木曜日





久しぶりの休日を満喫した翌日、職場はいつも以上に慌ただしかった。

「結城先生、おはようございます!」
「おはよう、どうかしたの?」
「実は、たった今1番ベッドの方が目を醒ましたんです」
「えっ!?」

1番ベッドの男性というのは、先日私が執刀した浅黒い肌の男性の、隣のベッドの患者さんだ。同じ現場で同じように爆発に巻き込まれ、同じように内臓を損傷していたためオペを行った。例の浅黒い肌の男性は、この患者さんを庇うように倒れていたということから、彼らは知り合いだろうとか、同じグループに属する人間なのだろうと言われていた。2人がどういった立場の人間であるにせよ、意識が回復したのは朗報である。

逸る気持ちを押えながら、私は1番ベッドの患者さんの枕元に近付いた。

「おはようございます。私はあなたの担当をしている、結城つばさという医師です」

私が胸元のポケットから名札を出して微笑むと、男性は吊り上がった目を細めた。酸素マスクが邪魔だと言いたげに口元が歪んだので、血中酸素濃度を確認して慎重にマスクを外す。

「気分はどうですか。吐き気や眩暈は感じますか?」

男性は小さく首を振った。殆ど動いていないそれは、けれど確かに否定を示していた。

「それはよかった。ここがどこか、お解りになりますか?」
「……いいえ」
「ここは米花薬師野病院のICUです。ここに運ばれる以前のことは、覚えていらっしゃいますか?」
「…………、ある、程度は……」

薄い眉をきゅっと顰めて、男性は頭を抱えようと右腕を持ち上げた。しかし次の瞬間には、激痛によってその腕はベッドの上に力なく落ちた。

「ああ、右肩は亜脱臼していたので固定させてもらっています。全治3週間ほどです」
「脱臼……」
「と言っても、完全に外れていた訳ではありませんよ。しばらく固定していれば、問題なく動かせるでしょう。ただし脱臼は癖になりやすいので、気を付けてくださいね」
「…………」

ほ、と安堵したような溜息が漏れた。しかしその瞼が、次第に重たそうに下がり始める。
ここで意識を失われては困る、と私は患者さんの頬に触れた。

「申し訳ありませんが、私はあなたのお名前を知りません。教えていただいてもいいでしょうか?」
「……私は、警視庁、の……」
「警視庁?」
「警視庁、公、安部の……」

そこまで言って、男性は眠るように再び意識を失った。言葉を発するということは、存外体力を消耗するものだ。

それにしても、彼は警視庁公安部の、と言っていた。予想していた通り、彼は警察関係者なのだろうか。一応警察病院へ搬送された警察官で意識があった患者さんには、彼や隣のベッドの男性の顔は確認してもらったのだが、偶々顔見知りではなかったために気付かなかったのだろうか。

(……美和子を呼ぼう)

ここでこうして手をこまねいていても、ただいたずらに時間が過ぎていくだけである。私は警視庁への強力なツテである佐藤美和子へ連絡を入れ、男性の身元を証明して欲しいと告げた。美和子は躊躇いも見せずに了承してくれた。

久しぶりに友人の顔が見られることを嬉しく思いながら、私はもう一度1番ベッドに近付いた。男性の酸素マスクを付けなおしていた看護師が、私に気付いて振り返る。

「結城先生、この患者さんなんですが、ちょっと体熱感があります」
「ああ、これから熱が上がるかもね」
「抗生剤入れますか?」
「そうだね。ルート取って、ロセフィン2グラムを分2で様子見ましょうか」
「解りましたー」

てきぱきと指示通り動き始めた看護師の背中を見送って、私はその隣、浅黒い肌の男性の顔を覗き込んだ。相変わらず顔の半分は包帯で覆われていて、検査着の下の体も腹部を中心に白い包帯が包んでいる。

1番ベッドの男性の身元が解れば、この人の身元も解るかも知れない。

(そうしたら、家族を呼んでICをして……、場合によっては転院、かな)

私は先日と同じように、彼の動かない手首を持ち上げた。指と指を重ね合わせて、手の甲側にじわじわと倒していく。それが終わると今度は反対側に力を籠めて、仕上げにぶらぶらと手首を持って振った。
それを見ていた後輩の看護師が、3番ベッドの男性の点滴を調節し終えて質問してきた。

「結城先生、またマッサージしてあげてるんですか?」
「ええ。手首や足首の腱はすぐに硬くなってしまうから、定期的にマッサージをしないとね」
「じゃあ、足は私がやりますね」
「ありがとう。お願いしようかな」

そんな談笑を挟みつつ、10床全ての患者さんの容態を確認する。それが終わるころには1時間ほど経過していて、美和子が到着したことを看護師が報せに来た。

「え?もう?」
「はい。ちょうどこちらに来られる用事があったとかで」
「なるほどね。いいよ、上がってもらって」
「はーい、伝えますね」

看護師はぱたぱたと私の指示を伝えに、内線のもとに走って行った。



美和子が高木刑事を伴って姿を見せたのは、それから10分後のことである。

「この人……、公安部の風見刑事じゃない?」
「た、確かに風見さんですね。こんなに酷い怪我をしていたなんて……」

2人は、ベッドに横たわる彼を見るなりそう言った。どうやら警視庁の人間だというのは間違いないらしい。

「よかった、知り合いだったんだ。公安部の刑事さんなの?」
「ええ、公安部の風見裕也警部補よ。だけど、この間の爆発事故で公安部も出張ってたなんて、これっぽっちも聴いてなかったわ」
「相変わらず連携不足というか何というか、仲が悪いねえ。同じ組織の一員なのに」

刑事部と公安部が手を組んで事にあたったことなんて、私の知る限りでは1件しかない。私がそう言って肩を竦めると、美和子も高木刑事も苦笑いして顔を見合わせた。

「望んでこんな関係になってる訳じゃないわよ。それで、彼の容態はどうなの?」
「うん、彼の方は命に別状はないよ。骨折部位は多いし外傷も多いけど、頭を打った訳じゃないみたいだし」
「それならよかった。って、彼の方は、ってどういう意味?」

さすがに耳ざとい。だが、期待通りの反応である。私は隣のベッドに視線を向けた。

「うん、実はね。その患者さんと同じ事故で搬送されてきた人がいるんだけど、この人も身元が解らなくってさ。多分その、風見さんと同僚なんじゃないかと思うんだけど」
「あら。じゃあついでだから、顔を見せてもらってもいい?」
「いいよ。ただ、こちらの人はもっと重症だったし頭も剃っちゃったから、ちょっと人相が変わってるかも知れないけどね」

美和子と高木刑事を連れて、私は2番ベッドのカーテンを開けた。そこにはぴくりとも動かない、浅黒い肌の男性が眠っていた。

「全身包帯だらけじゃない。頭はどうしたの?」
「頭部外傷が認められたから、脳外に来てもらってね。急性硬膜外血腫だったよ」

頭蓋骨が骨折した際、骨折部位からの出血が血腫となって頭蓋骨と硬膜の間に溜まっていたのだ。硬膜下血腫に比べて予後は良好だが、油断はできない状態である。
まあ詳しいことは、身元が解って家族が面会に来たときにでも話そうかと思ってるんだけどね。私がそう続けようとした時、高木刑事があっ、と声を上げた。

「こ、この人……」
「知り合いなの?高木君」

美和子が驚いて彼を振り返ると、高木刑事は目を見開いたまま患者さんを指差していた。

「この人、ほら、前に話したことがあったでしょう?喫茶ポアロで働いてる……」
「ああ、ポアロで働きながらたまに事件に首を突っ込んでくるっていう、探偵さん?」
「探偵?」

警察関係者なのだとばかり思っていたから、予想外の単語が出てきて私は首を傾げた。

「それじゃこの人、民間人?」
「そうです。最近、この近所で起きる事件でたまにお会いしてました。髪がないので雰囲気が随分違いますけど、間違いないと思います」
「へえ……。それで、彼は何ていう名前なんですか?」
「ええ、彼は―――」

私の問いに、彼は真剣な表情で口を開いた。そして言った。その答えがより事態をややこしくすることになるなんて、微塵も思ってもいない口ぶりで。


「彼は、安室透という名前です」


遠くでレイ君がくしゃみをする声が聞こえた、ような気がした。


[ 5/11 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]