17





ようやく動きを止めたゴンドラの中で、私は伏せていた頭を恐々と上げた。
パラパラと鉄くずのようなものが降ってくるが、それ以外に動くものは見当たらない。

あちこちに散乱している端末を視界に入れて、私は彼の名前を呼んだ。

「ギルバート……」

これで最後だ、と言って、ゴンドラを後にした彼。
愛していると言って、一方的に唇を奪っていった彼は、今どこでどうしているのだろう。

碌でもない考えが頭を過りそうになった瞬間、首に掛けられたヘッドホンが振動した。慌ててそれを装着すると、脳内に直接響いたのは陽気なクイーンイングリッシュだった。

「Hey, さくら。怪我はないか!?」
「ギルバート!」

私はその声を聴いて、肩からどっと力が抜けていくのが解った。
生きている。彼は生きていた。
あんな縁起でもないことを言うから、もう戻ってこないつもりなのかと勘違いしてしまった。

「さくら、こっちは大丈夫だ。君は今どこにいる?」
「今、えっと、地面から20メートルくらいの距離にいるわ。ゴンドラが横倒しになってるから、天蓋からは抜け出しやすいかも……」

私は内部をざっと確認して答えた。ゴンドラが重力に従って向いていたら、私一人ではここから出ることは出来なかっただろうけど、今は飛び出した鉄骨のおかげでゴンドラが大きく傾いていたのだ。
彼はそれを聴いて、そうか、と考え込むような声を上げた。

「こちらは今から崩落するだろうから、ひとまず離脱する。君は子供たちの元へ行け!」
「子供たち……、そうだわ、あの子たちは無事なの?」
「まだ確認できていないが、君がいるゴンドラから見て10時の方向にいることは間違いない。頼む、行ってやってくれないか?」
「ええ、解ったわ!後でちゃんと、色々と説明してよね!」

そう言って私は通話を切った。この時の私は子供たちのことで頭がいっぱいで、気付くことが出来なかったのだ。

彼の陽気な声が聞こえてくる直前に、小さなクリック音が鳴ったことに。



お目当てのゴンドラは、ほどなくして見つかった。

「哀ちゃん、皆、大丈夫!?」

天蓋を開けて中を覗き込むと、哀ちゃんとコナン君の友達という3人がきょとんとした顔でこちらを見上げた。私は警戒させないようににっこりと微笑み、ゴンドラの中に降り立つ。

「ごめんね、びっくりさせちゃったかしら。私は本田さくら。哀ちゃんやコナン君とは、少し前から友達になってもらったんだけど」

もしよかったら、あなたたちの名前も教えてもらえないかな。そう続けようとした私の言葉は、宙に浮いたまま霧散した。
私の腰に、小さな影が縋り付くように腕を回していたのだ。

「―――さくらさん……」
「哀ちゃん?どうしたの?……怖かった?」

いくら大人びているとは言え、哀ちゃんもまだ小学生なのだ。あれだけ恐ろしい体験をしたら、大人に甘えたくなるのは当たり前だろう。
それに彼女は、博士から聴いた話によればあの組織と関りのある人間なのだ。そんな相手から容赦のない攻撃を受けて、きっと酷く傷付いたに違いない。

私は笑って彼女の体を抱き締め返した。

「もう平気よ。怖いものは全部なくなったから。だからほら、まずは怪我がないか教えてもらえる?」

私が明るく問いかけると、彼女は驚いたように体を離し、私の顔を覗き込んだ。

「ひょっとして、あなた、知らないの……?」
「え?……知らないって、何を?」

首を傾げる私に、哀ちゃんは息を呑んで瞳を震わせた。

その表情が意味するものが少なくとも明るいニュースではないことは、麻痺していた脳でも理解出来た。



コナン君と哀ちゃんと連れ立って、私は救急車の前に駆け寄った。
ストレッチャーは2台あり、どちらもカーキのシートが掛けられていた。

「待ってくれ。遺体の確認がしたい」

眼鏡を掛けた男性がそう言うと、救急隊員は身元が判別できる状態ではないと答えた。
それはどちらのストレッチャーに横たわる人間のことを言っているのか、私の脳は理解することを拒んだ。
やがて手前のストレッチャーから、黒焦げになったキーホルダーのようなものが落ちてきた。コナン君と哀ちゃんが反応したことから、これはキュラソーの持ち物だったと判断していいだろう。

ならば、もう一人の遺体は。
哀ちゃんが突っ込んでくるクレーン車の中に見たという、もう一人の人影は。

一体、誰の物だというのだろう。

私は装着したままだったヘッドホンに語り掛けた。

「……ギルバート」

お願い。どうかもう一度、あの陽気な声を聴かせて。
ここに横たわる遺体があの人の物だなんて、そんなこと信じられない。

「ギルバート。聞こえているんでしょう?」

私はふらりと歩を進めた。カーキのシートを目に入れることが恐ろしかった。
すぐに返事をもらえると思っていた私の耳に届いたのは、僅かな希望を打ち砕くような小さなクリック音だった。

「……さくら」
「…………」

ギルバートの声だった。確かに彼と同じ声だった。

けれど、決定的に違っていた。

「申し訳ありません、さくら。先ほどは、あなたが子供たちと一緒にいれば無茶な行動は取るまいと判断して、咄嗟に嘘を吐いてしまいました」

嘘。嘘とは何だ。彼が生きて私に連絡してくることが、どうして嘘になるのだろう。
しかし、私の作った人工知能は私に逃げ場を与えなかった。

「さくら。ギルバートは死にました」
「嘘……」
「嘘ではありません。観覧車の崩壊を止めるために、彼はキュラソーと共に建設現場の重機を動かして―――」

その先は言葉にならなかった。哀ちゃんが言った言葉が真実だとするならば、彼は観覧車に押し潰されて死んでしまったのだろう。
無駄に冷静に回る自分の頭が憎らしかった。信じたくないといくら感情が訴えても、脳は情報を正しく受け取って、それを事実として受容し始めている。

「…………。どうして……」

どうして彼は死んだのだろう。どうして彼は私にあんなことを告げたのだろう。
どうして彼は、こんな形で私の前に姿を現したのだろう。

それら全ての疑問が詰まった短い問いに、人工知能は完璧に答えてくれた。

「彼の滞在していた部屋にはドセタキセル、ゲムシタビン、そしてフルオロウラシルのボトルがありました」

その羅列に私は凍り付いた。フルオロウラシルについては、ドイツで知り合った医者から聴いたことがあったのだ。フッ化ピリミジン系の化学物質を含む、代謝拮抗剤の一種である。
人工知能は静かに続けた。

「そうと明言はしませんでしたが、私には解りました。彼は膵臓を癌に侵されていたのです。もう長くはない命だと、1年前から解っていたのです」

1年前。彼が組織に狙われて、死を偽装したのとほぼ同時期である。
その時に自分の死期を悟ったのなら、今回こうして私の前に現れたのも説明がつく。

「だから、姿を現した……?私の目の前で死ぬつもりで……」
「そうです。彼は究極のエゴイストでしたから」
「あなたはそこまで知っていて……、彼がここに来るのを止めようとは思わなかったの」

彼がここに来なければ。あのゴンドラで私を待ち構えていなければ、今も生きて笑っていられたかも知れないのに。

「解ってください」

人工知能は淡々と答えた。

「それが、“ギルバート”の望みだと」

ふらふらと、私は夜の港町をあてどなく彷徨った。煌々と光る遠くのライトアップが、非現実的な気持ちを駆り立てる。
ゴンドラに引きずり込まれた時、酷くやつれているとは思ったのだ。やけに顔色が悪いようだとも。

けれど、死に至る病を抱えていたなんて想像もしなかった。

気付くことが出来ていたなら、私はどうしていたのだろうか。
こんな所にいるべきではないと怒って、病院に連行しただろうか。愛していると告げる瞳に、嘘でも自分も愛していると答えたのだろうか。
一人で去って行こうとする背中に縋り付き、行かないでと止めただろうか。

そんな仮定は全て無意味だと、私の脳は冷静に判断していた。
ただただ、かつて愛した男を最悪の形で喪ってしまったのだと、その事実が胸を支配した。


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