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08
せめて授業中に泣き出すようなことにならないように気をつけようと張っていた気も、ふとした瞬間に崩れてしまった。
今日最後の授業が始まる直前に、廊下にあるロッカーへ教科書を取りに出た瞬間にポタリと手元に落ちた水滴。
透明なはずのそれは、私の心を写してまるで濁り水。
ぎゅっと捕まれたように痛み出す胸が呼吸さえできなくしてしまいそうで、苦しくて、逃げ出した。

失踪事件は何回目かな、なんて自嘲気味に笑えてくる。



彼から逃げ出した二回目もこの教室に逃げ込んで泣いてたな。
あの時は好きバレしたことが恥ずかし過ぎて、でもその後誰もいなくなった教室で項垂れていたらまさかの伊佐敷くん来て…。
ちゃんと好きって言って
少しずつ距離が縮まっていく気がして
野球を教えてくれて
長電話してくれて
キャッチボールしてくれて

全部、全部好き過ぎて
このまま友達を続けることが勝手に苦しくなったのは、私。
それに気づいた途端、彼に連絡することは友達を続けることと同じな気がして、連絡することさえできなくなった。
もしかしたら彼のほうから来るんじゃないかなんて、淡い期待を打ち砕くように何事もなく過ぎていった一ヶ月。

「伊佐敷くん、好きだよ」

「…おう」

最後の告白でさえ返答は望んでいたものではなくて、それはきっと、つまりは…そういうこと。


席替えはいいきっかけ。
自分の気持ちを整理するためには好都合だと思うようにした。

今は、変わりたい。

今さら遅いのはわかってるけど、伊佐敷くんと腕を組んだあの子のようにせめて対等になれるぐらい可愛くなれば、積極的になれば…。
その一心で変わる努力をしたけど、離れた席、連絡も取り合わなければ話すことのない関係で、私なんて彼の視界にさえ映らないのが現実。

虚しい努力を続ければ続けるほど、泥沼に足を取られて身動き取れない状況。

「お前、頑張る方向性間違ってる」

なんて今の私を見かねた亮介に指摘されて、わかってるけどもうどうしたら良いのか、完全に道を見失っている。
伊佐敷くんに好かれてもない、連絡も取れない、でもこの失恋を前向きに受け止めることもできない。
どうしたら正解なのかわかってるなら教えてよ。

挙句、久しぶりに話しかけてもらえたのにどう対応して良いかわからず、怒らせ背を向けられたのは二時間前…。




背中を預けた扉の向こうで、生徒が帰っていくような喧騒。
もう放課後を迎えたらしい。
何度も深呼吸を繰り返していたら、もう廊下は静まり返っていた。
教室へ戻らなければと、涙を拭い、ぐずぐずと鼻をすすったところでまた涙はぽたりと落ちる。
これからはもう二度と話すことさえ叶わないんだろう。

とぼとぼと長い廊下を抜け、自分の席がある前側の教室の扉を開けた。


「……!」


目が合った瞬間に反射的に身を翻したのは、そこに伊佐敷くんがいたから。

「逃げんな!」

捕まれる手を振り払おうとしても、強く握られた手首は距離を縮めるように引っ張られた。
意地でも顔を合わせたくなくて背中を向けたまま。

「なまえ …話がしてぇ」

なんで…
彼の話を今聴けるわけないし、どれだけ唇を噛みしめても、ずっとゆるゆるになってる涙腺を今更どうにかできるわけない。

「……ごめん、話は、今は、聞けそうにない…」

「っんでだよ!」

「なんでも…」

「言えよ!このまんまじゃ……気持ち悪ぃだろーが」

強引すぎるその言葉に、無理やり向き合う形を取れば、嫌でも涙で歪んだ顔を向けることになった。
これ以上みっともない所を晒したくなどないのに、絶対に食い下がってはくれない伊佐敷くん。


「好きだからだよ!」


大きく息を吸い込んで発した声は荒がる。
驚くように目を見開いた伊佐敷くん。
ずっと好きだって私は言ってたじゃないか。
今更そう簡単に好きをやめれるわけない。

涙がまたこぼれたって、堰を切ってしまえば言葉は止まらず溢れた。

「伊佐敷くんはなんとも思ってなくても、私は、まだ好きなの…!
どれだけ距離開けようとしたって、諦めようとしたって、まだ好きでっ…!」



「諦めんなよ!」



捕まれたままだった手首は開放されたかと思えば、強い力で引っ張られてそのまま抱きすくめられる。
触れている部分から熱い体温と早い脈拍が伝わってくる。

「…勝手に距離開けんな」

肩口に擦り寄るように額を置かれ、私は彼の胸元を涙で濡らし嗚咽を漏らした。

「なまえ」

そんなふうに呼ばれたら、期待したくないのに…

「お前に好きって言われたから、気になって好きなんじゃないかってずっと思ってた。
だから、なんて返事して良いかわからなくなっちまって…。
でもごちゃごちゃ考えてるうちに、お前は勝手に距離置くし、他のクラスの男子と仲良く話してるし。

……もう、俺のことは嫌いに、なったのかと思った」


腕に込められた力が強くなり、伊佐敷くんは拗ねたようにそう言った。
嫌いになんてなれるわけない。
抱きしめてもらえてるだけで、私の醜く歪んだ嫉妬とか劣等感とかそういうのが全部無くなって、単純に、

“私この人のことが本気で好きだ”

って実感させられる。


「嫌いに、なってない……ずっとっ」

上手く声が出ないけど嗚咽を堪えて発しかけた続く言葉は、優しく手で塞がれた。
俺にも言わせろ。
と、伊佐敷くんは塞いでいた手を放して、きちんと向き合う。
その手はそのまま涙をすくうように優しく頬を撫で、困ったように少し照れたように笑う伊佐敷くんの表情にどきりと大きく心臓が鳴った。



「あー…ダセェ。
漫画みたいにカッコ良くは言えねぇもんだな。

好きだなまえ。
俺と、付き合ってくれ」



どれだけ唇噛み締めたって、上を向いたって、止まらない。

「泣き過ぎだろ!しょーがねーやつだな!」

「だ、ってぇ…」

「……ホラ」

恥ずかしそうに顔を背けて、手を広げた伊佐敷くんが意味すること。
素直に一歩詰め寄ってその胸に飛び込んだ。

「っい、さしき、くん!すき、好きです…!」

「おう」

「私も付き合いたい、です」

吸い込む空気いっぱいに伊佐敷くんの匂い。
ゆっくりと顔を上げれば、近づく彼の顔に目を閉じた。

きっとそうだとはわかってはいたけど、柔らかく触れた唇は今までに知らない感触。



「よろしくな、なまえ!」






「ぶ、部活!行かないと…!」

「…なぁ」

離れた体温は少し名残惜しく。
伊佐敷くんはまたも口を尖らせていた。

「あの男…誰だったんだよ」

語尾は濁すように言った。
あの男、とは…?
首を傾げれば、お昼休みの!と声を荒げたから、慌てて答える。

「私の友達を好きな、隣のクラスのコージくんだよ」

お昼休み私の友達が委員会でいなくなったのを見計らってやってきて、恋愛相談を受ける。
私にできるアドバイスなんてなくて「頑張って」と言うのみ。

「コージ、くん…?」

「う、うん?ほらサッカー部の広田…」

「ちげぇよ!察しろよ!!」

「え?」

「……名前!なんでそいつは名前で呼んで、俺は名前で呼んでくれねぇんだよ!!」

言葉を咀嚼し、彼の表情の意味を考えながらも、いまさら?と考え込んでしまう。
コージくんは、最初にそう呼んでと言われたから、気軽に呼べたけど…。

心の中で一度呼んでみただけで顔に熱が集中する。

眉間に皺を寄せて不怪訝そうな伊佐敷くんは怖いというよりも、可愛くて笑ってしまう。


「純くん」


小さくそう発すれば、つられるように笑ってくれて、どくりと跳ねる心臓。
ゆっくりと太陽は傾いていく中、染み渡るように彼の好きと私の好きが心に浸透していった。


END


AofD 伊佐敷くんと付き合うまで [ 08 ]