08 伸ばした手
教室へ戻る廊下を歩きながらこれからのことを考える。すると突然足は遅くなり今にも止まってしまいそう。心臓の音がゆっくりと、けど大きく意味ありげに響いて気持ちが悪い。
ついに止まった足。その場で窓の外にある、いくつもの景色に視線を移しても私の心と見合うものなんて見つからない。小雨が降り、白や透明に混ざって色のついた傘が歩いている。土砂降りの雨が降っていても奥の方は晴れ渡っていたらいっそ見合ったかもしれない。そんなことを考えても気は紛れなくて、結局また一つのことを考え始めてしまう。
自分の気持ちがはっきりした途端、今度は当真の気持ちを気にし始めていた。一緒に笑っていた時、私の話を聞いていた時、セックスしていた時、当真はなにを考えていたんだろうって。人を寄せ付けなさそうな見た目の割に滅多なことでキレたりしなくて、誰に対しても分け隔てなく優しいのが当真勇。もちろん例外なく私にもそういう接し方だった――最初の頃は。
いつの間にか逸れていた視線を戻し、小雨が降る窓の外を見つめても、胸の痛みが視線を遮る。
「……私が、悪かった、っのかなぁ」
廊下も教室もどこも静かで雨の音がノイズのようだった。それに混じる感情的な声は、自分の教室へ近付くたびにはっきりとする。聞き覚えのある声だとわかった時には、なんとなく気配を潜めるように近づいた。
「んなことねぇよ」
「わたしは、ずっと、すきって言ってたのに……」
「ああそうだな」
「いっこも伝わって、なかったって、そんなのってないよ」
たぶん泣いている声の主は柚宇ちゃんで、話を聞いているのは当真だろう。教室の中の気配は他に感じられない。
足りない頭で考えるに、柚宇ちゃんが彼氏にフラれたという話なのではないだろうか。スマホを確認しても仲良しグループの会話にそんな話題は上がっていないから、ついさっきの出来事だったのかもしれない。偶然その現場にいたのか、はたまた事の顛末を知っているのであろう当真が柚宇ちゃんを慰めているということはわかる。
入ろうか入るまいか悩んだ末、音も気配もたてないようゆっくりと扉の隙間から中を覗き込む。二人はひとつの机を間に向かい合っていた。
机に肘をついて顔を覆っている柚宇ちゃんは小さな肩を震わせていて、それだけで別れた元彼氏に殺意を抱きそうだ。反対に、気だるげに足を伸ばしだらしなく背を凭れて座る当真は、こちらではなく教室から見えるどんよりとした窓の外を見ていた。
「わかりやすく態度に出したって伝わらねえのにな。国近が悪いわけじゃねえよ」
柚宇ちゃんに限らず、ボーダー隊員は学校以外のほとんどの時間を訓練や防衛任務に当てている。それが当然だし、そうして三門市は守られている。私たちがその職分をよくよくわかっていても、ボーダー隊員でない人たちがそうだとは限らない。その差を埋めるのは難しいっていつも恋バナの時に議論される話題。
当真の言うとおりだ。柚宇ちゃんが悪いわけじゃなく、私たちに理解がない元彼氏が悪い。柚宇ちゃんはいつだって好きって感情を全力でアピールしてたし、言葉にだってしていた。前に見てしまった、彼氏に抱きついている柚宇ちゃんはすごく幸せそうな顔をしていたというのに、それをあの男は知らなかったというのか。許せない。
「ごめんね、なまえ待ってるのに」
「あー、あいつならあそこ」
細い細い隙間から当真と視線が合う。ドキリともギクリとも心臓が鳴る。いつから気づいていたのか、どうして気づいたのか。ゆっくりと扉を開けて恨みがましく睨みつけた。
「覗きなんて趣味わりいの」
「……声かけれる雰囲気じゃなかったじゃん」
目をぱちくりと瞬いた柚宇ちゃんがふにゃりと柔らかく笑ってくれる。こんな時にそんなふうに笑わなくたっていいんだよ。柚宇ちゃんのそんな顔を見たら鼻の奥がつんとして、堪えきれずに抱きついていた。励ましの言葉をかけようと思ったのに出てくるものは涙に変わる。
二人で散々泣いて、ようやく落ち着く頃にはすっかり窓の外は暗くなっていた。瞼も重たい。柚宇ちゃんを家まで送り届けたら、当初予定していたとおりの二人きり。
柚宇ちゃんの元彼氏許せないという私の憤りを当真は「そうだな」とか「ああ」と受け流すものだから、あっという間に話すことはなくなった。沈黙の間に流れる雨の音がいっそう隔たりを作っているような。アスファルトの上の薄い水溜りの上を歩き、ビニールの上を流れる雨粒がくっついては流れ落ちていく。
少しだけ傘を傾けると、こちらに気づいた当真も視線を合わすように傘を傾ける。こうして目が合うだけで、妙な気まずさを感じるのは自分だけなのだろうか。誤魔化すように適当なことを言葉にした。
「そういえば。柚宇ちゃんのこと頭撫でて抱き締めてあげればよかったのに」
私が泣いている時、当真はいつだってそうする。だから向き合ってただ話を聞いているだけの姿はすこしだけ不自然に感じていた。
「なんで俺がそうすんだよ」
「なんでって……女の子はそうやって慰めるのが当真流でしょ?」
「なに言ってんだ」
「私にはそうしたじゃん」
私にはそうした日々というのを思い起こすとふたたび罪悪感に苛まれそうになる。一生あの関係に罪悪感なんて感じないと思っていたのに。
本当に罪悪感を感じない時があるとしたら、それはきっとお互いに自分たちじゃない誰かを好きになって、幸せになった時だろう。そうすればきっと、誰にも言えない小さな秘ってことで隠し通せていたんじゃないかな。そこへ辿りついていないのだから、ただ円満を描いているだけかもしれないけれど。
「おー、ヤリもしたしな」
ふっと崩れる表情。その笑い顔に嫌みったらしさもなければ、悪びれている様子もない。後悔さえも感じさせない。そういうところがいっそう当真のことをわからなくさせる。ううん。わかったことなんてない。わかろうとしたことだって今までなかった。でも今は、知りたいって、思うの。
「……当真のこと、わかんない」
傘の柄をぎゅっと握りしめていた。どう切り出しても、なにを話しても、今さら好きと言えないことに変わりはないのに。なにか変われって言葉の中に込めてしまう。
「そ? けっこうわかりやすいと思うよ、俺」
「全然わかんない。……いまだって、なんで一緒に帰ってるの?」
「一緒に帰りたかったから」
「なんで」
「なんでって、いままでもそうしてたろ」
「そうだけど……もうあの関係はやめようって……」
「ああ。それで友だちだろ? ちゃんとわかってるって」
自分が押し付けた関係のくせに、はっきりとそう言われると、バカみたいに胸が痛い。いっそあの関係のほうが良かったかと聞かれるとそうじゃないと否定はできるのに。
「なに心配してんのか知らねえけど、無理矢理しやしねえよ。友だちでいるぐらいいいだろ。今だって送ってやってるだけ」
はっと息を飲んでからは呼吸ができなかった。しとしとと降り続く雨にでも溺れてしまったのだろうか。
「嫌ならもっと距離開けるし、触ったり話しかけたりもしない」
わかりそうでわからない答えばかりが返ってくる。
「いい加減わかれよ。なまえ」
呆れた表情で笑う当真の視線の先にいるのは、愚かな自分がいる。