曖昧な特別
「及川〜さっきの授業のノート見せてよ」
「は?堂々と寝てたやつが何言ってんの?」
整った及川の顔が呆れ顔に崩れた。
昨日夜更かししすぎて眠かったのだ。授業中船を漕いでる私をみて笑っていたの、気付いてるんだからね。
「お願いしますヨ。ジュースおごりますから!ネ?」
「良いけど、今日中に返せ」
きっと他の女の子にはこんな言い方しない。いつもの営業スマイルで、きっと快く貸してあげるのだろう。
「及川クンってどうしてそんなに私に冷たいのかな?」
「貸してもらえるだけありがたいと思えない?」
「思えマス」
ちっとも笑ってくれない。そっけないんだからー。
「ほら行くよ」
「え?一緒に行くの?買って来いじゃなくて」
「…選びたいから」
そう言って先を歩きはじめる及川の隣を歩ける女って、案外少ないんだよね。自分の中にある少しの優越感。そうか、ついてきてくれるのか。思わず顔が綻ぶ。
「何笑ってるの?気持ち悪いけど?」
思った矢先にこの発言。傷つきますけど。
「…及川って私のこと絶対嫌いだよね」
良いけどさ。今のところまだ他の女の子たちよりは特別な位置だし…。それがいつまでとか、どの立ち位置でとか、できるだけ気にしないようにしている。不安要素で女々しくなった私なんて、及川は好きじゃない。
いま、この関係が私のモチベーションのすべて。こんなにも好きだなんてバレたらきっと…
「好きだけど」
気が付けば先を歩いていた。置き去りにしていた彼を振り返ると、まっすぐこちらを見ている。
口は笑っているのに、目が笑っていませんよ。どうしたの?なんのじょうだ…
「なーんて。冗談。本気にした?」
「は!?なんなの!?イケメンだからって自惚れも大概にしてくださーい」
「お前ホント可愛くないね。ほら、行くよ」
今度は先を歩き出す彼の歩幅に、わざと遅れて付いて行く。
いま、絶対、顔赤いわ…。
ジュースを買った帰り道。及川は花巻たちのクラスに寄るからと別れた。
「ねぇ、みょうじさん、少しいい?」
その言葉には強制力があって、別に忙しくもない私は「良いけど」と答える。この子は隣のクラスの…。名前とかなんだとか、全然知らない。隣のクラスに居たような気がするだけかも知れない。
呼び出されたのはトイレ。ここまでくればさすがにわかる。あー…なるほどね。気に食わないから呼び出しってやつね。
バシャッ――
入った途端に冷たい水がかけられた。
うっわー…周りの女子が引いてるし、避けて通ってますよ。
蜘蛛の子散らすように状況を察した他の女子はトイレから逃げ出ていく。そんな些細な一瞬の中、自分の行動を振り返ってみるけれど、このよく知りもしないような女に水を浴びせられる原因は思い当たらなかった。
「あんたなんて…!」
持っていたバケツまで投げつけられる。避けることもできず額をかすった。みっともないし、痛い。
そしてもう一度言うけれど、こんなことされる覚えはない。
「あんたが及川くんに色目使ってるから!!」
ああ、それか。
要するにこの女も及川が好きなのか。いや、わかってはいたけど他に呼び出される要因なんてないわ。友達として仲良くしている私が気に食わないのか。
「なんで私があんたのせいでフラれなきゃいけないの!?」
「知らないけど?」
胸倉を捕まれ壁に押し付けられた。
普通にしていれば可愛い子なのに、こんなに顔を歪ませて。及川はもったいないことをしてしまったね。
「なんであんたなの!?なんで及川くんはあんたが好きなの…!?」
「は?」
思わず目を見開いて素っ頓狂な声が出る。
及川が、私を好き?
なんの勘違いだよ。そう思いながらも、先ほどの「好きだけど」って言った及川が頭に過る。けれど…そんなわけ…
「岩泉くんと、部室で、話してて…」
なんでお前が泣くんだ。
私の言葉は浴びた水より冷めていた。
「それで?あんたがフラれた理由、私に押し付けて、こんなことして満足した?」
濡れた手でそっとその肩を押し返す。
「なっ!?」
「それをあんたに言われた及川の気持ちとか、考えた?」
女は怯んだように一歩下がる。
「私があんたに及川の気持ち伝えられて、喜ぶと思った?」
そんなこと考えられたらこんな行動にでるわけないよね。
わかってはいても頭に上った血が思考を停止させ、今度はこちらが詰め寄って女の胸元を掴んだ。
「ねぇ、どういうつもりか…」
「ストップ」
掴んだはずの服は引っ張られて思わず手を離した。間に割って入った男の声に、今は怒りさえ感じる。
「みんなが見てるよ?俺も最初から見てたし」
出た。全然目が笑ってないその顔。本当にムカつく。
女はすぐに踵を返していってしまった。
「みょうじも来て」
「やだ。行かない」
その言葉を一蹴するのはもう笑ってさえいない怒った及川の顔。無理やり腕を引かれ、彼の速足のコンパスに私は走って続く。
「お前、ホントバカなの?なんでノコノコ呼び出しに付いて行ってんの?」
バレー部の男子部室に投げ込まれ、崩した体勢をまた強制的に引っ張られ、怒り任せに壁へ押し付けられる。今日は何度目の壁ドンだろう。
言葉や態度とは裏腹に、なんでそんな、そんな…切なそうな顔をするんだ。
「及川のせいじゃん。私なんにもしてないのに!水かけられて、バケツ投げつけられて!」
未だに冷たい水が髪を伝って滴る。でもちっとも冷静になれないのは、この距離のせい。
「全部及川のせいじゃん!!」
その逞しい胸に拳を叩きつけた。だって、理不尽過ぎるじゃないか。
私の気持ちも、及川の気持ちも何も汲み取られていない関係の解明。
「……うん、ごめん」
泣きだす私をあやすように抱き締められた。温かい体温は余計に冷静さを奪うし、呼吸をするたび体に取り込まれる匂いは好きすぎる人のもの。
「っや、めてよ!及川まで濡れる!!」
素直におさまっていられるキャラじゃなくて、暴れてしまう。それをなだめるように頭に置かれた手が優しく撫でた。恥ずかしさを誤魔化すように強く押すのに、離れてくれない。
どんどん鼓動が早くなるのに、この距離じゃきっと伝わってしまう。
慣れない女の子扱い、やめて欲しい。だって私の中ではまだ…
「俺さ、お前のこと好きなんだよね。迷惑かけて悪いと思ってるけど……諦めないから」
顔は見えないけれど、耳に熱い息がかかる。早いのは自分だけの鼓動じゃない。
ずっと“友達”が続く関係だと思っていた。
「好きで、ごめんね?」
体は冷たいのに、熱い。
見上げた先には、笑っているいつもの及川が一瞬だけ見えた。柔らかく唇に触れて、離れていって、細められた目と視線が交わって。
「…っ…もっと早く、言ってよ…ばか!」
やっと解けた関係。
曖昧な特別よりも欲しかったのは、及川本人からの“特別”。
私も同じ気持ちだと伝えるより先に、もう一度キスをした。
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