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「本田さくら?」

ジンの口から前触れもなく出てきた日本人の女の名前に、私は眉根を寄せた。ジンは表情を変えないまま、煙草の煙を燻らせながら続けた。

「ああ。1年と半年ほど前、組織が目を付けていたプログラマーがいただろう」
「ええ……、こちらに引っこ抜く前に死んでしまった彼ね。確か名前は、ギルバートとか言ったかしら」

私はマティーニの入ったグラスを傾けて喉を潤した。ギルバートというプログラマーに死なれたのは今思い返しても痛かった。サイバーセキュリティに関してやや防御が甘いのは、組織が長年抱える頭痛の種だったのである。

あのプログラマーは、FBIと組んで私達の組織に対して何度もサイバーテロを仕掛けてきた。数年越しの攻防を経て、やっとその正体を突き止め、その技術力を買ってやろうとした矢先、あまりにもタイミングよく死なれてしまったのだ。

「そのプログラマーの唯一の弟子が、さっき言った本田さくらという女だ。実はつい先日、バーボンと一緒に米花町にいた所を目撃されている」
「バーボンと?」

言われて、私も記憶を掘り起こした。半年以上も前になるが、かつて私のシルバーブレッドが誘拐された事件があったけれど、探偵助手として現場にいたバーボンは、毛利小五郎の信用を得るために自分の愛車をぶつけたのだ。
その時助手席に乗っていたのは、毛利小五郎でも、私の大事なエンジェルでもなかった。

「その女って、写真はある?」
「何だ、お前も心当たりがあるのか?ベルモット」
「確たる証拠はないけど、バーボンと近しい人間なら、一度くらい顔を見たことがあるかも知れないわ」

ジンに手渡された写真を見て、私は口角を上げた。やっぱり思った通り、あの時バーボンの車の助手席に座っていた女が件の“本田さくら”である。

顔を見たら、徐々にその素性も思い出してきた。日本の東都大学工学部の院を飛び級で卒業し、ドイツで人工知能を研究している技術者で、確か情報工学界の申し子と呼ばれている女である。

「この女をうちに引き込め。それがラムからの指令だ」
「引き込めって、1年半前と同じことをしようって言うの?」
「ああ。あの時はうっかり死なれてしまったが、今回は別の方法で攻めるつもりだ」

今度の獲物は女だからな、とうっそりと嗤ったジンに、私は彼が何を考えているのか察して鼻白んだ。まったく、この男は相変わらず趣味が悪いこと。

ラムからの命令は、実際には続きがあるはずだ。あのプログラマーの弟子ならば、やはりFBIのような機関と既に手を組んでいる可能性も十分考えられる。そのうえでこちらの味方に引き入れられればよし。さもなくば、

―――殺せ。

というのが、ラムからの指令の全容だろう。

「それで、彼女の勧誘は誰に任せるの?」
「決まってるだろう、バーボンだ。お前もバックアップに回れ」

予想していた通りの指示に、私は肩を竦めた。

「まあ、それが妥当でしょうね。精々ハニートラップでもなんでも仕掛けてもらいましょうか」
「この女が奴にとってどんな存在かは知らねえし興味もねえが、組織にとって利益となり得る人材なら、そう報告するのが筋ってもんだ」

それをしないのは、彼女がバーボンにとって組織の利益となり得ると目されていないのか、それとも。
余程大事な人間だから、私達の目に触れさせたくないのか。
どちらにしても、バーボンにこの指令を伝えることで、あの男の腹を多少探ることが出来るだろう。そうと見越しての人選だった。

「秘密主義はもう終いだ。そろそろ奴のスカした面を剥がしてやらねーとなぁ」

短くなった煙草を灰皿に押し付け、ジンは心底愉快そうにくつくつと嗤った。


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