生物





恋する女子高生というものは、時として無限大のパワーを生み出すことがある。
安室先生に憧れていると気付いた時から、私は休み時間でもHRの時間でも、自然とその目立つ姿を追うようになってしまった。ちなみにHRはホームルームであってホームランじゃありません、念のため。

好きな人のことを知りたい、という底なしの探究心は私に先生の交友関係を探らせるには十分すぎる動機で、そこで私は目の前の一見ぶっきらぼうな先生が安室先生と仲がいいことを知った。

「お、藤原。今日はお前が日直か?」
「松田先生、おはようございます」

明日の日直は生物の実習準備の手伝いに来い、と昨日の授業中に指名されていたため、私はこうして皆よりも一足先に生物準備室に足を運んでいた。

松田陣平先生。教師だというのに時たま真っ黒なサングラスを掛けたまま登校してくる、ちょっとファンキーなところもある先生だ。あまり愛想がよくないことも手伝って、彼を怖いと言う生徒も多い。
だけど、私は知っていた。先生が本当はとても柔らかく笑う人なのだということを。安室先生や物理の萩原先生たちと一緒にいると、普段はぴくりとも上がらない口角が自然に上がっているのを何度か見たことがある。

「今日は何の実験をするんですか?」
「ああ、そいつの解剖だ」
「解剖?―――って、ぎゃあ!」
「何だ、その色気の無え悲鳴は」
「すみませんそこまで気を配ってられる余裕がありません!何ですかこれー!」

私は先生が指し示す箱を覗き込んで、全身の毛を逆立てて悲鳴を上げた。思わず先生の背後まで後退し、その背中にしがみつく。

「そんなにビビるこた無えだろ。そんなんで今日の実習、ちゃんと終わらせられんのかよ」
「いやビビりますよ!せめて何が入ってるって予告しといてください!」

私が覗き込んだ箱の中には、ピンク色の肉の塊が入っていた。一瞬しか見えなかったから見間違いかも知れないけど、何か黒いものも見えた。

それは生気のない、黒々とした瞳だった。

「言ってなかったか?今日は豚の目の解剖だってよ」
「聴いてませんよ!何ですかそのワイルドすぎる解剖実習は!」
「眼球の作りを学ぶのにちょうどいいんだよ。ちゃんと1人1個ずつあるからな。お前にはおまけでもう1個追加してやる」
「そんなとこでサービス精神発揮しないでください!本気で怖いんですけど!」

ぎゃあぎゃあと騒ぐ私に嫌な顔ひとつ見せず、松田先生はぽんぽんと私の頭を撫でた。

「悪かったよ、お前ならそんなイイ反応見せてくれるだろうと思って、わざと内容を伏せといたんだ。まあ、想像以上のリアクションだったけどな」

つまりは確信犯ということである。未だに例のブツを直視できないでいる私に、先生は困ったようにくすりと笑った。

そう、確かに笑った。あの松田先生が、私に対して。

それは例えるならば阪神タイガースが日本一になったような、夏の甲子園で無名の公立高校が全国制覇したかのような―――って逆に解りにくい例えになったけど、とにかくとにかくレアな現象であると言いたかったのです、まる。ちなみに私の野球の知識は大体服部君から得たものなので、偏っている自覚はある。

そんなレアなものを至近距離で見せられて、それだけで何だか私の胸はいっぱいになってしまった。豚の眼球への恐怖心もすっ飛んでいくくらいの衝撃だったのだ。

「ほら、先に解剖に使うハサミとピンセット出しといてくれ。授業始まるまであと3分しか無えぞ」
「え、あっ、……はい!」
「何だよ、もう復活したのか。……今度は顔赤いけど、どうした?」

青くなったり赤くなったり忙しい奴だな、と言って先生はまた私の頭を撫でた。赤井先生といい、私の頭はちょうど手を置きやすい位置にでもあるのだろうか。

「何でもないです!ただ、ちょっとびっくりしちゃっただけで」
「びっくりって、何にだ」
「内緒です。えへへ、今日日直で得しちゃった気分」

安室先生と仲がいいというだけで私の中では松田先生の株はストップ高だったけど、今日の笑顔を見てしまえば、余計に松田先生の好感度もアップするというものだ。愛想がないだけで、顔は元々イケメンさんなんだし。

「みずほ、なんや機嫌ええなあ。今日の実習、そんなに楽しそうなん?」
「え?違うよ、実習はなんかめっちゃグロそうだったけど、いいことがあったの!」
「グロそうって何やねん、俺はちょっとやそっとじゃビビらへんでー?」
「おー?言ったね、じゃあ私達の班の分は全部服部君に取ってきてもらおうよ」
「さんせー!平次、よろしゅうな!」
「さんせー!服部、俺の分も頼むで!」
「何でやねん!藤原、お前、嵌めよったな!?」
「だってビビらへんって言ったじゃん。よろしゅう頼んますー」
「その下手な関西弁やめえや、腹立つんじゃ!」
「平次君、そんならウチも一緒に手伝いましょか?」
「はああ!?いやいや、かるた部のエース様の手を煩わせるほどちゃうし、平次の手伝いならアタシが行くし!」
「葉っぱちゃんは引っ込んどって。だって嫌がる未来の旦那さんを見捨てる訳にはいかへんし」
「だーれーがー、アンタの未来の旦那やねん!?」

「おい、藤原!!」

収拾がつかなさそうな言い合いを止めてくれたのは、松田先生の声だった。何故か私ご指名の。

「は、はい!」
「お前らの班だけだぜ、まだ取りに来てねえの。さっさと取りに来て、ちゃちゃっと解剖始めろ!」
「すみませーん……」

あれ、何で私が謝ってるんだろう。そして結局この流れは、私があのグロテスクな豚の眼球を人数分取りに行かなければならない流れなんだろうか。
私が渋々立ち上がった時、一緒に席を立ってくれたのは沖田君だった。

「俺も一緒に行ったる」
「え、いいの?」
「だってお前、グロいもん苦手やったやろ。一人で持ってくるんはしんどいやろ?」
「……ありがと、さすが六代目」

いつも私を揶揄ってばかりの沖田君だけど、優しい所もあるんだな。私はまたしても得をしたような気分で、禍々しい空気を放つブツの元へと向かった。

ちなみにうちの班で1番豚の眼球に怯えていたのは、ビビらへんと胸を張っていた服部君だった。


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