03






安室透、もとい降谷零の車がホテルに到着したのは、午後8時を過ぎてからだった。私はシートベルトを外しながら、送ってもらった礼を言った。

「今回、東都大学の研究室に立ち寄る予定は?」
「あります。一応、東都大学工学部の客員研究員という立場ですから」

研究室の身内に犯罪者がいる、と知った時の衝撃は凄まじいものだったけれど、こういう世界では起こり得る事態なのかも知れないとも思った。自分の才能一つで出世しなくてはならない世界に、やっかみや他人の研究成果の横取りはつきものである。

「君のアプリを盗んだ相手に心当たりは?」
「ありません。と言いたいところですが、3、4人は候補に入れてもいいでしょう。アプリが辿ったIPアドレスに、海外のものは含まれていますか?」
「いや、日本国内のものだけだ。だから海外にまでは捜査の手が及んでいない」
「なるほど。では、2人は除外できますね」

私は一言断りを入れて、助手席で自身のタブレットを起動させた。研究室のホームページにアクセスし、メンバー全員の顔と名前を表示する。

「私がアプリを試運転したとき、研究室にいたのはこの5名です。ただしこの方はアメリカ在住で、殆ど日本には戻ってきません。教授も海外を飛び回っているので同様です」
「それで容疑者からは外れる、と」

いささか短絡的かも知れないが、海外に居ながらにしてその国のIPアドレスを経由せずにいられる環境と言うのはあり得ない。尊敬する教授が容疑者から外れたことで、私は一つ心の重石が取れたような気がした。

「研究室を訪れる日時は?」
「明後日の午前9時と、明々後日の午後4時です。今週日曜の午後2時からは彼らと合同の講演会があるので、その打ち合わせに」
「講演会か……。少し計画を練ってみる必要がありそうだ」

何の計画かも教えられないまま、降谷さんは明日も会えるかと聞いてきた。明日もポアロでバイトが入っているから、上がり次第報告する、とのことだった。

「念のために訊きますけど、報告とは?」

彼の言葉は簡潔で無駄が無い。それ故に、時折彼の言葉の意味を推し量れないこともある。その真意を正しく理解しようと思ったら、会話に気を抜くことは許されなかった。
私が訊きかえしたことで彼は自分の言葉が足りなかったことに気付いたらしい。すまない、と呟いて補足してくれた。

「君を協力者として認可させることの最終確認と、今日知った新たな情報をもとに今後の捜査方針を変更する必要がある。その報告さ」
「……解りました。明日は夕方5時から空いています」
「了解。場所はこちらで決めてしまっても構わないか?」
「ええ、お任せします」

お互いの連絡先を交換し、私は漸く車を降りた。大きな黒いスーツケースが、やけに重たく感じられる。

「それじゃ、また明日」
「はい。おやすみなさい」

短い挨拶の後、彼の愛車はスムーズに滑り出して、夜の闇に紛れて行った。

私は首元のヘッドホンに手をやり、虚空を仰いだ。
ただお土産を渡すためにポアロに立ち寄っただけなのに、こんなことになるなんて。

「―――さくら」

小さなクリック音が響き、ヘッドホンから落ち着いた男の声がした。私はホテルのロータリーにあるタクシー乗り場へ行き、そこに備え付けてあるベンチに腰を下ろした。ヘッドホンを被りなおし、位置を調整する。

「ハイ、ギルバート。具合はどう?」
「良好です。それよりもさくら、大丈夫ですか」

気遣わしげな声が聴こえて、私は自嘲したくなった。彼には全てお見通しなのだ。
降谷さんの前で張り続けていた虚勢に、彼はとっくに気付いていたのだ。

「聴いてたの?出歯亀は良くないわ」
「お言葉ですが、出歯亀という言葉は隠れて覗き見をするという意味です。私は隠れていた訳ではありませんよ」

それもそうだ、と私は笑みを深くした。彼はいつでも私の傍に居てくれる。

「でも珍しいわね。あなたから声を掛けてくるなんて」
「差し出がましいかとは思ったのですが。あまりにも刺激的な情報が多すぎて、さくらの容量を超えてしまうのではないかと思いまして」
「……優しい子ね。あなたに気負わせるつもりは無かったんだけれど」

本当に彼は優しい。温かな彼の声に絆されて、ついつい気が緩んでしまいそうだ。

「さくら」

それを見越したかのようなタイミングで、彼は私の名を呼んだ。

「私の前で、我慢する必要はありませんよ」

揺らぎの無いその声に、私は自分の負けを認めた。片手で顔を覆い、ベンチの背もたれに体重を預ける。

―――恐ろしかった。
自分の研究が悪意をもって利用されているという事実が、ただ恐ろしかった。
気心の知れた仲間だと思っていた人間の、底知れぬ悪意が恐ろしかった。

たった一人で身寄りもいないドイツへ渡り、目標に向かって突っ走ってきた。けれどその道は決して平坦ではなかった。研究機関に集う才能ある若者は、良くも悪くもプライドが高い。足元を掬われないようにすることで必死な時期もあったものだ。女の身であれば尚更である。
ジェンダーの壁など無いと思われがちな欧米だが、そんなことは幻想だ。女は男の3倍の功績を残して初めて評価される。

世界中から集まる秀才たちに立ち混じり、肩肘を張って生きていくことに疲れたなどと言うつもりはない。けれど母国に戻ってきてまで、同じ緊張感に苛まれることになろうとは。

「……、ふ、……っ」
「さくら」

ギルバートの呼びかけに、私は返事が出来なかった。喉からこみ上げる熱いものを、彼以外に聞かれる訳にはいかない。

「……初めて、この体を恨めしく思いましたよ」
「うん?」

いきなり何を言い出すのだろう。こんな反抗的な言葉を聴くのは初めてのことである。
微かな驚きに、彼の声に集中しようと全神経を研ぎ澄ませた時、その声は直接脳内に届いた。

「あなたを抱き締めることが出来ない」

大真面目にそんなことを言うものだから、私は今度こそ驚きに涙を引込めざるを得なかった。

「ふふ、っはは、あなた、さっきの彼より口説き上手ね」
「降谷零と比べられるのは、本意ではありません」
「馬鹿ね、褒めてるのよ。ありがとう、慰めてくれて」

最近、彼の感情表現が豊かになってきたことを嬉しく思いながら、私はヘッドホンの表面を撫でた。

「ねえギルバート。ちょっとお願いしてもいい?」
「教授は昨日までマドリードに出張に行っていました。古川清は明日アメリカから帰国する便を取っています。大畠雅史、富田康孝、林浩太はそもそも出国していません」
「Good boy. さすがね……」

こちらが言わんとすることを瞬時に理解して行動に移してくれる、まさに一心同体の存在を心から愛しく思う。

公安警察という存在がバックに付いてくれることになったからと言って、手をこまねいているつもりはない。私は私で、悪意に立ち向かわなくては。

「降谷零についてはどうしますか?」
「触れなくていいわ。面倒事の匂いがするもの」
「私も同感です。下手に検索履歴など残さない方がいいように思います」

自分の危機回避能力はそこそこ高いと思っていた。1番目に嫌いなものは面倒事、2番目に嫌いなものも面倒事だ。公安警察が守ってくれる、と言えば聞こえはいいが、彼らの主な活動は彼らに敵対する組織への諜報である。当然、危ない組織と関わり合いになっている可能性が非常に高い。

公安警察のゼロなどという人物に深入りして、巻き添えを食らっては堪らない。

結果として、私のこの直観は正しかったのだとのちに悟るのだけれど。
悟った時には面倒事の只中に巻き込まれた後だったなんて、全くもって笑えない。



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