フォーリン・ダウン
遊星は何度目かの寝返りを打ちながら怠惰な時間を潰していた。薄闇の中で延々と思考を巡らせるのは遊星の癖であり日課であった。昼間の労働で疲れきった体と比例して脳はますます覚醒しているようだった。しかしこの覚醒は夜にしては些か過剰すぎる酸素と血液の供給からであって、その原因はこの胸騒ぎによる心拍数の上昇だと遊星は考える。考えを止めて眼を瞑ろうにしても、また数分後にはどうしても眼を開けざるをえなくなるのだ。何故。それは遊星も薄々とは勘づいている。ナスカから帰って以来、遊星はえげつのない違和感がどろどろととぐろを巻いているような気がしてならないのだ。
遊星は半身を起こし動悸を鎮めようと胸に手をやった。耳を澄ますと、車やかすかな人間の生活の音が聞こえて遊星はほっとした。遊星はこの時間が好きだった。今も隣の部屋ではクロウが静かな寝息をたてて眠っているだろうし(粗暴な外見とは裏腹に彼はとても行儀が良かった。これも彼らを育てたマーサの教育の賜物だと思う。)そして、何となくもう一人の彼もそうだろうと思う。彼、ジャックはいつも右腕を庇うようにして寝ていた。そして、物音にとても敏感だった。人を起こさないように気を使いながら作業をしていても、ジャックだけはいつの間にか起きてきて戸口に立って作業を眺めていたり、たまに遊星好みの甘さに調節されたミルクを手渡し「飽きない奴だなぁ」と苦笑していたものだ。
そこまで考えて、遊星は扉の外の物音に気づいた。こんな時間に、一体誰が。普段なら気にも留めないささいな事だが、今の遊星は覚醒した脳を持て余していた。遊星は音をたてないようにベッドを抜け出す。こんな夜中に出歩く人間などここにはいなかった筈だ。いや、正直に言うと一人だけ、いた。遊星がずっと感じている違和感の一つ。
「ジャック」
案の定扉の外に突っ立っていたジャックは遊星の姿を認めると薄く結んだ唇を少しだけ綻ばせ遊星か、と言った。それから顔を伏せ、奇遇だなぁとも笑った。遊星はジャックの言動に引っ掛かりを感じながらも「こんな時間にどうしたんだ」と問う。
ジャックは夜が嫌いだった。正確に言えばサテライトの夜が大嫌いであった。嫌なことを思い出すという。サテライトのあのろくな明かりもない夜を見渡しては、「シティの夜はもっと明るい」と苦々しげに唇を噛み締めていた。
しかし今薄闇に浮かぶジャックは暗闇を意に介せず、むしろ馴染んだとでもようにリラックスをして「少しな」と曖昧にはぐらかした。それから「眠れないなら、付き合え」と横柄に言った。
遊星は質問を蒸し返そうとし、結局戸惑いつつも頷いた。ジャックが踵を反して歩き出す。
「痩せたな」薄いシャツに包まれた背中を見ながら遊星が呟いた。
「そうか?あまり自分では解らないものだな」ジャックは気にも留めず返した。この痩せ方は些か異常ではないかと遊星は考える。そういえばこの頃、ジャックの顔色はすこぶる悪い。
「今日は、ベッドに戻った方が」
遊星がいい終える前にジャックは梯子をさっさと降りていってしまった。遊星も慌てて後を追いかける。遊星はここ最近のジャックが気がかりで仕方がなかった。しかし何故そう思うのかと具体的に表そうとするといつも言葉に詰まる。いや、本当は考えないようにしていた。
……あの、カード。
遊星の中で、ジャックは絶対的な勝者であり覇者であった。サテライトの汚れた地に膝を付きながら、それでも遊星はジャックのデュエルに尊敬と敬愛を抱いていた。勝利を手に入れるのでは無く、むしろ勝利の方がジャックという人間に魅了され飛び込んでいくような彼のデュエルに心酔さえしていた。シティの人間が沸き立つ理由も解る。彼らもやはり同じ人間なのだなと、遊星は妙に感心した覚えがあった。
パーフェクト・デュエリスト。数十年前、デュエルモンスターズ創始者の寵愛を受けた一人のデュエリストの敬称を、記者らがこぞってジャックに名付けた。本来のフルグロウの意味から外れていたとしても、だ。そもそも、その言葉に込められた意味は一握りの人間しか知らない。完了した成長。その名の通りジャックは完璧で、完了していた。勝利を自在に手に入れられる力を持つのに、成長する機会などとっくに奪われている。だが、それでもいいとジャックは思っていた。2年後、遊星が王の座から解放するまで、ジャックは確かにパーフェクトな人間だったのだ。
だからナスカの地で彼が悪魔に魂を売り飛ばしてでも、と力を求めた時、遊星は軽いショックを受けた。彼はそこまで追い詰められていたのか。誰の手によって――そう、自分だ。自分が、ジャックを王座から引きずり下ろした。ジャックの墜落はそこから始まった。彼は俺を恨んでいるのではないか?両親を殺し、居場所すら奪ったこの俺を。遊星はずっと悩んでいた。その矢先、ジャックが悪魔と契約し、結果的にその魂をも封じ込めた力が、あのカードだ。遊星は、あのカードはまだ脈動を止めていないのではないかと危険視していた。現に、あのときからジャックはまるで何かに蝕まれているかのように体調を崩していってるではないか。人は闇に惹かれるものである。赤き龍の加護を受けたルドガーが、地縛神に魅入られその痣を切り落としたように。
キッチンの流し場に置いてあったコップを適当に洗う。「何がいい」「ホットミルクを」遊星は安眠のためと牛乳を注文した。ジャックは二つのカップに牛乳を注ぎ入れ、砂糖を入れずに電子レンジのスイッチを入れる。「珍しいな」「何がだ」「お前が、砂糖を入れないなんて」「あぁ、忘れていた」ジャックは軽くあしらった。やはり何かがおかしい。たかが嗜好と言われればそれまでだが、その行動は遊星の不安をますます煽った。
「ジャック、少しいいか」
やがてジャックが温まったカップを二つ持って遊星の向かいに座るのを見届けてから遊星は断りを入れた。確かめるのは今しかないと思った。そして、どうか杞憂で終わればいいと思った。ジャックは一口ミルクを啜ってから「どうした」と話を促す。遊星は一息ついて切り出した。
「眠れないのはあのカードのせいじゃないのか」
「…なにを戯れ言を」ジャックはソファにもたれ掛かる。「そんな訳ないだろう」
「だが、ナスカから帰ってきてからだろう。お前の体調が優れないのは。それにあれはまがりなりにも地縛神を魂を封じ込めたカードだ。何があってもおかしくない。ジャック、どうなんだ」
ジャックは黙ったまま肯定も否定もしない。遊星はそれでも言葉を紡ぐ。
「……心配なんだ」
「遊星」
「ジャックが、目の前からいなくなってしまうのが」
遊星は顔を伏せた。こんな女々しいことを言って、ジャックは呆れかえるに違いない。だが、丸めた遊星の背中に降ってきたのは人の体温だった。「だめだなぁ、お前は」ジャックの低音が遊星の耳朶に吹き込まれる。くらりと香るオーデコロンと遊星、と呼ぶ声の中に色を感じて遊星は顔をあげ、そこでジャックの紫の眼を見てしまった。どくん、と心臓が脈打つ。赤みを帯びたそれは背筋からぞくぞくと遊星の欲望を肥大させた。頭が、働かない。
「俺が、欲しいか?」ジャックは遊星の頬に両手を添える。マーカーに長い爪が食い込んだ。左手は頬肉の上を滑り、遊星の唇の上へ。だがそれでも遊星は言葉を発することができなかった。霞がかった脳内が打ち鳴らす警報音が遠く聞こえる。
痺れを切らしたのかジャックは床に膝立ちになり顔を近付けて遊星の唇に自分のそれを重ねた。遊星が戸惑っているうちにジャックは唇を割り、いとも容易く口内に侵入する。まるでそこから喰われていくようだった。数秒の感覚で唇を離し、もっと貪るような口付けをされる。呼吸の合間に見える情欲にまみれたクラレットは蠱惑的に遊星の理性を削ぎ落としていった。
ジャックの後頭部に手を差し入れ、金糸を指で何度も浚う。ジャックの体を両足の間に固定し、肩にかけていた指を腰へと移動させ、布越しの肉の触感を確かめる。脳に無理矢理刻み付けられた動きを遊星は忠実に遂行していった。自らの快楽を引き出し、脳を溶かし、自らの首をさらけ出すところまで。
「遊星……」
ジャックは遊星のシャツをたくしあげ程よく鍛えられた腹に指を寄せる。右の脇腹には、ダークシグナーだった鬼柳との戦いの時にあけられた傷が残っていた。ジャックはそれを慈しむように指で愛撫した後、爪でそこを思い切り引っ掻いた。みみず腫のような後が残ったのを確認してから「痛いか?」と聞く。
「……」遊星は答えない。
「…ふん、温いな」それほどまでにジャック・アトラスという人間を信頼しているのか、と焦点を失った遊星の目を見ながらジャックは唇の端を歪めた。遊星の首の皮膚を撫でるように舐め上げる。歯をたてられたそこはじんじんと疼痛を訴えるはずだが、遊星はたじろぎもしなかった。「……噛み千切ってやろうか」ジャックが愉悦に浸った言葉を吐き出す。その目は既に赤を含んだクラレットからスカーレットへと変貌を遂げていた。
噛み千切る、という言葉にようやく遊星はおぼろげながらも自分の身が危険に晒されていることに気づいた。重く霧がかった脳になんとか命令を出させ、遊星は胸に添えられたジャックの腕を弱弱しく掴んだ。袖の下の違和感に動きが止まる。ばちん、とはじけるように遊星は覚醒した。うたた寝のような微睡みから現実に引き戻されたような感覚だった。
「ジャック、俺は」俺は何をしていた。遊星は頭を振って残りの脱力感を振り払った。それから驚愕の表情で呟く。「この、腕」
「……どうした、遊星」
「どうしたじゃない、これは……」
ジャックの袖の下から現れたのは、血まみれの包帯だった。その下には、あの赤い龍の痣があるはずだ。途端にジャックの顔が凍りついたかと思うとみるみるうちに不機嫌になる。「気にするな」ジャックは腕を遊星から離すと、遊星をソファの上に倒し上から手首を押さえ付けた。「ジャック……っ!?」遊星が驚きの声をあげるのを無視し、ジャックは遊星の首に手をかけて締め上げる。包帯では吸い切れず溢れ出した血液が腕を伝って遊星の肌を汚した。血の気が失われていくにつれてジャックの眼が赤く爛々と輝いてくるのに遊星は戦慄した。圧迫される気管に目を剥く。こいつは、ジャックではない!意識が遠のいてく遊星の視界の隅に、まだ手を付けられていないカップが映った。
「……っ!」
遊星は手を伸ばしカップを引っつかむとジャックに中身をぶちまけた。まだ怯ませる程度には熱を持った液体にジャックの力が緩む。その隙を逃さず遊星は上体を跳ね上げジャックを床へと叩き落とし、その上にのしかかった。ぐ、とジャックが呻く。
「ジャックをかえせ」
「ゆ……遊星」
「黙れ。お前ごときにジャックを汚させるか」
「……何を言って、るんだ。どけ、遊星!」
そこでようやく遊星は、ジャックの様子が先ほどとまるで違うことに気づいた。「……ジャック?」遊星が恐る恐る瞳を覗き込むが、既にそこには狂気の色など一欠片も残っていない。遊星は困惑した。今のは、一体。黙ったままの遊星にいい加減苛立ちを覚えたのかジャックが遊星を押しのける。「遊星、なぜこんなにミルク臭い」
「……何も覚えていないのか?」
「少なくとも、いきなり牛乳を吹っかけられるような事をした覚えは無い」ジャックはご立腹だった。あぁ、いつものジャックだ。遊星はようやくジャックの上から体を退けた。「……俺は」とジャックが言葉を零す。紫の相眸は血塗れの腕に注がれていた。
「お前に、何かしたのか」ジャックは額に手をやり、「腕が痛い。頭も、」とうな垂れた。失血の為足元をふらつかせるジャックをソファに座らせ「ジャックは何も気にしなくていい」と遊星は優しい口調でそう諭す。遊星はジャックの頭を自分の胸に引き寄せ、いまだに血を流し続ける腕を取った。包帯を解くと、縦に裂かれた痣が目に入る。「遊星、これは」ジャックが遊星を見、そこで遊星の首に付いた血と絞められた跡にも気づき言葉を失う。遊星はもう一度気にしないでくれ、と言った。ジャックは何も悪くないから。
「病院で縫ってもらわなければ」
「しかし、痣が」ジャックは言い淀んだ。見ず知らずの他人に痣を晒すことをジャックは極力避けていた。遊星は少し考え、「それなら、止血だけでもしよう」と提案する。
「………あぁ、頼む」
ジャックはゆっくりと目を閉じる。青白い顔に否が応でも浮かんだ憔悴の色に、遊星は不意に泣きたくなった。首を伝うジャックの血を指で拭う。赤く汚れた指を見ながら、もしジャックの意識が再び侵される事があったなら、自分は躊躇も無くあのカードを消し炭にするだろうとも思った。
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