- ナノ -
罰ゲームでなければラッキーチャンス

※ご都合主義に満員電車に詰め込みました



 夕方の満員電車は最悪だ。わかってはいたのにどうしてもこれに乗らなければならなかった。胸焼けしそうなほどの人の群れに躊躇う私の袖を、影浦は乱暴に掴むと壁と自分の隙間へ私を入れてくれた。本当に狭い狭い隙間。それでも他者との接触はなく安心できる空間。
 しかし顔の横には壁に手をついて支えている影浦の腕があるし、真っ直ぐ視線の先には制服のボタンの模様が詳細まではっきりと見える。窓から濃いオレンジ色の光がさし込んで、マスクで隠れていない影浦の目元にも色を付けていた。
 この状況にドキドキと胸を鳴らさないわけがない。急いで意識を逸らさなければ彼に変な感情を気取られてしまう。

「おい」

 気持ち悪い感情を向けるなという忠告だったらどうしようと冷や汗が流れて返事が遅れた。
 動き出した電車のせいで体が揺れる。狭い空間、すれすれの隙間。影浦に触れたりしないようにと必死に足を踏ん張っている。短気な彼だがぶつかったぐらいで怒りはしないだろう。それでも私の気が引けたのだ。ちょっとでも触れてしまったら全部伝わったりするんじゃないかって。ああ、ほら。いま考えているこんなことだって影浦に伝わっていそうでぎこちない表情しか向けられない。

「あー……変なやつに気を付けろよ」

「ないない。ドラマじゃないしそんなことないって」

 意外な気遣いにぼぼっと顔が熱くなってしまうのを俯いて誤魔化した。
 俯いた視線の先、知らない人のカバンが影浦の腰辺りに当たり、舌打ちが聴こえる。苛々していることが伝わるから、せめて和ますように「私より影浦のほうが襲われそう」なんて笑ったら、彼の眉間に皺が寄った。自分の発言が不正解すぎることに後悔しかない。
 会話もなく、不規則に揺れる電車の中でなんとかバランスを保っているお互いの距離。暑苦しいのか影浦も舌打ちしながらマスクを下げた。嬉しいような今はマズイような。素顔がこんな至近距離にあって、直視しないほうが無理だし変なことを考えないほうが無理な気がする。これ以上はダメだと身じろいで、影浦に背中を向けた。

「なんだよ」

「い、いや、やっぱり思春期の男女がこんな至近距離だとドキドキします、っな――」

 変な口調で誤魔化してしまおうと思っていたのに、電車がガタンと大きく揺れて急ブレーキがかかった。動物が飛び出して緊急停止し点検のため一時停車すると車内放送が流れる。
 私は今の衝撃で壁へ向けていた額をぶつけたと思っていた。しかし衝撃はあったが痛みはない。壁にぶつかるはずだった額は大きな手に覆われている。壁には当たらなかったものの、後頭部はどこかなにかに押さえつけられるようにして触れている。おかげでバランスを崩して倒れることもなかった。ここまでの状況把握で異様なほどの心拍数。
 彼の手のひらの感触は名残惜しいが、急いで振り返り見上げたが今度は謝罪の言葉出てこない。

「がお」

 どよめく周囲の声は聞こえても、視界にいるのは影浦だけ。目から口まで全てを一瞬で確認できないほどの超至近距離に思わず息が止まっていた。
 キス、されて、しまうかと思った……。

「黙ってたら好き放題襲われんぞ」

 窓の外はすでに薄暗く夕陽もさし込んでいない。マスクを上げながら離れていった彼の目元が赤い理由を探す。それがもし、いま自分の顔が熱いのと同じ理由だったなら……。
 勇気を出すタイミングはいまなのかもしれない。違ったらどうしよう。でもこれ以上のチャンスが次はいつくるかわからない。

「あの、影浦――」

 一度だけガタンと大きく揺れた電車。私は突然のことにバランスを崩して影浦の胸へと額をぶつけた。横へ向けて倒れずにすんだのは、抱きとめる腕があったから。電車は何事もなかったように走り出し始める。遅延の謝罪アナウンスが流れ始めるが走行音でほとんど聞こえない。

「わぁったから、……ちょっと、大人しくしてろ」

 そんな中、耳元で囁かれる声だけははっきりと聞こえた。
 離れたくても背中に周った手の力が強くて額を胸に預けたまま。これは伝えるとか伝えないとかきっとそんなことは通り越してしまっているのだと悟らざるを得ない、よね?






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