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安室さん×常連客。疲れた体を癒すのは……?




「いらっしゃいませ……、あ、こんにちは!」

カラン、と鐘の音が鳴って、青灰色の瞳がこちらを振り返った。いらっしゃいませ、何名様ですか、と定型文を紡ごうとした唇が、私の姿を認めて大きく綻ぶ。
それは自惚れではないとしたら、単なるお客さんに向ける笑顔よりも一歩近しい関係の人間に向けられる笑顔だった。

「こんにちは、少しご無沙汰してます」

そう微笑んで返すと、彼はこちらへどうぞ、と言ってカウンター席に私を案内してくれた。いつもの私の定位置であるそこは、彼やウェイトレスの梓さんとお喋りをしながらコーヒーを飲める特等席である。
ここに来るのも2週間ぶりだなあ、と思いながらカウンターチェアに腰を下ろすと、まるで心を読んだかのようなタイミングで安室さんが首を傾げた。

「2週間ぶり、ですか。この所、ずっと忙しくされてたんですか?」
「ええ、実は仕事で込み入ったことになってて……」
「あんまり無理をしないでくださいね。体を壊しては元も子もありませんよ」

ありがたい忠告を聞きつつ、私は苦笑いを返した。社会人になって3年目、そろそろ大きな案件を1人で任されるようになった時期である。仕事を優先するあまり、家事はおろか食事のことも疎かになってしまうのは、変に真面目な性格のせいだ。
それでもこうして仕事に一区切りついたらポアロに足を運んでしまうあたり、私は相当安室さんの笑顔の虜になっているらしい。

疲労から無意識に寄ってしまう眉間の皺を揉みほぐしていると、カタン、と音がして目の前に安室さんお手製のハムサンドが置かれた。注文した覚えのないそれに驚いて顔を上げると、安室さんが悪戯っぽく笑ってこちらを見下ろしていた。

「僕からのサービスです。お仕事お疲れ様でした、という気持ちを籠めて」
「えっ、でも、こんなにしていただいたら悪いです」
「悪いだなんて水臭い。いいんですよ、常連さんへのサービスです」
「でも……」

私が恐縮しきって焦っていると、安室さんの手がカウンターを超えてこちらに伸びてきた。
その手が私の手首を掴み、くい、と引かれる。

「……ああ、やっぱり気のせいじゃなかった。ちょっと痩せましたよね」

腕時計、前よりもユルユルになってますよ。と指摘されて、私は慌てて握られた手を引っ張った。けれど安室さんは離してはくれなかった。

「お仕事が大変だからって、食事も満足に摂っていなかったんでしょう?だからせめて、ここに居る間はきちんと食事を摂ってください」

そうじゃなければ、このまま会社には帰しませんよ。そう言い切られて、私はうう、と唸りながら弱弱しく頷いた。

「ありがとうございます、いただきます」
「よろしい。それじゃ、ゆっくり食べてくださいね」

握られていた手首が解放されて、私はそこをもう片方の手でさすった。熱を持っているように感じられるそこが、じわじわと体温を上げていく。

ああ、やっぱり好きだなあ。そう胸の内で呟いて、私はハムサンドに手を付けた。これも口にするのは久しぶりだ。いつも以上にじっくりと味わおう、と決めて咀嚼する。
その途端、唇からふにゃりと力が抜けた。

「はー、美味しい。しあわせー」

しみじみと私がそう言うと、安室さんはくすくす笑いながらコーヒーを出してくれた。

「あなたはいつも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐がありますね」
「えっ、だって本当に美味しいんですもん!これって、ただのマヨネーズ味だけじゃないですよね?隠し味は何ですか?」

興味津々にハムサンドを眺めていると、安室さんはそうですね、と前置きして人差し指を立てた。

「そんなに凝ったものじゃありません。実は誰でも簡単に作れるんですよ」
「えーっ、そうなんですね!私でも作れるかなあ」
「ええ、きっと器用なあなたなら簡単に作れると思いますよ」
「じゃあ、隠し味を教えてもらっても……?」

私が瞳を輝かせながら訊くと、彼は困ったように眉を下げて、立てていた人差し指を自分の唇に当てた。

「でも、あなたには内緒です」

ええ、とがっかりしたような声が漏れた。あなたには、という言葉に、特別に線引きをされたような気がして気が落ち込む。しょんぼりと肩を落とした私に、彼は慌てたように両手を振った。

「ああ、違いますよ。意地悪で言ったんじゃなくて」
「?」
「その、隠し味を教えて、あなたが自分でハムサンドを作れるようになってしまったら、もうここには来てくれなくなるんじゃないか、と思って……」

徐々に語尾が萎んでいくのに反比例するように、安室さんの頬には朱が広がった。それは自惚れではないとしたら、単なるお客さんに向ける表情よりも一歩近しい関係の人間に向けられる、彼の素の表情だった。

彼はもしかしたら、私がポアロに来ることを望んでくれているのだろうか。
そうと認識した途端、頬に熱が集まるのが解った。きっと今私の顔は、安室さんに負けないくらい赤くなっているに違いない。

「そんなことないです!」
「え?」
「私、どんなに疲れていたって、あなたの笑顔が見られたら、それだけで元気になれるんです。だから例え隠し味を教えてもらおうがもらうまいが、何度だってここに通います」

拳を握ってそう意気込む私に、安室さんは少しばかり呆気に取られたような顔をしていた。けれど次の瞬間には、その顔は照れくさそうな笑顔に変わっていた。

「……ありがとうございます。あなたにそう言ってもらえるのが、僕は一番嬉しいです」

だったらこれからも、またあなたの特等席を空けてお待ちしていますね。そんな言葉と共にとても柔らかく微笑まれて、私はこくこくと何度も首肯した。
その言葉を聴いて、その笑顔を見られたことが、私にとっては何にも代えがたい彼からのサービスだった。



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