24.5





目が醒めて最初に目に入ったのは、見慣れた壁紙と空っぽになった腕だった。
彼女を抱き締めて眠ったはずなのに、一体どこへ行ったのだろう。

僕が視線を巡らせると、目的の彼女はすぐ横にいた。こちらに背を向けてベッドの淵に腰かけながら、下着を身に着けようと前屈みになっている。
その無防備な背中に手を伸ばし、僕は彼女の背骨に沿って指を這わせた。

「ひゃう、……零さん、起きてたの」
「ん、おはよう。こら、暴れるな」

僕は上体を起こしてすべすべの背中にキスを贈った。くすぐったさに抵抗する腕を抑え込んで、彼女の腰に腕を回す。ほとんど力の入っていない体は、大人しく僕の胸に体重を預けてきた。
素肌に彼女の柔らかい髪が触れて、心地いい香りが広がった。

「今何時だ?」
「朝の9時よ。ギルバートに聴いたけど、あなた、今日はお休みなんでしょう?」
「ああ、やっともぎ取った休みだからな……。だからもう少しこうしていたい」

早々に身支度を整えようとしていたつれない恋人の耳に、僕は甘い囁きを落とした。彼女はくすくすと笑いながら、首筋に埋まった僕の頭を撫でる。
その目元がうっすらと蒼くなっているのを、僕は見逃さなかった。

「……クマができてる」
「え、本当?」
「ああ、やっぱり大分無理をさせたかな」

僕が優しく目の淵をなぞると、彼女はきゅっと瞼を瞑った。

「隙あり」
「っ、」

小さな音を立てて唇を奪い、見せつけるように舌なめずりすると、彼女はじわじわと頬を染めた。瞳が左側に泳いでいる時は、何か記憶を探っている時だと言われている。そしてこんな反応をするということは、朝方の行為のことでも思い出しているのだろう。

「どうした?そんなに初心な顔をして」
「だ、だって。……あの時の零さん、普段の爽やかな“安室さん”や、仕事人間の“降谷さん”の顔とも違うんだもの」
「お前専用の顔だからな。嫌いだったか?」

裸の胸に彼女の薄い背中がくっついているから、彼女の心拍数が直に伝わってくる。どれだけ顔を背けようと思っても、その音と真っ赤になった耳が、嘘を吐けない彼女の本音を僕に教えてくれていた。

「……すき」

そう言いながら僕の手を取り、掌に頬を摺り寄せる仕草があまりにも可愛くて、僕の鼓動も一気に早くなった。
彼女は朝から濃密な空気に耐え切れなくなったのか、腕の中で身動ぎした。

「そ、そう言えば。昨日作っておいたご飯、朝に食べようと思って冷蔵庫に入れてるわ。白米を炊いてしまったんだけど、朝はパン派だったかしら?」
「ああ、ありがとう。お米も大好物だから問題ない。支度は僕がしてくるから、さくらはもう少しゆっくりしておけ」

ぽんぽん、と頭を撫でて体を離すと、彼女は大人しく頷いた。僕は脱ぎ捨てておいたスウェットを履き、適当なTシャツを被って部屋を出た。

*****

服装を整え、洗面所を借りようと立ち上がると、ベッドヘッドの上で彼のスマートウォッチが振動した。ギルバートからの通信だろうと思って、私は画面を見ないように端末を持ち上げる。
すると、断りも無くギルバートの声がスピーカーから聞こえてきた。

「さくら。昨日採取した、江戸川コナン君の指紋の照合が終わりました」

どうやら彼の用事は零さんではなく、私にあったらしい。ちらりとドアの向こうを見やり、零さんが入ってこないことを確かめて、私は小声で続きを促す。

「ありがとう、ご苦労様。あなたにしては時間が掛かったわね」

昨日、零さんを米花駅で待っている間、コナン君に私のスマホを使ってギルバートと会話をしてもらったのには理由がある。私のスマホの表面には指紋認証システムが埋め込まれており、触った人間の指紋がどこの誰のものであるか、世界中のデータベースと照合できるようになっているのだ。だからギルバートを撒き餌にして、コナン君の指紋を逆に採取しようとしたのである。

零さんがこれほどまでに信頼を寄せるあの子供が本当にただの子供であるならば、こんなところでその頭脳を埋もれさせているのはあまりにも不自然だ。

そして、ただの子供でないのなら―――。

「申し訳ありません。実は、コンピュータの論理上では容認できない結果となってしまったのです。そのため、何万回と照合作業を繰り返していました」
「どういうこと?」
「5万回の試行の結果、彼の指紋は確かにとある人物の指紋と合致しました。照合率は99.9999%です」

そこまで解っていて、何故こんなに結論を述べることを躊躇うのだろうか。私が首を捻っていると、彼は生物学上あり得ないことですが、と前置いて、驚くべき事実を告げた。

「彼の指紋は、現在行方不明とされている高校生探偵の、工藤新一のものであると結論が出ました。つまり、江戸川コナンは工藤新一の体が10歳ほど若返った姿である、と理論上は考えられます」

そんなことはあり得ない―――と、言い切ってしまうことができなかった。
あり得ないことを可能にするのが、私達未来学者の研究の礎である。そんなことは不可能だ、と理論だけで切り捨ててしまうことはナンセンスだ。

けれど、すぐに理解が追い付くかと言われれば、答えは勿論NOである。

私はこの時、哀ちゃんのラボで彼女がしょっちゅう更新しているフォルダのことを思い出していた。聴いた事がない薬だと思ったあれは、一体何という名前だっただろうか。

(そうだわ)


あれは確か、―――APTX4869と言ったのだ。


驚きに固まる私に気付かないまま、零さんは上機嫌で朝ごはんの支度を整えていた。


[ 78/112 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]