いち




ジャックからは、匂いが絶えない。
それは安っぽいソープだったり、体臭を消す程のどぎつい香水だったり、はては、遊星の知っている制汗剤だったりした。そしてジャックを迎えに行く度、彼の金髪は濡れていた。
「出せ」
時間はとうに夜も更けて久しい。こんな時間に人を呼びつけておいてジャックは礼も言わずたった一言そう命令して窓の外を見た。窓の外にいる、おそらく寝たのであろう相手に媚びるような視線を投げ掛けているのを横目に遊星は車を露骨に発進させる。車の芳香剤の匂いが一瞬にして甘いソープの匂いに変わった。吐き気がする。
「寝たのか」
多分そうなんだろうなと思いながら遊星は問いかけた。寝てなかったら、なんだ。既にジャックの体は嵐のように過ぎ去る沢山の男の手垢だらけなのである。ジャックは嬉しそうに口角を吊り上げた。
「抱かれた」
思わずサイドミラー越しにジャックを確認する。薄く嘲笑うかのような笑みの下に真新しい鬱血の後があった。ああくそ、見なければ良かった。遊星は苛々しながらハンドルを切る。「乱暴だなぁ」そんな事をしていると降りるぞ、とジャックは脅しをかけてくる。これは牽制ではなく本気だ。高速を走っている時に飛び出された時は、本当に死ぬと思った。「死んだら、俺を愛してくれている奴らがお前を憎むだろう。消されるかもしれないな。あいつらは乱暴だから」病室で包帯だらけのジャックにそう告げられたとき、ぞっとした。美しい紫の目が得体の知れない色に見えたのは初めてだった。


「あいつはキスが下手なんだ。俺が何度教えてやっても、次には獣のようにがっついてくる。こう毎回だと可愛いと思う気持ちも萎えてこないか。なぁ遊星」
遊星は固く口を閉ざした。ジャックは少しだけ機嫌を悪くする。
「…お前は、どうなんだろうなぁ」
ジャックは両腕を伸ばして座席ごしに抱き締めてきた。くわん、と鼻をつく香りに遊星は目眩がした。顔を押さえられて流石の遊星も焦る。「…運転中だ」遊星はその手を振り払い前方に集中した。
「死にたいのか」
つい言うつもりもなかった言葉までが飛び出す。一度口を開けばまだまだ言いたいことはたくさんあった。両腕が引っ込む。絶対に反省などしていないだろう男に更なる言葉をぶつけようとしたところでふとサイドミラーを視界に入れてしまった遊星はそれらをまた懐に深く深くしまっておかなくてはならなくなった。すでにジャックは目を閉じて眠りについていた。不貞腐れた子供のようである。


ジャック・アトラスがこんな風になってしまったのはいつからだっただろう。遊星は悔やんでも意味がないと知っていながらそれでもなお悔やまずにはいられなかった。同性愛者であったことには驚いたが、さらに手当たり次第に体を開いているということは理解の範疇をとうに超えていた。痛いほどショックだった。遊星はそれこそ、幼いときからジャックの隣にいて、ジャックだけを見続けてきたのだ。身を焦がす恋慕を抜きにしてもジャックはそんな事をする男ではないと信じていたかった。だが、実際に男とキスを交わすジャックを目の当たりにしてしまうと、とうとうそれも認めざるを得なかった。同時に、切り裂かれるような嫉妬や、裏切られたような絶望感がぐるぐると遊星を蝕んでいくのを感じた。遊星はもう何年も前から、自分のジャックに対するこの気持ちがはたして友愛からくるものなのか愛欲からくるものなのかわからなくなってしまっていた。それほどジャックのことを愛してしまっていたのだ。


信号が赤になり遊星は車を止めた。先程のジャックの姿は遊星にはあまりに妖艶にうつった。雪のような首筋に残るキスマークは目を引き付けて離さなかったし、そそりたつ甘い匂いは意識を散らしてばかりだった。遊星は生唾を飲み込み、思いの外それが大きな音だったことに狼狽した。間違いなく渇くほどの欲求に体を支配されていた。あの声が原因に違いなかった。
『お前は、どうなんだろうなぁ』
繰り返す度にぎゅっと胸が締め付けられ、吐息が熱くなっていくのを感じる。下半身にも甘い痺れを自覚する。こんなとき遊星は大抵一人で処理をしているのだが、今回だけは勝手が違った。己の愛するその人は安らぎさえ浮かべて眠っている。このまま、誰の手も届かないところへ浚ってしまいたかった。
だが遊星はそう出来ない理由も持っていた。ジャックとしてはこうして自分の性癖について何も干渉せず、ただ黙々と付き合ってくれる変わった友人をからかっただけだ。それにこうやって無防備に眠りこけるなんて、信頼されている証拠ではないか。俺はそれを裏切ってもいいのか。遊星は葛藤し、どうしていいかわからずジャックをすがるように見てしまった。


彼は大人しく眠っていた。薄い唇から吐息がこぼれ落ちる姿でさえ淫猥に映る。遊星はそれを食い入るように見つめた。あのやわらかそうな薄い唇で遊星と名前を呼んでくれたらどんなに自分は幸せな気持ちになるのだろう。彼の視線を独り占めできたら、彼が自分のことだけを想っていてくれたなら。遊星は痛む心臓の鼓動に涙が滲みそうだった。それは独占欲に罪悪感を感じていた心があげた悲鳴だった。痛みは簡単に人間に良心を捨てさせる。遊星だって例外ではない。
彼を自分だけのモノにしたい。他人ではなく自分のモノに。
遊星は内側から悪魔の囁きを聞いた。それは紛れもなく理性の殻を破り捨てようとしているいやらしい本心だった。カーッと頭が熱くなり、何も考えられなくなった。粘っこい唾を喉へおしやる。
咎めるものは誰もいない。


信号の色が変わる。
遊星は真っ直ぐ進むはずだった道を左折し、何事もなかったかのように走っていく。今から彼に行うことを想像して、遊星はまた息を深く吸い込んでふつふつと熱されている欲望を保った。そうでないと、理性の残骸に躓いてしまいそうだった。






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