Dear. 千颯様・ミユ様

「おとうさん」
「ん?どうした、令」
「やっぱり、ひとりじゃさみしいから……おとうさんのよこ、いってもいい?」

2つ並んだベッドの上で、僕は息子の可愛らしいおねだりを聴いて頬を綻ばせた。大きなダブルベッドは僕とさくらが眠るベッドで、その隣に息子用のシングルベッドを備え付けておいたのだが、令はいつもそちらではなく、僕達のベッドでさくらに引っ付くようにして眠っていた。

だが、今さくらはこの家に居ない。ドイツの企業から急遽要請があり、1週間の出張に出掛けてしまったのだ。普段から仕事に飛び回っていて、家に居てやれないことが多い僕を気遣って、彼女は令もドイツに連れて行こうかと言っていた。しかし、ここで家庭を顧みずにいるほど僕も堕ちたわけではない。幸い、今は差し迫った案件がなかったので、事情を説明してなるべく定時で上がれるように調整したのである。

そういう訳で僕は今、もうすぐ3歳になる息子と2人で並んで横になっていた。令も初めは強がって、自分のベッドに1人で寝る!と豪語していたのだが、やはり我慢が出来なくなったのだろう、枕を持って僕の隣に移動してきた。

「おかあさん、あとどれくらいでかえってくる?」
「お母さんは、あとこれだけ寝たら帰って来るよ」

僕は腕の中で微睡む令に向かって5本の指を立てた。令はむう、と頬を膨らませ、僕の指に手を伸ばした。

「これがきょう、これがあした?」
「そうだよ。こっちが明後日、こっちが明々後日」
「しあさってのつぎは?」
「弥の明後日だな。そうしたら、お母さんもお家に帰って来るさ」
「やのあさって……。はやくやのあさってなぁれ」

僕の指を握ったまま、令はゆっくりと瞼を下ろした。いよいよ睡魔に勝てなくなったらしい。くうくうと寝息を立てる息子にブランケットを掛けてやりながら、僕はベッド脇のスマートウォッチを起動させた。ちなみにこれで3代目である。初代は令のおもちゃとなり、2代目に貰ったウォッチは、任務の最中に壊してしまっていた。

「ギルバート」
「はい、降谷さん」
「今の音声を、さくらの端末に送ってやってくれ。きっと泣いて喜ぶだろうから」
「解りました。降谷さんからは、何かメッセージはありますか?」
「そうだな……。愛してるよ、とでも」
「それはいつもの事なので言い飽きました。次はもう少し捻ってください」

可愛くないことを言いつつ、了承の意を伝えて人工知能は通話を切った。こちらが夜の9時ということは、向こうはまだ昼間である。今頃彼女は大わらわで、新しいシステムの不具合を修正しているのだろうな、と考えて、腕の中の愛しい存在を抱き寄せる腕に力を籠めた。僕に良く似た色素の薄い髪が、前腕の表面を擽った。



翌日、どうしても仕事の都合がつかなくて、保育園に令を迎えに行けなかった僕は、慌てて工藤邸へと向かっていた。大学4年生になった新一君と蘭さんが、僕の代わりに令を迎えに行ってくれたのだ。

「新一君、蘭さん、すまない。こんな時間まで」
「安室さん!お仕事お疲れ様です」

最初に出迎えてくれたのは令をだっこした蘭さんで、令は僕の顔を見るとすぐさま両手を伸ばしてきた。一応僕の身分は彼女にも明かしているが、彼女は相変わらず僕の事を安室さんと呼んだ。

「令、ちゃんとお兄ちゃんとお姉ちゃんの言う事きいて、お利口さんにしてたか?」
「うん!おりこうさんしてた!」
「本当か?我儘言って、困らせたりしてないか?」
「本当にお利口さんでしたよ。ご飯も残さず食べてくれたし。ね?」

蘭さんが同意を求めるように新一君を振り返ると、彼はどことなく不貞腐れたように唇を尖らせた。

「でも、俺にはだっこさせてくんねーのに、蘭にはべったりだったよな」
「やっぱり女の人の方が安心するのよ。お母さんと離れてるんだし」
「そりゃそうだけどよ、……俺の目の前で他の男とイチャイチャすんなよ」

新一君は頬を掻きながら、小さな声でぼそっと言った。途端に蘭さんの頬が真っ赤に染まる。

「も、もう!新一のバカ!」
「痛ってー!照れたからって殴んなよ、子供の前だぞ!」
「はは、大丈夫だよ。令なら、疲れて眠ってるから」

可愛らしい痴話喧嘩を見守りつつ、僕はずしりと重みの増した息子を抱えなおした。無意識のうちに蘭さんばかりに甘えていたという令の心境を想って、僕はそっとその背中を撫でてやった。

家に帰りつくなり、令はぱっちりと目を開けて、嬉しそうに今日の報告を始めた。

「あのね、きょうはおにいちゃんたちといっしょに、おかあさんのくにをみたよ!」
「お母さんの国?」

お母さん、つまりさくらが行っている国のことだろう。地図か何かで見たのだろうか、と僕が自分の服を脱ぎながら首を傾げると、令はふふん、と胸を張った。

「おにいちゃんのあいぱっどで、ギルバートがみせてくれたんだ。おかあさんがみているけしきだよって」

さくらの首に掛かったヘッドホンからの映像を、ギルバートを通じて見ていたということだろう。僕にはそんなサービスをしてもらった記憶はないのだが、あの人工知能も令に対しては甘い所がある。

「どんな国だったんだ?お母さんがいるドイツは」
「うーんと、いえのかたちが、こんなんだった」

こんなん、と言いながら令は手でその形を示した。南ドイツの旧市街地でよく見られる、木と漆喰で出来たハーフ・ティンバー構造だろう。

「そうか。どんな色の家があった?」
「きいろ!あとは、あか!」
「なるほど。随分カラフルな町なんだな」

令は同じ年代の子供に比べて、知能指数が格段に高い。それにしたって、一度見ただけの映像をここまで鮮明に覚えているなんて、よっぽど熱心にその映像を見ていたのだということが伺えた。
僕がよく観察していたんだな、と言って小さな頭を撫でると、令はしょんぼりと肩を落とした。でも、と小さな呟きが落ちる。

「にほんとは、ちがってた……」
「令……」
「おかあさん、にほんじゃないところにいるんだね」

はやくあいたい、と言って俯く頭を、僕はやや乱暴に撫でた。

「わっ、いたいよ、おとうさん」
「そんな顔をするな。ほら、昨日はここだっただろう?」

僕は昨日の夜と同じように、5本の指を立てて令の顔の前にかざした。

「1回寝たから、1本減らそう。ほら、今日はここ。明日は?」
「ここ!」
「そうだな。残りは何て言うんだ?」
「あさってとー、しあさって!」
「正解だ。明々後日になったら、お母さんが帰って来るぞ」
「うん!しあさってまで、おとうさんといっしょにがんばる!」

僕は虚を突かれて目を瞬かせた。お父さんと一緒に、という言葉が出てきたことに驚いたのだ。

「おとうさんも、おかあさんにあえなくてさみしいでしょ?」
「……ああ。そうだな」
「だから、おかあさんがかえってくるまで、いっしょにがんばろうね」

それまでは僕がお父さんを支えるよと、もっと拙い言葉で令は言った。拙くとも、その言葉がどれだけ尊いものであるかは身に染みて解った。
僕は愛おしさのあまり令の脇の下に手を差し入れ、その体を持ち上げた。急に視界が高くなり、令はきゃあきゃあとはしゃいだ声を上げた。

「全く、頼もしいな。そういう所はお母さん似かな」
「ぼく、おとうさんににてるっていわれるよ」
「見た目はそうだろうな。少しくらいさくらに似ててもよさそうなのに」
「じゃあ、こんどはおかあさんににてるこがいいな」
「何だ、妹か弟が欲しいのか?」
「うん。ぼく、いいおにいちゃんになるよ!」

曇りなき眼でそんな事を言われてしまい、僕は苦笑しながら解った、と返事をした。自分の与り知らない所で、よりにもよって息子から2人目を期待されているなんて、きっとさくらは予想もしていないことだろう。帰ってきたら一緒に頑張ってもらおうか、と舌なめずりをしつつ、僕は令を抱えてお風呂場へと向かった。



そしてようやく、待ちに待った“しあさって”の夜がやって来ると、令は玄関の前から微動だにしなかった。さくらが帰って来るまであと1時間あるぞと言っても、毎週欠かさず見ているテレビ番組が始まっても、一歩もそこから動かなかった。僕のお古のスマートウォッチを握りしめ、扉が開いてさくらが姿を見せるのを、今か今かと待ち構えていた。

「ギルバート、おかあさんは?」
「今、タクシーが家の下に到着しましたよ」
「あとなんふんでかえってくる?」
「あと2分……、1分半でしょうね」
「じゃあ、いっしょにかぞえて。せーの、」

90秒よりもずっと少ない数字からカウントダウンを始めた令の背中を、僕はじっと見つめていた。そして令のいんちきカウントダウンが残り5秒になったところで、ドアの前に慣れ親しんだ気配がした。慌ただしくドアノブが下がり、黒いスーツケースがドアの向こうに覗いた。

「……っ、ただいま、令」

そうしてやっと、待ち望んでいた相手が玄関に入って来たのを見て、

「―――おがあざん……っ」

令はスマートウォッチを放り投げ、靴も履かずに母親の腕の中に飛び込んだ。

僕がその抱擁の輪に入ったのは、それから2分後のことだった。なんと、令は2分もの間、僕のさくらを独り占めしていたのだ。この独占欲の強さは誰に似たんだ、と誰にともなく腹を立てながら、1週間ぶりに会う愛しい妻を、僕は渾身の力で抱き締めた。


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