09 いっそ捕まえて
「……当真のこと、わかんない」
わからないのはこっちだ。ずっと俺に甘えてたくせに突然ひとりで理性を得たように距離をとられ、こっちはおいてけぼり。そのくせやたらと視線を寄越しといては逸らされる。自分勝手に人を振り回すひどい女だと誰もが言うだろう。そんな女だとわかっているくせに、大人しく振り回されている自分の女々しさに呆れてしまう。
そして今はこれ。ゼロよりも近い距離で俺を見てきたのに、本気の顔して俺のことがわからないと言い出す。ある日を境に好きな男の皮を被せられていたことは理解していても、そんなにも自分がこいつの視界に入っていなかったのだと思うとさすがに傷つかざるをえない。
いつだったかこの状況を見かねた国近に「未練がましい」と笑われさえしたが、それでも割り切れなかった自分が悪かったのか。
「いい加減わかれよ。なまえ」
友だちで居続けるのも認める。触るなって言うなら触らない。でもお前を好きだという気持ちだけはいますぐどうこうできるわけじゃない。そんなことができるなら、きっと世界の誰も本気で人を愛するなんてできやしないのだから。
「わ、わかんないって! ……え、当真、わたしのこと、すきなの?」
大きな瞳を広げてまじまじとこちらを見る。いま初めてその瞳に映っているのが自分なのだと実感できたなんておかしな話だ。
これだけ言っても誰が誰を好きかという答えに辿り着けないほど鈍い女ではなかったらしい。安心していいのか、そんなにもわかりにくかった自分の愛情表現を恨むべきか。
「それ以外にあるかよ」
少なくとも俺はお前より理性的だったし、あんな関係に持ち込んで、適当に切り捨てるような人間ではない。最初から惹かれるものがあって、感情が伴っていたからこそのこと。あの関係。
そうだと自分の気持ちを明確にしなかった自分が悪いことはわかっているから、いまさらなまえにまで同じものを求めてはいない。
こんなことを言っても笑って誤魔化されるか、勝手に距離を開けられるだけだろうと思っていた。なんせ「わからない」と言われてしまうぐらいだ。
「その反応は意外なんだけど」
「っだって――」
自分が想像していた反応は妄想と期待の産物だとばかり思っていた。こいつも俺を好きで晴れて両想いのハッピーエンド、なんて夢物語だとばかり。
片手では隠しきれない顔も髪をかけた耳の先も、熱そうなほど赤い色。
「当真、彼女欲しいって言ったじゃん」
「ああ。お前に彼女になって欲しくてな」
「そんなこと一言も……」
「あんな関係になったら言わなくてもわかるかと思ってた」
一歩だけその距離を詰めると、邪魔な傘同士がぶつかって雫が落ちた。こちらを見上げるために開かれた目からも。まじまじと見るとやっぱりそこに映っていたのは自分の姿。
「なんでっ、もっと早く言ってくれなかったの!」
「言ったろ。俺にしとけって」
「それは好きだからでなくて、あの場の流れで……なぐさめてるだけかと思ってた」
「それも俺流とかいうやつ? んなこと誰にでも言わねえししねえよ。んとにお前は常識ねえなぁー」
触れてもいいのかわからない。でも好きな女の頬を流れているのを見過ごせる男でもなくて。大人しく拭われるなまえは、こういう行動も“なぐさめているだけ”って受けとっているのかもしれないし、“この男そんなに私が好きなのか”ととっているのかもしれない。
「…………いまさら、わたしも好きだなんて、言えないよ」
頬に添えていた指先が熱でじんわりと熱くなってくる。こんなにもなまえを困らせた顔させていることにも、降りしきる雨でぬかるんだ足元も、どれをとっても最悪な状況なのに。
「なんだそれ」
その瞬間はっと息を飲む姿が見えたけど、すぐに傘へ隠れ「なんでもない!」という訂正が飛んできた。ビニールの傘越しに逃走経路を確認していることだけはわかって、そこも塞ぐ。
「もう一回言ってみ?」
「なんでもないって! ……聞かなかったことにして、まだ」
「まだ?」
「…………まだ」
「それいつまで? 来週? 明日? 一時間後?」
「短すぎ! 一ヶ月、とか……」
「んなに待てるかよ」
「スナイパーでしょ!?」
「の前に一人の男なんで。それとも今から俺んち来る? ベッドでゆっくり話、聞いてやるけど」
「当真!!」
ふざけないでとなまえは怒るが、ふざけでもしなければどんな態度でいていいのかわかんねえよ。ここで冗談を真に受けて痛い思いをするのはこりごりだと予防線を張るのに、なまえの表情は強張ったまま。もしそうなら。もしも本当に望みがあるなら――。
雨粒が流れて俺の傘からなまえの傘へ流れ落ちる。
「俺はもう待てねえよ」
いまのうちに繋ぎとめておきたい。また突然どこかの誰かに「かわいい」と言われたぐらいで奪われるのはたまったもんじゃない。お前を奪われて悔しいのも悲しいのも苦しいのも我慢はできる。でもそれは、お前を欲しいと思う感情を制御できるわけではない。
「自分の気持ちに気づいたのだってさっきなのに、あんなひどい関係で振り回しておいていまさら……」
「それでもいい」
雨足が弱まっていた。まだ降り続くと天気予報が言っていたから、一瞬のことかもしれない。邪魔な傘さえなければいっそ抱きしめられたのに。
この女はバカみたいに恋に夢見てるとこがあるから、本当はもっと話術があってくさいセリフをサラッと言えるような男を好きなのかもしれない。可愛いやキレイって素直に言ってくれるような。
んな恥ずかしいこといちいち言わねえけど、好きなのは態度でちゃんと示すから。
「俺にしとけよ、なまえ」
遠回りしすぎたけど、近道だってわからなかったし、後戻りだってできなかった。
なまえの表情から揺らぐ気持ちが垣間見える。でもその決意の半分は、“今か、少し先か”の違い。どうせ選ぶなら今からにしとけばいい。お前のどうしようもないわがままも、今までの後悔も、懺悔も聞けるのは俺しかいないんだから。
だから、他の誰でもない、俺を見てくれ。
小さく頷くき、頬に触れていた俺の手を細い指先が掴む。雨のせいでひんやりとした空気は、手の温かさと対照的だと思った。
「私にやさしすぎでしょ」
「それは俺流」
笑っているところはよく見ていても、やわらかく崩れた表情を見るのは久しぶりな気がした。そしてそれが俺に向くのも。
「かわいーの」
「なっ、なに言ってんの」
いまがそのタイミングなのかと思ったが、どうやら正解だったらしい。が、予想以上にたじろぐ赤い顔。たった「かわいい」一つでこの反応。単純な女。鈍くて、どうしようもなくわがままで、救いようがない。きっとこんな女のそばにいられるのは俺しかいない。