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真夏のうだるような陽も静まりかけた、午後4時過ぎの喫茶ポアロ。昼間は多くのお客で賑わっている店内だが、この時間になればその姿もまばらである。

買い出しに出かけたオーナーと梓さんに店内を任された僕は、食器類を洗いながら新たに舞い込んだ仕事について考えを馳せていた。仕事と言っても黒の組織のバーボンとしてのものではなく、公安警察の降谷零としてのものである。

表の顔は喫茶ポアロでバイトをしつつ、ポアロの上の階で探偵事務所を営む毛利小五郎に弟子入りしている安室透。裏の顔は主に日本を拠点に動く犯罪組織、黒の組織の幹部であるバーボン。
そして本当の顔はと言うと、黒の組織に幹部として潜入捜査をしている公安警察、警察庁警備局警備企画課に属する情報分析統括部隊、通称ゼロの降谷零。

3つの顔を使い分けて、守るべきこの国の秩序を保つことが、僕に課せられた使命である。

今回上司から言い渡された任務は、平たく言えばサイバーテロの捜査だった。半年ほど前から情報工学研究者、システムエンジニアを中心に被害が広がっており、ついに警察庁のデータベースにまでその影響が及びそうになった、というところで自分に白羽の矢が立ったのである。
単純そうで複雑な様相を呈する事件の概要を頭に思い浮かべ、僕は漏れそうになった溜息を飲み込んだ。いくらお客が少ないからと言って、“安室透”としての演技に気を抜いていいわけではない。

洗い物を終えたその時、カラン、とドアが開く音に釣られて、僕は入り口を振り返った。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

完璧な営業スマイルを貼りつけて挨拶をする。ドアを開けた客は、黒いスーツケースを足元に鎮座させた女性だった。
細身だが引き締まった肉感のある体を、白いタンクトップの上に薄手のパーカー、下はデニム生地のホットパンツというラフな格好に包んでいる。首元には大きなヘッドホン。陽射しを避けるためか掛けていたサングラスの下で、チェリーレッドのリップが引かれた唇が小さく開いた。

てっきり僕の、一名様ですか、という質問に対する答えが返ってくるものと思っていたが、彼女は不思議そうな声音であれ?と言った。

「ここ、ポアロ……ですよね?」

そう問い掛けられて、僕も小さく首を傾げた。そうですよ、と頷いてみせるも、彼女は僕の声を聴いているのかいないのか、外の立て看板を確認する始末である。
自惚れではないが、初めて顔を合わせる女性にこんな薄い反応を示されたのは初めてのことだった。

「ええと、オーナーか梓―――さんは?」

剰え彼女の関心は、僕ではなくここに居ない二人に向いている。僕は素直に応えることにした。

「お二人なら、買い出しに出かけてらっしゃいますよ」

あの二人の知り合いだろうか。この服装から見ても、仕入れ先の業者の類ではない。

「買い出し、ですか」
「ええ。あと20分ほどで戻られると思いますけどね」

僕の言葉に、彼女は顎を引いて、考え込むように左手首の時計を見つめた。やがて自分の中で結論が出たのだろう、それなら、と前置いて僕の方へと向き直る。

「二人が戻ってくるまで、中で待たせてもらってもいいですか?」

半ば予想していた言葉に、僕は愛想よく笑って首肯した。首肯しようと、した。
彼女の形のいい指が、黒いサングラスの弦に掛かる。その下から現れた瞳に、不本意なことに―――潜入捜査官としてあるまじきことに、僕は一瞬呼吸も止めて見入ってしまった。

意志の強そうな切れ長の目をした、それは美しい女性だった。美人と逢って会話をしたことは数あれど、こんなにも印象的な瞳を見たのは初めてのことである。
空の蒼を幾重にも重ねたかのような、深い深い藍色の瞳。

彼女は僕の反応などお構いなしに、スーツケースを引いて店内に入ってくる。やがてカウンターに立つ僕の前で足を止めると、悪戯っぽい微笑みを浮かべて彼女は身を乗り出した。
上半身を折り、カウンターに頬杖をついて下から僕を見据える。タンクトップの大きく開いた襟ぐりから白い肌が見えて、僕は視線をそっと外した。

「その間、あなたのコーヒーを楽しませてもらいたいわ」
「え?」

彼女の雰囲気に少しばかり呑まれていたのか、咄嗟に返事が出てこない僕の態度を、彼女は怒るでもなく整った口元を綻ばせる。

「オーナーや梓が、いくらお客様が少ない時間帯だからって、二人して席を外すなんてあり得ない。普通ならね」
「…………」
「けれどあなたになら、お店を任せても大丈夫。そう思わせるほど、信頼されているのでしょう?」
「……あなたは」

この短時間でその結論に辿り着くなんて、恐ろしく頭の切れる女だ。一体何者なのだろう、と内心で身構える僕に、彼女は屈託なく破顔した。

「オーナーも認めるあなたのコーヒーを、私も味わってみたいわ」

お願いしてもいいでしょうか、というのは口先だけの問いかけで、僕に拒否権など与える気は無いのだろう。彼女は客で、僕は従業員なのだからそれが当たり前なのだが。

こうして僕は、真夏のある晴れた日に、本田さくらと名乗る彼女と不思議な出会いを果たした。このほんの偶然のような邂逅が、時を経て何より掛け替えのない瞬間となることを、この時の僕はまだ知らない。


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