03
目を潤ませ、真っ赤な顔で走り逃げたみょうじの腕は掴みそこなった。
なんで掴もうと思ったのか、自分でもまだ明確な答えを見いだせていない。
けれど、話の流れとかここ最近のみょうじとの会話とか、そんなことを思えばいくら俺でもなんとなく、なんとなく、もしかして…と。
「あーあ、逃しちゃった」
亮介は少しも残念そうではなく、面白いもの見つけた時の期待に膨らんだ顔をしていた。
「お前なぁ…」
「小さい頃にいじめすぎたみたいで、高校に入ってからは全力で避けられてたんだよね。俺たち」
“たち”って言うから、おそらく弟も入っているんだろう。
この二人と従兄弟なんてみょうじを少し哀れに思ってしまった。
「最近よく野球の話をするなまえの好きな人って、誰だろうね?」
すげぇ視線突き刺さってんだけど。
ただならぬ殺意的なものを感じて、合わせることはできない。
みょうじが俺以外の男子と話していることをまず最近見たことねぇしな…。
授業が始まってもみょうじは戻ってこなかった。
空いた席をぼんやりと見つめ、そこの席の主のことを考える。
野球漬けの毎日に、色恋沙汰なんて小学校の初恋がどーのこーの以来だろ?
そんな感覚すっかり忘れかけてたというか、忘れていたというか…。
春に確か隣の席だったことが一回あって、授業とかで数回話をした程度。
へラリと笑う顔がなんつーか…可愛いつーか…。
そんな印象で。
それ以降は、今回の席替えまで話す機会もなく、むしろ隣になったからって話すわけでもなかった。
あの雨の日に席を譲ってもらったことをきっかけに、話せるようにはなったけど。
こんなことになるなんて、願っても無い……いや、落ち着け?
これは、好きって言われたから気になってるってやつで…そもそも「好き」って言われて…
「っさしき!!伊佐敷ィ!!」
突然、現実に引き戻される怒鳴り声に驚いて、机に付いてた肘ががくりと落ちた。
うるせぇ世界史の先生の説教も途中から全然耳に入って来なかった。
「…ったな?!わかったのか?!伊佐敷ィ!」
「…ッチ…はい」
そこからも、もちろん聞いてるわけなくて、引き続きぼんやりと考えていればあっという間に放課後を迎えていた。
もちろんみょうじは戻ってきていない。
「じゃあ、遅れるって監督に伝えとくから」
「は?部活遅れんのか?」
「…もしかして、聞いてなかった?さっき世界史の先生、放課後来いって言ってたじゃん」
部活へ行こうと鞄を持って行けば、そう言われる。
嘘だろ?
そんなこと言ってたか?!
適当な返事だけはしたけれど。
「じゃ、先に行くから。…あ、あとあいつ野球のこと全く無知だからね」
もう一度、じゃあね、と言って亮介は教室を出た。
は?!
は?!待て待て待て!?
誰の話だよ!!
みょうじか?!みょうじなのか?!
「ダァァァッ!クソがァァァッ!!」
もう訳がわからなくて、イラつく気持ちのまま世界史の先生のとこに行った。
頭の中を占める人物はただ一人。
考えれば考えるほど、思えば思うほど、なんとも言えない胸の疼きに苛まれた。
グダグダ長い説教から解放されたのは、部活の時間が半分以上過ぎていた。
さすがにうんざり。
とっとと部活行くぞと意気込んでたが、教室に忘れ物したことを思い出し来た道をまた引き返す。
クソ…今日ツイてねぇ…
苛立ち任せに勢いよく扉を開けば、ビクリと動く一つの影。
誰もいないと思っていた教室の中で、ゆっくりと顔を上げる姿に凍るのは俺。
「あ……ッ!」
机に突っ伏していたみょうじは、気怠げに上げた顔で俺を見やると慌てたように鞄を抱えて立ち上がった。
「みょうじ!」
「っあの!亮介の、言ったこと、なんでも…ないから…」
“言ったこと”が指す言葉とは?
「…なんでもねぇことにして良いのか?」
そしたらまた明日から元通り朝から野球の話聞いてくれんのか?
別に野球の話じゃなくっても良いんだけどよ。
ばくんばくんと鼓動が嫌に大きく早く聞こえる。
「…っそんなの、卑怯だよ」
困ったように顔を歪めて涙をこぼす。
「好きバレして、フラれるのわかってるのに…」
「あ?んなことまだ決まってねぇだろ?!」
「決まってる!伊佐敷くん野球忙しいし、女の子に人気だし…」
「ああ、まぁ…そうだな」
野球忙しい。
本当それ。
恋愛を少女漫画で心満たしてたわ。
女子に人気かなんてことは知らねえ。
ふつうだろ?
「そこ認める?!」
「わかってて告ってるお前もその女の一人だからな?!」
「違うもん!……嘘、違うくなかった。
伊佐敷くんのこと、好きです。ごめんなさい」
変に気が抜けたのか、困った顔のままふにゃりと締まりのない顔で笑う。
なんだよクソ…可愛いなぁ!
さっきからうるさい鼓動もここまでくれば、なんの音かわからない。
「ごめんなさいつーのは、実は野球のこと全然詳しくなかったってことに対してか?」
「ぐっ…なぜそれを…亮介か!!」
「どーなんだよ?!」
「…ハイ、ゴメンナサイ。野球全然ワカリマセン」
「なんで最初に言わねぇんだよ!!」
「だって!伊佐敷くんと話せて嬉しかったから!!言い出しにくくって…」
なんなんだよ…突然素直になられたら、言葉に詰まるじゃねぇか!
みょうじのが移ったみたいに俺まで顔が熱くなって、ああ、俺何が言いたかったんだ?
「こんな私、幻滅したよ…「明日から!」」
遮るように張った声。
「明日から、ちゃんと野球教えてやっから…俺が」
踏み出す一歩は近づくため。
手を伸ばし、瞬きで溢れた涙を拭ってやる。
驚いたようで肩は揺れたけど逃げる様子はない。
大きく見開かれた瞳に吸い込まれそうになる。
でもそれはまた、ふにゃりとだらしなく笑った。
「うん!ありがとう、伊佐敷くん!」
AofD 伊佐敷くんと付き合うまで [ 03 ]