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「初めまして、降谷零さん」

ヘッドホンからその言葉が聞こえてきた次の瞬間、僕はベッドに座る本田さくらの手首を掴んでいた。

「っ、お前、まさかこの会話を第三者に傍受させたのか!?」

今日の会話だけではない。こうして僕の本名が知られているということは、これまでの会話は全て彼に筒抜けであると思って間違いなさそうだった。
こちらは彼女を信用して、己の立場と名前を打ち明けたのだ。なのにこの女は、顔も知らない自分のパートナーに機密事項を漏らしていた。
信頼が裏切られたように感じて、僕は手首を握った手に力を籠めた。

「や、めて、痛っ……!」

彼女は顔を歪めて悲鳴を上げるが、勿論そんなことでは追及をやめるつもりはない。納得のいく弁解が出来るならしてみろ、と低く告げると、男の声が先に答えた。

「さくらに乱暴を働くのはやめてもらえませんか。驚かせたことに対しては謝ります」

あくまで動揺を見せない男の声に、僕も若干落ち着きを取り戻した。そうだ、まずはこの男の正体を知ることから始めなければ。

「君は一体何者だ?」
「私の名前はギルバート。あなたが頭に付けているヘッドホンの正体です」

頓珍漢な答えが返ってきて、僕は思い切り顔を顰めた。

「ヘッドホンの正体だと?そうではなくて、お前の―――この声の主の正体を訊いている!」
「落ち着いてください。ですから申し上げた通りです。私の正体は、あなたが頭に装着したヘッドホンそのものです」

会話が成立していない、と僕は思った。彼の語る言葉はとても美しい日本語だったが、同時に拭いきれないぎこちなさを感じていた。

「日本語を使い慣れていないのか?英語が母国語なら英語でも」
「いいえ、日本語で結構です。ともかく、私は逃げも隠れもしていません。あなたの目の前にいます。もっとも、逃げる術を持たないと言う方が正しいのですが」
「……。降参だ。もっと解りやすく教えてくれないか」

謎かけのようなやり取りに、僕は早々に白旗をあげた。どんな答えが返ってきても、この混乱を正せるものであるとは思えなかった。

「ええ、ではお伝えします」

一瞬、声が途切れた。息継ぎさえ聞こえてくるような静寂ののちに、彼は信じられない言葉を続けた。

「私は、人間ではありません。さくらと阿笠博士が開発した、人工知能なのです」

僕は束の間呼吸を止めた。本田さくらは痛みに顔を歪めたまま、僕を一心に見つめている。

「それは何かの悪ふざけなのか」
「滅相も無い。至って真面目なお話です。さくらは私という人工知能を完成させるために、大学生、大学院生の4年間を費やしました。私の存在はD.F.K.Iの誰も知りません。東都大学の研究室のメンバーも知りません。知っているのは生みの親である2人と、2人が認めた人間だけです」

僕はしばらく事実を受け入れられなかった。今こうして会話をしている相手が、人間ではない?人工的にプログラミングされた機械だと?
男の言葉はやや丁寧すぎる嫌いはあるが、言葉遣いも文法も完璧だった。感情の籠った声音も、本田さくらを庇おうとする口調も、作られたものであるとは思えない。

「私の声の人間らしさが機械で生成されたものだと認めづらいのは解りますが、実は機械が話すことは容易です。1万円程度で買える電子書籍端末でさえ、流暢に人間の話し方を真似てみせることが出来ます。さくらと博士はその数万倍もつぎ込んだのですよ」

それは十分に安い部類ではないのか、とは言えなかった。そんな安上がりな研究で、自分がこうまで混乱させられているとは思いたくなかった。
だが、それが真実であるならば大畠雅史が主張していた内容にも納得がいく。恐らく彼は、取り調べの時にこう言おうとしたのだ。“自分が彼女のヘッドホンを使った時はまだ不完全だったけど、あれは多分―――あいつが開発している人工知能だ”と。

僕は本田さくらの手首を解放した。

「君が本当に人工知能だと言うなら、教えてくれ。2008年9月14日のダウ平均株価の終値は?」
「その日は日曜日でした」

声は瞬時に答えた。

「ですから市場は開かれていません」

うすら寒いものが背筋を伝わった。その日は罠として選んだのだ。俗にいうリーマンショックが発生した9月15日は月曜日だった。そこから逆算しての日付指定だったが、引っ掛かるどころか簡単に正解を述べられて、僕は茫然と本田さくらと彼女の頭上のヘッドホンを見やった。

「……信用するしか……ないのか」

僕の呟きを聞きつけて、彼女はベッドから立ち上がった。目線が近付く。

「あなたが信用してくれないと、この子の存在をあなたに教えた意味がなくなります。この子は極秘の存在なんです―――大畠先輩の言う通り」

あの男の言う通り、彼女は自身の研究室の教授や、働いている研究機関のトップに自分の開発したものの報告義務を怠ったことを認めた。

僕はこのヘッドホンに対する彼女の態度を思い返していた。恋人に接するように、誘拐された我が子を案じるように見えたそれらは、大げさな演技などではなかったのだ。
彼女は今自分が装着しているサイズの大きなヘッドホンがマスターで、僕が着けているものは子機だと言った。僕がこれまでイメージしていた人工知能像―――スーパーコンピュータのようなサイズのパソコンに接続された不格好な大きさの代物―――が、音を立てて崩れていく。IT業界では小型化、軽量化が主流と言っても、このサイズにまで縮めることが可能だなんて誰が思うだろうか。

「どうして上に報告しないんだ?」

僕は彼女に詰め寄った。当然の疑問が頭を渦巻いていた。

「そうすればもっと、研究がしやすくなるだろう。研究費も下りるしな」
「この子のコンセプトを作ったのは、私ではないからです」

大学の頃からお世話になっているとある発明家との共同開発なのだと、彼女は言った。

「そして、この子を作った本人はこの開発を発表する気がない。私がこの子を引き継いで研究しているのは、あくまで私の趣味の領域にすぎません」
「趣味の領域にしては、出来すぎじゃないのか。この開発が世に出れば、どんな付加価値が付くとも限らない」

自分で言って、自分の言葉の恐ろしさに気付いた。
この“ギルバート”というシステムがどこかの組織や国家の目に留まり、利用されることになったとしたら。

―――人間が太刀打ちすることなど、不可能だ。

「大畠先輩の犯行は杜撰でしたが、惜しい線までいっていた」

彼女は僕に半分背を向け、サイドボードの缶コーヒーを手に取った。

「今朝目が醒めて、ギルバートを起動した時、普段と挨拶の仕方が違っていたんです。最初は疑問に思わなかったんですが、先輩の狙いがこの子だと知って、急いで博士に確認してもらいました」

そして知ったのだと言う。彼女専用の遠隔サーバーが、何者かによって不正アクセスされていたことを。勿論アクセスの痕跡は消されていたが、その消し方が不自然だったのだ。まるで彼女のインプットアプリを作動させた時と同じように、バグによって消えてしまったとしか考えられないと彼女は言った。

大畠雅史は、本人がそうと自覚している以上にとんでもない地雷を踏み抜いてしまった。

「私のギルバートを、私の作ったアプリを使って盗み出し、挙句自分の野心に利用しようとしたんです。彼は幸い大きな力を持たない小物でしたが、これがもし強大な力を持つ軍事国家のリーダーだったら?大規模なサイバー犯罪を狙う他国の諜報機関だったら?」

彼女は僕が言葉を喪ったのを見て、そっと目を伏せた。そして残ったコーヒーを、今度こそ最後まで飲み干した。

「他言無用だと念を押した意味が解っていただけて何よりです」
「……ああ。君が守ろうとしている物が、我々にとっても重要であることは理解した」

僕が神妙に頷くと、彼女は体ごと僕に向き直った。
思慮深そうな藍色の瞳と、視線が絡む。

「この子の存在をあなたに明かしたのは、つまり」
「君もそれだけ僕を信用している、と?」
「ええ。あなたはこの子を悪用したり、他人に売ったりしないと信じてるわ」

本田さくらの声に同調するように、頭の機械が振動する。
彼女はそこで悪戯っぽく笑った。

「君“も”、ということは、あなたの信用を私も少しは勝ち得ていたと自惚れてもいいのかしら?」

僕はいっそ呆れてしまった。この女の思考の回る速度はどうなっているんだ。下手なコンピュータより高性能のCPUが搭載されているに違いない。

「……君を自分の協力者にしておいて良かったと、心の底から思うよ」

この頭脳や彼女の人工知能が敵対する組織に渡ることを想像すると、冗談でなく肝が冷えた。
このタイミングで彼女に出会えたことは、まったく僥倖であったと言えるだろう。我ながら悪運が強い。

「今回この子が無事に戻って来れたのは、降谷さんのおかげです」
「それはお互い様だ。君のお蔭で犯人の確保がスムーズになった。それにギルバートを大畠に奪われたのは、僕の落ち度でもある」
「でも、あなたが私の願いどおりヘッドホンを身に着けていたとしたら、犯人の真の狙いがギルバートだとは気付けなかった。そうしたら、先輩が私のサーバーに不正アクセスしていた事実にも気付けなかったかも知れないわ」

だから、と言って彼女は僕に右手を差し出した。

「今後私の力が必要になった時は、遠慮なく言って下さい。私の力になれることなら、今回の借りの分は働かせてもらいます」

それでもきっちり値切る辺りは、さすがに抜かりがないと言うべきか。

「ああ。これからもどうか、僕に力を貸してくれ」

彼女の手に僕の手が重なった時、皮膚の下で脈打つ血の温かさを、より一層意識した。
機械を通してでは分かち合えない、肌の温もりや心の繋がりというものを実感した。

この事件をきっかけに、彼女は僕の関わる数々の事件において絶大な力を発揮してくれることになるのだが、それはまた別の話である。


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