- ナノ -
自殺志願者のきみと
※木兎と自殺願望のある女の子の話





空を飛んでみようかと思った。紺と青が入り混じり、朱い夕日にも似た朝焼け。程よい風が髪を遊び、空気は澄んでいた。青空に黒点のように見える、遠くを飛んでる鳥。
あんな風になれないかな…
両手を広げればそれが翼のように。まだ誰も来ていない早朝、学校の屋上。
私は死ぬことを決意した。



「受け止めてやるよ。俺が、受け止めてやる!」



地面の上に立つのは、銀色の髪と琥珀色の目と、眩いばかりの笑顔を携えた人。
受け止められるわけなんかないのに。
一人の男子生徒は、私と同じように両手を広げ真剣な眼差しを向け待ち構えていた。

「…飛べるわけ、ないじゃん」

座り込んだ私を見て、その人は駆け足でどこかへ行ってしまった。
飛べるわけない。死にたいのに、死ぬ意気地も無い。結局私はこのままずっと惰性で生きていかなきゃならないんだ。

「――ッう、あぁぁぁん!うぅっ…」

そんな未来が苦しくて辛くて悲しくて、声を上げて泣き出す。みっともないけれど、こんな時間に人なんていない。さっきの人だってもしかしたら私の幻覚だったかも知れない。辛くて寂しくて、ついに妄想のオトモダチまで作っちゃったのか私は。

「っぶねぇよ!!」

そう思っていたのに、後ろから思い切り制服を引っ張られる。
今いるこの高い屋上の縁で、不本意にバランスを崩すのはさすがに怖くて、足がすくんで引っ張られる方へ倒れ込んだ。背中に感じるのは地面にぶつかった痛みではなく、腰に回された腕にギュッと掴まれ温もりに包まれる感触。

「っ痛ぇ!」

男の方は、私を受け止める代わりに尻餅をついたらしい。慌てて立ち上がろうとするのに足は言うこときかないし、何より腕が放してはくれなかった。

「はなしてよ!」

なんとかもがくが腕の力は強くて、むしろミシミシと体が軋むほど。

「もう飛ばない?」

「…ッあんたには、関係ないでしょ!」

「うん。関係ねぇけど……死んで欲しくもねぇから!」

何言ってるんだこいつは。
同じクラスでもなければ、私はこの男を知らないし、この男だって私のことを知らないはずだ。面識なんてあるわけない。だから関係ない。
その思いで睨みつけたのに、男は眩しい笑顔で笑っている。
男の大きな手が私の頭を乱雑に撫で、髪も心も乱した。

「俺は木兎光太郎!お前名前なんてーの?」

「ぼくと?バレー部の?」

バレー部の木兎光太郎といえば、明るくうるさすぎるバカな性格が有名なのと同時に、バレーをしている時は真剣で真摯で熱い男だと聞き及んでいる。要するにバレー馬鹿の有名人なんだなって。
でもそんなのは噂に聞く程度の話で、実際スポーツ推薦学科にいるだろうその男との関わりなんてこれっぽっちもなかった。もちろん、これからも私たちが関わることなんて一つもない。

「ねぇ名前はー?そのピンバッチは特進?何年?名前はー?」

襟についたピンバッチを指差してなぁなぁと攻め寄られるのがなんとも鬱陶しい。
もう一度言う

「関係ない」

無理矢理突き放して、立ち上がり背を向けた。もう二度とここでは……



「死ぬなよ」



ミシリと音を立てて心が軋んだ。
関係ない関係ない関係ない!
背中越しにでも木兎の笑顔が眩しくて、太陽みたいにギラついててそれが刺さるような苛み。
なんでそんなこと言うんだよ…






家には誰もいない。家庭はもうずっと前から崩壊していた。
父親は他所に女と子供を作り、母親は彼氏の家とこの家の往復で、ただ私にご飯を作ってくれるだけの存在。
いっそもう居なくても良いのに。そう思い始めたら、違うことに気付いた。
ああ、居なくて良いのは私か。
両親の機嫌をとりたくて、私に意識を向けてほしくて頑張って梟谷の特進科に入学したのに、見向きもされなかった。言葉だけの「オメデトウ」。どれだけ頑張っても褒めてくれる人なんて居なくて、次第になんのために頑張ってるかなんてわからなくなって。それで……決めたのに!
少しの心の揺らぎに、あの男が入り込んできた。


「まーーーた飛ぼうとしてんじゃねーよな?」


学校の近くにある住宅街の丘の上。滑り台とブランコと砂場だけのシンプルな公園は、高い大きな柵の向こうに夕暮れへ沈む街が一望できる。
ただ家に帰りたくなくて、ぼんやりとしていたら丘の下から大きな声と夕陽の色を受けた銀色の髪。数日前と同じように、また私を下から見上げている。
なぜこうもこの男は関わってくるのか。

「……なに」

「それはこっちのセリフだっつーの」

ハーフパンツに上だけジャージを羽織って少し息を荒げた木兎は階段を登ってやってきた。沈みかけた夕陽の波状の先に夜が色を染める。

「ロードワークしてたら見えたから。名前!まだ聞いてねぇ!」

口を尖らせる木兎。名前の代わりに溜息をついて、また背を向けた。名前を教えたところでこの男の人生には関係のないことだとわかっているから。

「早く戻りなよ。部活、大事なんでしょ?」

「バレーは大事だ!なぁ、お前ちょっと笑ってみ?」

「……は?」

返答も意味不明なら、突然振られた話も意味不明。せめて会話が成り立つ話題でも振れないものだろうか?

「ほら、こー…ニッて!」

自分の頬を抓り持ち上げる様は、不細工、と呟くにはじゅうぶんで。まったくもって理解しかねる男に一歩引いた。

「木兎さん!」

ジリジリにじり寄る木兎を離れたところから苛ついた声が呼んだ。

「あ!あかーし!!どした?」

「どうした、じゃありませんよ。こんなところで何油売ってるんですか」

「油売ってねぇ!」

直感的にこの男が“油を売る”という言葉を字面通りの意味で捉えたことを察した。恐らく後から来た男も。

「早く戻らないと猿杙さんが一番になりますよ」

「それはやだ!!」

子供かよ。馬鹿そうだとは薄々感じていたけれど、改めてそう思わざるを得なかった。

「あ!名前!名前だけでも教えて!!」

「さるくい、って人は……あれ?」

「うぉ!?マジかよ!!?クソォォォォ!!」

丘の下の道路を、同じジャージを着た人が走っているのが見え、親切にも教えてあげれば慌てて駆け出した。そんなに一番になりたいのか。
階段下から「気を付けて帰れよ!」という大きな声が聞こえた。帰る?そうか、下校途中だった。すっかり忘れていた。
朝から晩までこの鬱々とした感情を抱えていたのに、木兎といたさっきの時間だけ、どうやら私はそれを下ろしていたらしい。
もう一度抱えたそれは、少しだけ、軽い?





それからも家に帰っても電気が点いていない日が続く。
どうやら母親は私の顔を見ることさえも嫌になったのかも知れない。最後に両親の顔をまともに見たのはいつの日だったか。昨日と同じ使い回しのメモが冷めた料理のそばに添えられていた。

「こんないえ…」

少し軽くなったと思っていたのに、ズシリと今まで以上に重くなった。重くて潰れそうで、気持ちが溢れて、決壊。

「だいきらい」

呟いた言葉は虚しく誰の耳にも届かないのに、自分の心にだけは刺さって、気が付けば家を飛び出していた。走る速度で流れ行く景色に見える家の灯りが眩しくて目を瞑る。光がいつも私の孤独を際立たせて腹が立つ。




この間と同じように夕陽の見える丘に来ていた。荒い呼吸のまま、ガシャンと音を立てて柵に背を預ける。見上げた空は星が瞬いているかさえわからない。
今だ
柵をよじ登って行けば、さっきまで感じなかった風にさえ怖気付く。けれど上も下も見えないほど世界は歪んでいて、動かなくなった体にどうしようもなく嗚咽を漏らした。

「パンツ見えてるぞ」

その場に似つかわしくないほど冷たい声で、馬鹿みたいなこと言われた自信がある。鋼を編んだ柵が風を受けて金属音を立てて揺れる。



「受け止めるから、降りて来い。なまえ」



なんでとか、どうしてとか、そんなこと考えるよりもまたこの声か、と安堵して手を離していた。

「なまえって特進のくせに絶対バカだよなー」

この間と同じように鈍い衝撃と温もり。後ろから抱きとめられた私は強く地面にお尻をぶつけることなく、足から地面に着地できた。この男もこの間とは違って尻餅をついていなかった。

「バカじゃない。あんたよりは」

落涙が、私を受け止めた彼の手を濡らす。
どうして本当に死にたいと思った時に、この男は現れるのだろうか。学校ではすれ違いもしないのに。

「死のうとしてるお前よりはバカじゃねーよ!」

痛いほど強い力で抱きとめられたまま。拗ねたような口調は子どものよう。

「なまえ、そんなに死にたいならもっと世界を楽しんでからにしろよ。世界にはもっとバレー強いやつがいて、一番になってももっと強いやつ出てきて……。絶対楽しいだろ?!」

「知らないよ!バレー強いやつしかいないの?」

泣いてるこっちがバカみたいじゃないか。

「だいたい楽しむってなに?私は今まで楽しかったことなんてない!それなのに今さら楽しいことなんてあるわけ…」

「ある!」

「…ない」

「ある!」

「ない!」

押し問答の末に、強く抱きしめられたかと思えば、突然解放されたが震えたままの足は地面へへたり込ませる。
私を見下ろすように立ち上がった木兎は星が落ちてきそうなほどきらきらとして見えた。



「じゃあ、探しに行こうぜ!一緒に!」



木兎の笑顔は本当に眩しいな。彼の背景にある夜空の月や星が霞んでしまう太陽ような。

「俺、春からアメリカに留学すんだよ」

「は?」

また何を突拍子もないことを。

「まさか“俺について来い!”とか言うわけ?」

「ダメか?」

え?本気で言ってるの?
至極真面目な顔でジッとこちらを見つめたままの木兎から視線を逸らしたのは私。
だって、何を言ってるの?こんな無関係な女に言うセリフ?ちょっとこの馬鹿の言葉を翻訳する辞書を貸してください。

「実はさ。俺、なまえのこと知ってる。少し前から。あ、名前はお前と同じクラスのやつに聞いた!」

私はよくこの小さな公園に来ていた。家に帰りたくなくて、暗くなるまではそこに座って街並みを見ている日も多かった。木兎はここにいた私を、ロードワーク中に見ていたらしい。

「つまんなそうな顔でぼーーーっとしてんなぁと思って。雨の日も晴れの日も。そんなに暇なら俺の課題やってくんねーかなって思ってた。お前のジジョーよくわかんねーけど毎日見てたら、逆にいない日はどうしたのかなって気になって。そしたら、あの日朝練行こうとしてたら屋上に立ってたから。
な!死ぬぐらいなら、お前の楽しいこと俺と探しに行こうぜ?」


私の手をぐっと掴んで容易に立ち上がらせられた。

「要約すると課題やって欲しいし、一人で海外行くの寂しいからついて来いって言うの?」

「さ、寂しくなんてない!お前の楽しいこと探せって言ってんの!!」

私は奴隷?犠牲者?なんで木兎に勝手に未来を提示されなきゃいけないのよ。
会話できなさ過ぎて、可笑しくて気がついたら笑っていた。

「あはは!あんた本当に馬鹿なの?普通知り合って間もない女に、しかも死にたいって言ってるやつにそんなこと言う?」

気がついたら笑っていたし、気がついたらまた私は重たい気持ちを下ろしていた。
それが、つまり、そう言うこと。
またも突拍子もない行動は、腹を抱えて笑う私を抱き寄せた。

「ほら、お前が楽しいこと一つ目!」

一つ目?
木兎の抱きしめる力が強すぎて支えきれそうもない。後ろに仰け反って倒れそうなのに、そうならないのは本当にギリギリのところでの配慮。


「俺!」


馬鹿には敵わない。どれだけ自画自賛で、どれだけ自信があるのよ。

「お前が笑ったら、どんだけ可愛いんだろーなー?って思ってたけど、想像以上だった!すっげぇ可愛いのな」

もっと笑った顔が見たいと、恥ずかしげもなく出たセリフもとんだ口説き文句だ。わかっていても、少し浮かれた自分の気持ちを嘲笑ってしまった。





「ついにこの日か!日本離れんの寂しいなー」

「ちゃんと航空券持ちました?パスポートは?何かあってもすぐには送れないんですからね」

赤葦くんは朝から辛辣に「わかってますか?」と何度も確認している。大きな荷物はもう預けてしまったから、あの中にチケットなどを入れてたりしなければきっと大丈夫とは思うけど。

「あかーし!もっと寂しんで!!」

「ハイハイ、寂しいです。寂しいです。大丈夫とは思いますけど、絶対に自分勝手な行動しないでくださいよ。迷子になるから」

どっちが年上だかわからなくなる二人の関係にも、すぐ慣れた。
右から左に流れた赤葦くんの忠告。機内で腹が減った時のためにお菓子買う!と言ってお店に走り出した彼の姿をみて小さく笑いが漏れる。

「はぁ……みょうじ先輩、本当に良かったんですか?引き返す最後のチャンスですよ?」

「うん、ありがとう。大丈夫だよ。今は少しワクワクもしてる」

大きな溜息を吐いた赤葦くんは私の握りしめている片道切符を見つめる。

「約束したから。一緒に楽しいこと探すって」

私はアメリカの大学、木兎が推薦をもらったのと同じ大学へ、留学することを決めた。最初は反対していた両親も必死の説得で許してくれた。形だけだったのかもしれないけれど、反対されたことは少し嬉しかった。同時に両親は離婚することになったけれど、それは悪い意味ではなく、みんなゼロからやり直そうと心に決めたから。
向こうの大学は夏からだから、生活に慣れるためしばらくはバイト探したり、勉強しながら待つつもり。木兎は、すぐにでも向こうの大学チームと合流するから忙しくなるみたいだけど。

「赤葦くんこそ、本当は大好きな先輩が遠くに行くから寂しいんでしょ?」

「そうですね。でも、木兎さんがいないと笑えない人よりはマシです」

そうだね、私もそう思う。

アナウンスが、搭乗する便のフライト時刻を告げる。大きめのサイドバックを持って、お菓子を買い込んでる彼とともに、またね、を赤葦くんに告げた。

「なぁ、なまえ」

「ん?」

搭乗口は混んでいて、日本語と英語や他国語も入り混じる。



「死ぬほど楽しいって思わせてやるから」



「つまんなかったら死んでやる」

ニッと笑い返して、大きな手を握った。
私を受け止めてくれた手は温かく、進む道に迷わないよう引いてくれる手。


「連れてって、光太郎」



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