マス





いつも通りのアラーム音に、僕は閉じていた瞼を開けた。無機質な音を奏でているスマホに触れ、アラームを止める。それと同時に画面が切り替わり、スピーカーがオンになった。

「零さん、おはようございます」
「ああ、さくら。おはよう」

僕は目が醒めて真っ先に、スマホに向かって朝の挨拶をした。画面に映し出されているのは愛しい恋人の姿で、朝一番だというのに何故か彼女は不安げに眉を顰めていた。

「どうした?何か嫌なことでもあったのか?」
「……あなたこそ。一体どうしたの?」
「僕?僕の顔に何か付いているのか?」
「ええ。鏡を覗いてみて」
「鏡?……あ」

言われるままに鏡を覗き込むと、僕は両の目尻から滂沱の涙を流していた。目元が赤く腫れていて、我ながら痛々しい。やけに頭がズキズキするとは思ったが、まさか夜通し泣きながら眠っていたのだろうか。

「何かあったの?悪い夢でも見た?」
「夢……?夢、だったのか……」

茫然と呟いて、僕はぞくりと背筋を震わせた。
あれはただの夢だったのだろうか。それとも、これも夢の続きなのか?
そもそも僕は、一体何の夢を見ていたのだろう。何かとてもよくない夢を見たような気はするのだが、その内容を思い浮かべようとすると、その端から徐々に消えていく。

「さくら」
「はい、零さん」
「……、いや」

何でもない、と言って僕はベッドから抜け出し、洗面所へと向かった。
冷たい水で顔を洗うと、僕は不安そうにこちらを伺うさくらに向かって微笑みかけた。

「そんな顔をするな。冷やせば何とかなりそうだ」
「腫れた目元を引き締めるには、温かいタオルと冷たいタオルを交互に10秒ずつ当てるといいんですって」
「それを試している時間はもう、ないみたいだけどな」

僕はスマホの右上に表示された時刻を見て肩を竦めた。普段ならとっくに着替え終わって、食後のお茶を飲んでいる時間だ。悪夢に魘されていたのか何なのかは定かじゃないが、随分寝坊してしまったらしい。僕が自嘲している間、彼女は大人しく画面の中でこちらを見つめていて、目が合うとより強い眼差しでこちらを見据えた。

「今日はポアロに行く日だったわね」
「ああ」
「その後はどうするの?」
「今日は本庁に寄る用事も無いから、そのまま帰ってくるつもりだ」
「それじゃあ、その前に少し立ち寄って欲しい所があるの」

さくらはそう言うと、漸く眉間から力を抜いて頬を緩めた。

「立ち寄って欲しい所?」
「ええ。もうイルミネーションが綺麗な時期でしょう?」
「ああ、クリスマスが近いからな」

僕は歯磨きを終えて髪を整えると、スマホをポケットに突っ込んでキッチンへと向かった。その間も彼女の気遣うような声がスピーカーから聞こえ、僕はなるべく物音を立てないように気を付けながらケトルに水を注いだ。コンロに火をかけ、急須にお茶の葉を入れる。

「銀座4丁目のイルミネーションがとっても綺麗なんですって。折角だから、ポアロでのバイトが終わったら見に行ってみたらどうかと思って」
「僕1人でか?随分寂しいことをさせるんだな」
「あら、私には見せてくれないの?」

彼女は残念そうな声音を作って言った。けれどこれは演技である。僕もそれを解っていて、口端を吊り上げながらポケットからスマホを取り出した。

「冗談だよ。解った、カメラを通してお前にも見せてやる。だから、またバイトが終わったら連絡してもいいか?」
「うふふ、ありがとう。そう言ってくれると思っていたわ。楽しみに待ってるわね」
「ああ。それじゃ、また」
「ええ、また後で」

元気に返事をして、彼女は通話を切った。僕は無機質な電子音を奏でるスマホを再びポケットにしまい、甲高い音を立てるケトルの元へ向かった。

いつも通りの朝に、いつも通りの恋人との会話。
けれど今日は、仕事終わりに恋人との画面越しのデートが待っている。
直接会えない寂しさはあるが、贅沢も言っていられない。時差を気にせず会話が出来ることを喜ばなければ、と僕は自分に言い聞かせ、急須に少し冷ましたお湯を注いだ。



勤務時間が残り1時間となった所で、梓さんは僕の顔を覗きこみながら言った。

「安室さん、今日はもう上がってもらって大丈夫ですよ」
「え?」
「ほら、安室さんもお疲れだと思いますし。この後、さくらとデートなんでしょ?」

どうしてそのことを知っているのだろうと思いつつ、僕は笑って平気ですよ、と手を振った。しかし、何故か梓さんは頑として譲らなかった。

「いえ、きっとお疲れなんです。だから安室さんは、今日はもう上がってください」

そこまで言われてしまえば、あまり強くも出られない。好意で言ってくれているのは事実だろうし、早く上がってイルミネーションを見に行きたいのは事実だった。

「ありがとうございます。それじゃ、少し早いですが上がらせてもらいますね」
「はい。この後はお任せください!」

さくらによろしく、という梓さんの言葉に苦笑しつつ、僕は感謝の言葉を告げるとポアロを後にした。
冷たい空気の中を独りで歩いていると、不意に胸ポケットに入れておいたスマホが振動した。着信の相手はきっと彼女だろう、と思って僕は笑顔でスマホを取り出した。

「やあ、さくら」
「ハイ、零さん。少し早かったかしら?」
「いや、大丈夫だ。梓さんが気を利かせてくれて、早上がりさせてもらえたからな」
「そうなのね。今度梓に、私からもお礼を言っていたって伝えてくれる?」

ああ解った、と軽く頷いて、僕は銀座へと向かう足を速めた。そんな会話を交わす僕達を、近くを通った女子高生たちが羨ましそうな顔をしながら見つめていた。

暫く歩いていると、高層ビル群に囲まれた道路に人だかりが出来ているのが見えた。彼らの見上げる先では、針葉樹の枝の先に括りつけられた電飾が、煌々とオレンジ色の光を放っている。通りを挟んだ向かい側の針葉樹も、こちら側と同じように綺麗にライトアップされていて、遠目で見てもそれは壮観と呼べる景色だった。
暫く無言でそれに見入っていると、手の中で小さな抗議の声が聴こえた。

「零さん?もう到着した?」
「あ、ああ。悪い、少し見惚れていた」

こうしたら君にも見えるかな、と言ってスマホを掲げる。例え直接会えなくても、カメラを通じてこの美しい光景を彼女と共有できれば御の字だと思っていた。

しかし、スマホの画面は真っ暗になっていた。さっきまで確かに彼女の声が聴こえていたはずの端末は、今はしんとして何の音も伝えてはくれなかった。

それを見て、今朝の悪夢が一気に脳裏に蘇った。
首筋を冷たい物が撫で上げるような感覚に、僕は喉を引き攣らせた。

僕は今もまだ、あの夢の中にいるのだろうか。それともあれは、夢ではなくて現実の世界の話だったのだろうか?

(もしもそうだとしたら、さくらはもう)

最悪の想像が頭を駆け巡り、思わず駆け出しそうになったその時、

「零さん」

ふわりと柑橘系のフレッシュな香りがして、僕の腰に温かい腕が回された。
笑みを含んだ甘い声が、柔らかく僕の耳を擽る。

「ふふ、内緒で会いに帰ってきちゃった。……驚いた?」

何も言わない僕の様子を訝しむこともなく、背後の人間は悪戯っぽく語尾を上げた。僕はそろそろと視線を下げ、自分の腰の前で組まれた小さな手を見つめた。オフホワイトの手袋に包まれた手は、確かに生きている人間の熱を僕に伝えてくれていた。

「さくら……?」
「はい、零さん」
「さくら、君の顔が見たい」

だからこの手を一旦放してくれ、と言うと、彼女は一度僕の背中に額を擦り付け、名残惜しそうにその腕を解いた。
振り返った先で見たのは、3D人形の無機質な肌とは全く違う、血の通ったさくらの顔だった。しかし彼女は僕の顔を見ると、物憂げに柳眉を顰めた。

「やっぱり顔色が悪いわ。今朝も様子がおかしかったけれど、どうかしたの?ギルバートからも、あなたの寝つきが悪いようだって報告が来ていたのよ」

彼女の暖かい手が頬に添えられる。柔らかな感触に包まれて、冷たかった頬が漸く少し弛緩した。

「―――君が」
「私が?」
「君が突然居なくなる夢を、見て」
「…………」
「僕はそれが耐え切れなくて……、君を人工知能として蘇らせようとしたんだ」

彼女は呆気に取られたような顔で僕を見た。彼女がぱちぱちと目を瞬かせるたび、長い睫が音を立てた。

「でも、それでは駄目だった。僕はやっぱり、生きた君の腕の中でしか安らげない」
「零さん」
「だからもっと、」

もっと僕に触れてくれ、と言おうとした。だが、みっともなく声が震えそうになって、僕は唇を噛み締めた。
彼女はそんな僕を見て、何も言わずに僕の首に腕を回した。

「零さん、私はここよ」
「…………」
「あなたの私はここよ。どこにも行かないし、あなたに黙って消えたりしないわ」
「……ああ。君は確かに、そう約束してくれた」

躊躇いを振り切って、暖かい体を抱き寄せる。今の今まで、目の前にいる彼女に触れることが怖かった。触れたら消えてしまうのではないかと思って、怖かったのだ。
しかし、目の前の彼女は僕がどれほど強く抱き締めようと、幻のように消えて行ったりしなかった。

「夢でよかった……。君が居なくなるなんて、夢であっても気が狂いそうだった」
「馬鹿ね。私があなたを置いていくなんて、現実にある訳ないじゃない」
「ああ、そうだな。君の言う通りだ」

さくらの力強い言葉に、僕はやっと心の底から笑みを浮かべることが出来た。腕の力を緩めて彼女の顔を覗き込み、こつんと額を合わせる。

「お帰り、さくら。メリークリスマス」
「ただいま、零さん。Frohe Weihnachten.」

オレンジに光る街路樹の間で、僕達は静かに距離を詰めた。
彼女の唇に僕のものが重なった時、皮膚の下で脈打つ血の温かさを、より一層意識した。
機械を通してでは分かち合えない、肌の温もりや心の繋がりというものを実感した。

小さく開いた唇から漏れた声は、この胸を突き動かすその声は、紛れもなく彼女の―――生きているさくらの声だった。

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