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こんにちは、黒い王子様。
と、彼女は常と変らない口調で言った。
まるで今日、僕が彼女の部屋を訪れることが解っていたかのようだった。

僕は背中に隠したプラスチック製の銃を確認した。金属探知機を擦り抜けるためには、こんな玩具のような物に頼らざるを得なかった。脆い素材で出来たこれは、一度発砲してしまえば、二度目の発砲に耐えうることはないだろう。

だが、1発あれば十分だった。

彼女は、今日のターゲットは、既に抵抗の意思など喪っているようだった。



彼女は組織の人間が出入りしていた製薬会社のご令嬢だった。組織にとっては海外から輸入される違法薬物を確保する恰好のパイプ役で、これまで通り大人しく組織に薬を横流ししていれば、こんなことにはならなかった。

彼女の両親が、よりにもよってFBIにその情報を流し、保護を求めたりしなければよかったのだ。

そのことを知った組織の上層部は、製薬会社の社長夫婦ではなく、その一人娘の彼女を抹殺するようにと僕に命じた。彼女は体が弱いことを理由に跡目を継がず、入り婿を探している最中とのことだった。
そこで、僕が取引先の営業に身をやつし、彼女に近付く役目を担うことになったのである。

彼女は見合い相手として、僕の写真を見て一目で気に入ったのだという。どこか世慣れぬ風の彼女には、僕の容姿は物珍しいものに映ったのだろう。

黒い王子様、と彼女は僕の事を呼んだ。

29にもなって王子だなんて、という思いと、黒いと言う肌の色を最初に形容されたことに驚いたのと、兎に角理由は様々あったが、僕はその呼称をはじめは拒否しようとしたのだ。だが、彼女の生気のない目が僕を見つめる瞬間だけ、僅かに光を灯すことを知ってから、僕は強く拒否することが出来なくなってしまった。

情が移ってしまう前に、僕は任務を遂行することにした。彼女が体調を崩して寝込んでいることを知っていた。だから僕は、彼女の花婿候補の一人であるという立場を利用して、彼女と二人きりで会うことができた。



こんにちは、黒い王子様。
と、彼女は常と変らない口調で言った。

病気で寝ていたとはとても思えないような、余所行きの服にきちんと作り込まれた髪。ほんのり乗せられたチークの色が、白い肌に映えていた。

あなたは私を殺しに来たんでしょう、と彼女は言った。
それを聴いて、彼女は僕が今日、何のために会いに来たのかを知っているのだと理解した。

あなたの口付けで死ぬことができるなら、これほど喜ばしいことはないわ。彼女はそうも言った。
水妖記ですか、と問うと、彼女は少し考えて、それでは立場が逆でしょうと答えた。

―――お前の口付けで消えることが出来たなら、それはどんなに幸福だろうな。
―――ええあなた、喜んでいたしますわ。

そんな哀しい幻想譚が、ドイツの作家フリードリヒ・フーケによって描かれたのは19世紀のことである。
しかし彼女は、それでは立場が逆だと言う。
確かに水妖記は、水の精霊ウンディーネが、騎士フルトブラントに口付けを与えてその命を奪う物語だ。僕達とは真逆である。

そこで僕は、僕がこの部屋に来てからずっとかかっていた曲の名前に思い至った。

Rondo-Schwarzer Prinz。ウィーンミュージカルの金字塔、”エリザベート”の新しいナンバーの一つである。

そして悟った。彼女は出会った当初から、僕が彼女の命を狙っていることを知っていたのだと。
僕が彼女に死を齎すトートであると、初めから気付いていたのだと。

黒い王子様というのは肌の色を揶揄したものではなくて、いつか自分を死に導く存在として僕を認識していたのだと、僕はようやく理解した。

そうであるならば話は早い。僕は彼女の望み通り、その手を取って恭しくキスをした。
死を目の前にして初めて、彼女の事を心底愛おしいと思った。

唇を徐々に上へ上へと移しながら、僕は彼女の顔を見ていた。彼女は死ぬときになって初めて、”生きている”ことを実感したようだった。

呼吸を奪い合うような口づけを交わしながら、僕は彼女のこめかみに銃口を押しあてた。彼女はそれをうっとりした表情で受け入れて、そして。

乾燥した音と共に、その命を散らした。

彼女の亡骸を横たえながら、僕は自分の死に際のことを考えていた。
僕がこの命を終える時には、誰が口付けをくれるのだろうとぼんやりと思った。

それはまだ死ぬことが許されない僕の、ほんのひと時の夢のような、昏い喜びを僕に齎した。

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