02
結局その日、彼の家には泊まらなかった。理由は特にない。しいて言うなら、そういう気分になれなかったから、だ。
彼のことは当たり前のように好きだし、彼も同じように想ってくれていると思う。というか、そう言われた。その言葉を疑ったことは一度もないし、今後も彼の言葉を疑うことはないだろう。それならばなぜ、私はこんなにも不安で堪らないのか。
彼の前に、私なんかよりもっと素敵な人が現れて心が離れていってしまうのが怖いから? 違う。今だって私より魅力的な人が山のようにいるボーダーで、彼は私だけを見てくれている。ボーダー内だけではない。大学においても、彼を狙っている女の子は沢山いるだろう。完璧な容姿と性格を兼ね備えている彼なら選り取り見取り。それなのにこの三年間ずっと、浮気の「う」の字もない。だから、自分に自信はないけれど、彼がそう簡単に他の女性に目移りするような男ではないという妙な自信だけはあった。
じゃあ、彼とこれから先の未来が見えないことが原因? それも違う。いくらボーダー隊員として働いていてそれなりに給料をもらっているとは言え、私達は未成年。未来が見えないのは当然と言えば当然だし、私はそんなに遠いところまで彼に何かを求めるほど強欲ではないつもりだ。それならば、他に不安要素の原因となるのは何だろう。
考えずとも、答えは分かっていた。彼には何の原因もないってこと。私がただ、自分に自信がなくて、彼の隣に存在するだけの価値が見出せなくて、だからどれだけ長い年月を共に過ごそうとも、溢れんばかりの愛の言葉を囁かれようとも、この不安を埋める方法はないってこと。
好きだ、とか、可愛い、とか、兎に角そういったプラスの言葉を投げかけられる度に、その言葉が私にとって重石となって圧し掛かってくるような気がしていたけれど、気付かないフリをしていた。私も好きだよ。ありがとう、嬉しい。その呪文を唱えることで、自分に魔法をかけようとしていた。しかし私は魔法使いじゃないから、そんなまやかしはいつまでも通用しない。
そう、私はめんどくさい女なのだ。だからこうして、うだうだと悩み始めたら止まらないし、そう簡単には気持ちを浮上させることができない。佐鳥と時枝が言っていた、熟年夫婦みたい、というのは果たして褒め言葉だったのだろうか。初々しさが感じられない、キラキラした雰囲気がない、そういう意味も孕んでいたんじゃないだろうか。彼らはそんなことを思うタイプの人間じゃないと分かっているけれど、負の連鎖は止まらなかった。
「浮かない顔してるね」
「…迅」
「そんな嫌そうな顔しなくても」
「嫌そうな、じゃなくて嫌なんだよ。何視られるか分かんないもん」
「ひどいなあ…折角ちょっと助けにきてあげたのに」
「助けにきた?」
「そう。実力派エリートは何でも“お視通し”だからね」
特に用事がなくともボーダー本部に来てしまうのは、もはや習慣というやつだろうか。いつもは嵐山隊の作戦室に行くのだけれど今日はそんな気分にもなれず、そもそも准に会うのはなんとなく気まずいような気がして、彼を避けるように、あてもなくうろうろしていたところに現れたのが迅悠一。相棒であるお菓子の袋を片手に「ぼんち揚げ食う?」とお決まりのフレーズを投げかけてきた彼は、相変わらず掴みどころがなくて苦手である。
彼には何でも“お視通し”。それは確かにその通りだろうと思った。そして何かが視えたから、私を助けにきてくれた、と。そういうことなのだろうけれど、今回の場合、助けにきた内容はほぼ間違いなく准との関係に関することだろうから、私は眉根を寄せてしまう。だって、いくら同い年の友人とはいえ、他人にプライベートな部分に踏み込まれるのは良い気持ちがしないではないか。
「いい。助けはいらない。遠慮しとく」
「まあそう言うと思ったよね」
「分かってるなら来なくてもいいのに」
「さっき嵐山に会ったよ」
まったくこの男は。こういうところが苦手なのだ。准の名前を出したら私があしらえないことを心得ている。きっと彼の思う壺なのだろう。それを分かっていながらも「それで?」と話の続きを促してしまう私は、つくづく、嵐山准というフレーズに弱いなあと苦笑するしかなかった。
「単刀直入に言うと、未来はまだ決まってない」
「……だから?」
「そんな怖い顔しないでよ」
「分かりやすく簡潔に言って」
「まあそう焦らないで。…近々、分岐点が訪れる。だからその時は、」
「その時は?」
「嵐山を信じてやってね」
「そんなの当たり前でしょ」
「それから、自分のことも」
その言葉に対しては「当たり前でしょ」と答えることができなかった。何度も言うようだけれど、私は自分に自信がない。だからこうして負のループをしているわけであって、自分のことを信じてやれるだけの心を持ち合わせていたら苦労はしていないのだ。
口籠る私に迅は言う。「じゃあ伝えたからね」って。これのどこが助けにきたと言えるのか、私にはさっぱり分からなかったけれど、迅は満足そうに去って行った。本当に自由な男である。こちらは余計に胸にもやもやとしたものを抱くハメになってしまったというのに。
さて、それにしても、分岐点とは一体何だろうか。特別な事件が起こるとか? 大規模侵攻のような事件であれば私なんかにアドバイスしに来ている余裕はないだろうから、そういった類のことではないのだろう。けれど、それ以外に分岐点となり得ることなんてあるのだろうか。私には見当もつかない。何にせよ、迅によるとその分岐点が私達の未来にとって大きな役割を果たすことは間違いないらしいから、そこで道を間違えないようにしなければ。
「あ、みょうじ先輩」
「木虎ちゃん。お疲れ様」
「お疲れ様です。嵐山先輩なら…」
「ああ、いいのいいの。今日は会う約束してないし」
「そうなんですか? 珍しいですね」
「そういう日もあるよ」
嵐山隊の面々の頭の中では、私を見たら准の所在を教えなければならない、みたいな方程式が成り立っているのだろうか。木虎ちゃんまでもがその洗脳にかかっているのだと思うと少し恐ろしいような気もしたが、准のいるところに私がいるべきだと思ってくれているのだとしたら擽ったくて嬉しくて、少しだけ気分が上向く。
今日は雑誌かテレビの取材だったのだろうか。何もしていなくても綺麗な顔立ちの彼女の容姿が、更に整えられているような気がする。そんな美少女が大きなくるりとした眼でじぃっと見つめてくるものだから、私は気恥ずかしさを隠すように「どうかした?」と声を落とした。
「…少し、羨ましく思うことがあります」
「何を?」
「嵐山先輩とみょうじ先輩の関係を」
「えっ、なんで? どこらへんが?」
まさか木虎ちゃんからそんなことを言われるなんて思っていなかったから、私は食い気味に疑問符を投げつけてしまった。私と准の関係が羨ましいだなんて今まで誰にも言われたことがなかったから、余計に食いついてしまったのだろう。嵐山准と付き合えるなんて羨ましい、と思われることはあっても、その関係自体を羨望されることなんて一生ないと思っていたのに。
先ほどとは逆に、私が木虎ちゃんをじぃっと見つめる。木虎ちゃんはその視線が鬱陶しくなったのか、熱量に耐えられなくなったのか、おもむろに目線を逸らしながら、えーと、と言葉を選んでくれているようだ。後輩を困らせてしまって申し訳ないとは思っている。が、今回ばかりは許してほしい。
「嵐山先輩もみょうじ先輩もお互いに干渉しすぎない関係というか…あまり外にそれらしい雰囲気を出さないところがさすがだなと」
「ああ…なるほど」
「あまり恋人っぽさを感じないところに好感が持てます」
「……それは褒めてる?」
「はい。それでも仲の良さが窺えるのですごいなあと思っています」
聡明な彼女らしい、簡潔で分かりやすい、真っ直ぐな言葉達だった。ただそれらは、私の中でまた小さな蟠りとなる。やっぱり私達って、そんなに恋人っぽく見えないのか、と。仲が良さそうには見えるけれど恋人っぽさは感じられない。佐鳥や時枝の言っていた熟年夫婦のそれと同じことを、木虎ちゃんは羨ましいと言ってくれた。これは果たして喜んでいいことなのか。
嵐山隊はその仕事上、メディアに露出することが多い。だからこそ、ボーダーの顔である嵐山准と外でいちゃいちゃするのは絶対にアウトだ。それは私も准も心得ているし、この三年間、きっちり上層部の言いつけを守ってきた。二人の元の性格に加えてそういった事情もあって、いちゃいちゃ、恋人らしくラブラブな雰囲気、になったことは殆どない。それが今更になって気になり始めるなんて、やっぱり私はめんどくさい女だ。
「木虎! と…なまえじゃないか」
「准、」
「何かあったのか?」
「ううん、何も。たまたま会っただけ」
「そうか。ちょうど良かった。今から少し書類の整理をしたら帰れそうなんだが、一緒に…」
「ごめん。今日はもう帰ろうかなと思ってて」
「…そうか。分かった。気を付けてな」
「うん。ありがとう。木虎ちゃんも、またね」
「はい」
二人に手を振って踵を返す。つい今しがた来たばかりのくせに、もう帰ろうかなと思って、なんて下手くそすぎる嘘を吐いたことは准にバレてしまっただろうか。私の嘘に気付いていたとしても何も詮索せずに手を振ってくれる優しい人。私が触れてほしくないことには触れてこないし、深入りしてこない空気が読める人。でも、ねぇ、准。もしかしたら私はとんでもなく我儘で聞き分けのない女なのかもしれない。こんなにも満たされているのに、愛されてるって分かってるのに、何かが足りない、なんて。
担当:あげはさん
WT liebe refrain [ 02 ]