03



関白左大臣家の北の方と姫君たちの女楽が終わると、宴の間は割れんばかりの拍手が轟いた。当代一の名手と言われた北の方の琵琶に殿上人は聴き入っていたが、僕たちの心を躍らせたのは幼い姫君たちの演奏だった。景光は音楽を好む。そしてその景光に影響されて僕も音楽を嗜むようになったから、十にもならない幼子とは思えない見事な演奏に、素直に胸が弾んだ。

「さすがは元皇女様。琵琶の音色にも気品が滲み出てたね」
「北の方の琵琶も素晴らしかったけど、今日琴を弾いていたのは……」
「六つになる妹の二の姫の方だって」
「六つであれほど筝の琴を弾きこなせるのか。中の弦が細くて切れやすいのに、力の入れ具合が上手なんだな」
「二の姫は美しいと評判だった母宮様に瓜二つなんだって。一の姫を入内させるんなら二の姫をうちの息子にって、既にいっぱい文が届いてるらしいよ」
「何だそりゃ、気持ち悪いな。六つにしかならない童に対して結婚を申し込むだなんて」

率直な感想を述べる僕に対して、景光はこらこら、と窘めるように声を掛けた。

「世に名高き光源氏が紫の上を見出したのも、彼女が八つの時だったでしょ?」
「あれは作り話だろ」
「解んないよ?ゼロだって、運命の相手に出会っちゃったら年齢なんて関係ない!って言いだすかも知れないよ」
「…………」

かつて自分と同い年くらいの子供を持った女性に淡い恋をしていた僕は、その言葉に一言も反論できなかった。

「あれ、どこかに行くの?ゼロ」
「手水に行ってくる。その辺の女房に訊けば、場所を教えてくれるだろ」
「そっか。行ってらっしゃい」
「ああ」

すぐに戻るよと言い残し、僕は供も付けず立ち上がった。それから騒がしい宴の間を抜け出して、寒々しい空気の漂う渡殿の奥へと足を踏み入れた。

  
迷った、ということに気が付いたのは、それから割とすぐのことだった。

「―――あ、れ」

そこら辺にいる女房に手水の場所を尋ねようと思ったのに、一人もすれ違わないまま、気付けばこんな奥まったところにまで来てしまった。貴族の屋敷の造りは大抵似通っているものだが、僕の家より一条院は遥かに広く、複雑に入り組んでいる。
思わず振り返ってみても、来た道すらわからない。宴の喧騒は遠く、音を頼りに戻ることは難しい。ひとまずここで立ち止まって人が通りかかるのを待つべきか、奥に進んでみるかと思案を巡らせていると、

(…………!)

かすかな笛の音が、聞こえた。

(この音は)

間違いない。先ほど宴で聴いた合奏の、姉姫の横笛だった。大人たちは北の方の琵琶や二の姫の琴に夢中になっていたが、僕は自らも芸事に通じ、横笛を得手とする自負があったから、雅やかな母や妹の中にあってさえ決して引けを取らないこの笛の奏者にこそ、心惹かれるものがあった。
姫君が戻ってきているということは、ここは北の方の住まう西の対である。宴の開かれていた母屋とは真逆だ。道理で迷うわけである。

行くべき方向もわかったのだから、すぐに向かえばいい。そう思って身を翻してみたものの、か細い笛の音が行く足を鈍らせた。

(随分と寂しい音色だ)

景光に聴いた話では、父関白に大事にされ、よほど期待を込めて育てられているというのに、何故こんなにも寂しい音を奏でているのだろう。
そのまま捨て置くことも出来たのに、この時の僕はその音色を聴かなかったことには出来なかった。まるで僕の心の奥底を代弁しているかのような笛の音に、ふらふらと足が吸い寄せられていく。

せめて一目。遠くから姿を見るだけでよいから。
誰にともなく言い訳をして、僕は音の鳴る庭の方へ駈け出した。

  
庭は一面の雪だった。
春になれば鮮やかに咲き誇るであろう花の木々は、今はただじっと冬の寒さに耐えている。
生きとし生けるものの気配は何もない。刹那、僕は雪に閉ざされた幽玄の里に閉じ込められたような錯覚に陥った。
一瞬の孤独感が、いっそう笛の音の主を求めさせた。
遣り水に架かる橋を渡り、広廂を横切ったところで足を止め、僕はそっと西の対屋を窺った。そして、真っ白に染め上げられた冬の木々が黒白の世界を織りなす中で、鮮やかに咲いた寒椿の花のような一人の女童に、目が引き寄せられた。

彼女は庭へ繋がる階の上、簀子の濡れ縁に腰を下ろし、小さな手で横笛を奏でていた。
それはまさしく、先ほどの余興で聴いた音色だった。
声を上げることも動くことも出来ないまま、僕は彼女を食い入るように見つめていた。

きめ細かな白い肌にけぶるような長い睫の大きな瞳が印象的な、花も霞むほどの美しい娘だった。

(あれが、関白左大臣様の期待を一身に背負った姫君か)

ともすれば嫉妬してしまいそうな境遇だったが、今は彼女の美しさに圧倒されてしまっていた。これは確かに、いずれは中宮にと望む声があってもおかしくないと思ったのだ。
しかし、顔から視線をずらし笛を奏でる指先を見れば、赤く色づいていかにも凍えているように見えた。
それを目にした途端、潜んでいたことも忘れて、僕は姫君のもとへ一歩踏み出していた。
みし、と雪を踏みしめる音に、姫君は指を止めて初めてこちらの姿を認めた。

「―――あなたは」

突如現れた僕の姿に、姫君は笛を下ろして目を見開いた。その拍子に、小さな手から笛が滑り落ち、からんと音を立てて転がる。
誰何しようとした声を遮り、僕は歩を進めた。足元にまで転がってきた笛を拾い上げ、再び少女を見上げる。

「手が……」
「て?」

僕は数段の階を登り、姫君に向けて拾った横笛を差し出した。

「手が冷えているのではと、居ても立ってもいられなくて」
「…………」

打算もなく発した言葉だったが、姫君は目を瞬かせて心底驚いたという顔をした。
僕自身、自分が何を言って何のために声を掛けたのか全く理解していなかった。ましてや僕は、自分の見た目が他人とは違うことを自覚している。きっと彼女は、こんな風に黄色い頭の人間を見たことなどなかっただろう。
化け物を見るような目で見られるか、それとも好奇心の入り混じった目で見られるか。そのどちらかだろうと思って、僕は早々に姿を見せてしまったことを後悔していた。

静寂のまま三拍が過ぎ、己の行動の唐突さに羞恥を覚え始めたころ。

「お優しいのね、お兄さま」

ふふ、と吐息のような静かさで、姫君は確かに笑った。
その瞳は確かに僕の肌の色と髪の色を捉えていたが、そこに嫌悪の色はなかった。

「わたしの笛を拾ってくださって、ありがとう。月読のお兄さま」
「つ……、月読?」
「ええ。お兄さまの髪の色は、まるで月の光のようにお美しいわ」

だからきっと、あなたは月に住むという神様なのでしょう。と、彼女は朗らかに笑った。

「……そんなことを言われたのは、初めてだ」
「そうなのですか?」
「ああ。僕のこの髪や目の色を見た人は、大体気味悪がるもんなんだけど」

気味が悪い?と言って彼女は小首を傾げた。尼そぎの短い髪の毛が、さらさらと音を立てて白い頬に打ち掛かった。

「とんでもないわ。お兄さまの瞳の色は、澄み渡る空のように綺麗だもの。きっと気味が悪いなんていう方は、お兄さまのお美しさに嫉妬していらっしゃるのね」
「…………」

妙なことを言う姫君だな、と思った。実の父にさえ疎まれて、景光以外の誰もが気味悪がるこの姿を見て、美しいという感想を抱くなんて、と。
しかし、この時彼女が言った“月読”という言葉に、冷え冷えと凍てついていた僕の心の奥底が、小さく揺れ動いたような気がした。




(気が向いたら)続く(かも知れない)

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