03
なまえの背中が見えなくなるまで見送ったあと、横にいた木虎に「何か用でしたか?」と言われて、預かっていたものを思い出す。先に雑誌の取材を終えた彼女がメイクルームにハンカチを落としていったと、スタッフから預かっていた。要件はそれだったのに、なまえとあまり交わらなかった視線の理由を考えていれば、そんなことはすっかり抜け落ちていた。
ピンクの可愛らしいハンカチを手渡してから自分たちの作戦室へ向かって歩きはじめる。なまえが消えて行った方向とは真逆の道。一瞬だけ追いかけたほうが良かっただろうかという考えが過るも、そうはしなかった。
長く一緒にいるからかわかる、勘というか慣れのようなもの。彼女は時々俺のことを避ける。理由は深くまではわからないが怒って、とか、嫌いで、というわけではないことが救い。数日もすればいつも通りに戻るから、きっと彼女のなかで考えをまとめたい時があるのだろうと思うことにしている。
でも今は少しだけ思い当たる節があった。先日の「不満はない、大好きだ」と言った時のやり取りだろうか。上手く誤魔化したつもりかも知れないが、なまえが求めているのは違う答えだったのだと思う。
いつも通りの中にある小さな綻びに気付かないほど疎くもないが、その綻びの直し方がわかるほど器用でもなかった。
「――やまさん、嵐山さん?」
「あ、悪い。どうした?」
「どうした、じゃないですよ。もしかして、みょうじ先輩のこと考えてました?」
何度か名前を呼ばれてはっとした。怪訝そうな顔がこちらへ向いて、中学生らしくない考察の末の言葉。
木虎は頭もよく、仕事もまじめで、とても冷静で大人びたところがある。でもそれは結局木虎の一面にしかすぎず、烏丸隊員を前にした時の木虎は年頃の女の子で微笑ましい。だからそういう話題にも積極的なのだろう。
「みょうじ先輩少し様子が変でしたもんね」
いくら頭がいいとはいえ中学生の木虎にそれを悟られるなんて、自分たちの至らなさに苦笑いが漏れた。どう誤魔化すべきか。
話題を逸らすべきだろうと「なまえとなに話してたんだ?」と軽い気持ちで話を振れば、呆れたように眉間に皺を寄せられてしまった。
「……嵐山さん。毎回思いますけど、そういうとこ重いですよ」
「え」
「無自覚なんですか? 自分の知らないみょうじ先輩のこと聞きだそうとするの」
「…………俺、そんなことしてる?」
「はい」
適当に振ったつもりの話題は、実は適当なんかではなく、定型文として俺自身がよく使っている言葉だったらしい。
「そうか?」と否定を促してみても「はい」という肯定が再び返ってくる。指摘されて初めて気付いたが、確かに思い当たる節がないわけでもない。それを重いと言われることにも驚いたし、そう思われるほど無自覚にも無意識にも聞いている自分に驚き呆れた。
「ただ二人の関係が羨ましいなって話していただけです」
「羨ましい?」
この女の子の目には俺たちの関係がどういうふうに見えているのだろうか。何かを思って突然俺を避けようとする彼女と、その彼女の気持ちを推し量りかねて追いかけるか追いかけないかも決められない、そんな関係だというのに。
羨望に値するようなものではないような気がする。
「二人はとてもクールで大人な関係だと思っていました。でも、嵐山さんのそういう言動はどちらかといえば愛が重いし、みょうじ先輩の先ほどの寂しそうな表情を思えば、……意外と二人も並みの恋人のようにすれ違ったりするんですね」
この大人びた女の子に返せる言葉は「そうだな」ぐらいしかない。なんたって自分たちが一番もどかしい。「恋愛のことはよくわかりませんけどね」と言う木虎のほうが、俺よりもよっぽどわかっているような気がする。
三年も一緒にいてわからないこともたくさんあって、とりあえずやり過ごしてきた揉め事もにも満たないようなこともあったり、言葉が足りないのに「ありがとう」や「ごめんね」でわかったようなフリをしていることだってあった。
三年も一緒にいるのに、二人してお互いに踏み込みきれないのだ。
それらの言葉を全てさらけ出すわけにもいかず、含みのある笑いで「それでも俺はなまえを好きだから」と言うと「私に言うことじゃないです」と一刀両断された。まったくもってその通りだ。
「あと、さり気ないつもりでしょうが、“俺のだから”アピールも鬱陶しいです。言われなくてもわかってます」
厳しい部下の言葉は追尾弾のようで、シールドのない今は避けようもなく胸へと刺さる。
さて、どの行動を指して言われた言葉だろうか。さっきの「なにを話していた?」についても、たぶんそういうこと。
気になっただけといえばそうだが、その根本を辿れば「彼女となにを話していたのか」が気になったわけで、全てを知りたいという気持ちと他の人には知られたくないとか、彼氏の俺には聞く権利もあるよなとか、色々ごちゃごちゃしたものがないまぜになった感情のなれの果て。
思わず手で顔を覆った。
「……だよな」
「そこは自覚あったんですね」
背筋をぴんと伸ばし、自分の進行方向を真っ直ぐに見つめるこの子には、きっとそういう一面はないのかもしれない。し、もしかしたらまだ芽生えていないものかもしれない。
自分たちの作戦室までの短い距離で、なんとも情けない胸の内を四歳も年下の女の子に吐かせられるとは。木虎は本当に将来有望だなあ。
「そんなことしなくてもみょうじ先輩はじゅうぶん嵐山さんのこと好きですよ」
「ありがとう。木虎はいい子だな」
子ども扱いしないでくださいと言われながら、とても子ども扱いなんてできないアドバイスをもらっている。
◇
作戦室へ戻ると、少しの書類整理では済まなくて結果二時間以上も業務をこなしてしまっていた。なまえを待たせていなくて良かった。
帰ろうと道すがら通りかかった個人戦のラウンジがいやに騒がしくて、顔を覗かせる。が、すぐに引っ込んで、横の通路に抜けるというらしくない行動に出てしまっていた。
「太刀川さん相変わらず強いですね」
「そりゃ、なまえも見てるし、迅相手だとやっぱ本気になるだろ」
「久しぶりの個人ランク戦なんだからもう少し手加減してくれても良かったのにー。太刀川さん大人げない」
「一つしか違わねえだろ」
身を潜めた自販機の横は、蛍光の明るさとは逆に薄い影になっていた。出て行くタイミングはもうない。
「先に帰る」と言っていたはずなのに、彼女はオペにとって用のない個人戦で太刀川さんと迅といたのか。
いつもなら明るく笑って声もかけられたであろう。例え避けられていようと何食わぬ顔で「一緒に帰ろう」と誘えたはずだ。彼女だって困った顔はしてもそれでも優しく笑って「うん」と言ってくれていたと思う。そしていつも通りに戻れたはずだった。
三人で楽しそうに笑うなまえの笑顔は無邪気で、自分の好きな彼女の表情なのに。胸の奥がぎしりと痛んでしまう。
もっと彼女の声を聴ける男なら良かったのに。せめてもっと耳を傾けるなり、問うなり努力する必要があった。そんなこともできていなかったのだと、三年越しの反省は深く心に刺さる。
案の定あれから数日が過ぎてもなまえからも連絡は来なくて、自分からもできなくて日にちが経つばかり。仕事に没頭しすぎている自覚はあったが、時枝に「いつも以上に隙がないけどどうかしましたか」と聞かれても、褒められていることにした。
絶対に考えないようにしていた悪い考えは何度も巡る。それでも帰結する答えは、一つだけ。こんな自分にどうしようもないなと呆れ笑うしかない。
「……なまえ」
「あっ、……准」
だから偶然のチャンスが本部通路の真ん中でやってきても、答えはまとまっていなかった。
担当:ZK
WT liebe refrain [ 03 ]