなんだ。他の誰でもない、当真勇が。
温かな海の波のように自分へ押し寄せてくる感情に目も当てられない。こんなの、遅すぎる。いまさらそんなこと声に出して伝えられるわけない……。
泣きそうな思いで再びその背中へ視線をやり、自分の中に見つけた答えの先を探す。