選んでもらった水色のシャツに早速着替えて、私達は喫茶店で昼食をとった。

「ええと、焼きカレードリアをひとつと、」
「ビーフオムライスをひとつお願いします」
「かしこまりました。食後のドリンクはいかがなさいますか?」
「私はアイスコーヒー、ブラックで。零君は?」
「僕も同じで。デザートは頼みますか?」
「そうね。ひとつ頼んで、シェアしない?」
「そうしましょうか。お好きなのを頼んでください、僕は何でもいいですよ」
「それじゃ、お言葉に甘えて。んー、どれもおいしそうだけど、チョコレートのテリーヌください」
「かしこまりました。少々お待ちください」

オーダーを取ってウェイトレスさんが下がっていく。ポアロ以外の喫茶店に来るのは久しぶりだ。

「普段は喫茶店なんて来ないので、少し緊張します」
「そうなの?」
「はい。男の友人同士で喫茶店とか、普通は選ばないでしょう」

その言葉に、私は新鮮な驚きを覚えていた。零さんの口から、仕事以外で他人の存在をうかがわせるような言葉を聴いたことがなかったからだ。例えば友人だとか、肉親だとか、そういった存在について、私は何も知らされていないのだと気が付いた。

ご両親はどんな方?どんな学生時代を送っていたの?今話していた友達っていうのはどんな人?
次から次へと疑問は湧いて出るものの、私はそれを口に出来なかった。好きな人のことを知りたいと思うのは恋する乙女の普遍的な願望だろうが、彼は公安警察という立場上、個人情報を不必要に探られるのは嫌だろうと思った。

それに、目の前の零君は所詮私が見ている夢なのだ。その質問をぶつけても、きっとはっきりした答えは返って来ないだろう。夢とは記憶の整理である。だったら、自分の知り得ない情報が得られるはずもない。

(夢というよりは、明晰夢に近いのかも知れないけれど)

明晰夢というものは、脳内において思考・意識・長期記憶などに関わる前頭葉などが、海馬などと連携して、覚醒時に入力された情報を整理する前段階、つまりは夢を見ている状態において、前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられている。
夢を見ていると自覚している状態であるから、ある程度自分の思い通りに夢をコントロール出来たり、実現可能な範囲で夢で思い描いた通りの展開を覚醒時に体験出来たりする。

だからきっと、こうして過去の零さんと一緒に過ごす夢を見ているのは、知らず知らずの内に燻っていた、彼の過去の事を知りたいという願望の顕れなのだろう。

(私も随分、欲張りになったものね)

かつてはただ彼を好きでいられればいいと、恋人になれなくてもいいとさえ思っていたのに。それがこうして彼に求められる幸せを知って、当たり前のように傍に居られる幸せを知ってしまった。

これ以上はいけない。これ以上のことを彼に求めては、きっと罰が当たってしまう。
小さく自嘲を零すと、零君は怪訝そうな表情で私の顔を覗き込んだ。

「さくらさん、妙な顔をしていますが大丈夫ですか?」
「……さりげなくどころか直球で失礼ね。妙な顔ってどんな顔?」

私が苦笑しながらそう問うと、彼は真剣な目をして言った。

「あなたが何を不安に思っているのか、今の僕には解りません。でも、これだけは断言できます。それは取り越し苦労ですよ」
「…………」
「10年後の僕があなたのような女性を恋人に選んだことに、最初は驚きました。でも、あなたとこうして過ごしてみて、あなたの色んな表情を見て、ここがぐっと熱くなった」

言いつつ彼は胸を押さえた。サイズの合わないシャツに皺が寄る。

「あなたの仕草や、声や、表情のひとつひとつに、僕は心が満たされていきました。こんな感情、今まで誰といても味わったことがない」

今の僕でさえこうなのだから、大人の僕はもっとあなたに心を奪われているのでしょう。

「だからそんなに不安にならなくても、僕は誰よりもあなたのことを愛しているし、必要としていますよ」

そう言って、零君は照れ臭そうに頭を掻いた。
なんて都合のいい夢だろう、と思った。
私の知らない大勢の人間に囲まれているはずの零君が、私の存在なんて知りもしなかった頃の零君が、こんなにもひたむきに私のことを好きだと言ってくれるなんて。

なんて都合がよくて、―――なんて幸せな夢だろう。

「……零君、ありがとう」

ありがとう、私もあなたが大好きよ。そう告げようと思ったその時、視界がぐにゃりと歪み始めた。それと同時に、体がどこかに強く引っ張られるような感覚がして、私は夢から醒めかけていることを実感した。
砂糖菓子のように甘くて濃密な時間は、唐突に終わりを迎えようとしていた。
だから最後に、私はもう二度と会えない愛しい少年に向かって微笑みかけた。

これからあなたは、想像もつかないような辛い経験をすることになるかも知れない。けれどその苦しみの先には私がいるのだということを、どうか忘れないでいて。

その言葉が彼に届いたのか確認する暇もなく、私の意識は急速に浮上した。



ぽっかりと開いた視界の中に映ったのは、零さんの部屋の天井でも、実家の部屋の天井でもなかった。

「…………」

ここがどこであるかをたっぷり数秒間かけて考えて、ようやく脳が覚醒した。
ここは工藤邸だ。これから工藤新一について組織が探りを入れてくるだろうと踏んで、コナン君―――新一君と赤井さんにお願いして、もう少し居候させてくれるよう頼みこんだのだった。

零さんの腕に抱かれて目覚めることを期待していた自分が、少しだけ滑稽だった。

「ああ、起きたか。おはよう」

身繕いして階段を降りると、キッチンに赤井秀一が立っていた。おはようございます、と返して彼の手元を覗き込むと、鍋でカレーを作っている最中だった。香ばしい匂いがふわりと広がる。

「朝からカレーですか?」
「君が食べたいと言ったんだろう?」

きょとん、と目を瞬かせると、彼は喉の奥でくつくつと笑った。

「焼きカレードリアが食べたい、あとはチョコレートのテリーヌが食べたい。ついさっき、寝言でそう言っていたぞ」
「えっ、やだ、口に出てました!?」

私が両手で顔を覆うと、赤井さんはとうとう声に出して笑い始めた。

「さすがにそこまで手の込んだものは作れないから、普通のカレーで我慢してくれ。それくらいなら俺でも作れるからな」
「…………、ありがとう、ございます」

カレーの匂いがふわりと広がる。食欲を誘うその香りに、寝起きに感じた一抹の寂しさも忘れてしまえそうだった。

「お昼ご飯は私が用意しますね。リクエストはありますか?」
「そうだな……」

赤井さんは少し考えて、偶には煮込み料理以外のものが食べたい、と答えた。私は快く了承しながら、デザートにはチョコレートのテリーヌを作ろうと考えていた。

焼きカレードリアもテリーヌも、零君と一緒に食べることは叶わなかったけれど、せめて。


(夢であなたに会えたことを、せめて忘れずにいられますように)


そんなことを願いながら、私はご飯をよそうためにカレー皿を取り出した。

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