イーディーピー




シャワーの音が、止まない。飽きるほど落ちる水滴の雨の音を、不動遊星はもう30分以上も聞いていた。土砂降りにも近いその音は、遊星の心を洗い流すでもなく、むしろますます責め立て、かき乱すばかりであった。「あれ、それ」すれ違ったブルーノが、遊星の右腕に抱えられた衣服を目にし、問いかける。「ジャックの、だよね?」遊星は一言も言葉を発することもなく頷いただけで、ブルーノの脇を通り過ぎた。一刻も早くこの場を離れたかったのだが「ねぇ遊星」それでもブルーノは引き止める。もしやブルーノは異変に気がついているのではないかとありえない妄想を遊星は危惧し、戦慄した。唾を飲み込み、「どうしたんだ」と顔だけ向けてブルーノを見据える。黒い虹彩が絞られた気がした。「シャワーを浴びてるの、ジャック、だよね」「そうだ」「そっかぁ」ブルーノは、それならわかったと言って微笑んだ。
「脱衣所に服が無かったから、誰かが水を出しっぱなしにしているのかと思ったんだけど、鍵がかかっていたからさ」
気になったの、それだけ、といってブルーノは行ってしまった。以前ジャックがシャワーを出しっぱなしにしていたときのクロウの激怒を思い出したのだろう。心配げな表情が妙に気にかかった。あぁそうだ。ブルーノはそのことについて心配しているのだ。気づいているはずは、ない。遊星は無意識に心拍を早めた胸を抑え、足早に脱衣所へ入る。遊星は棚の上に衣服を置き、洗濯機の中を覗き込んで、遊星は眉を顰めた。使った様子は無かった。それに、周りに脱ぎ散らかしてるという感じでもない。ジャック、まさか。遊星は磨り硝子の向こうへ視線を向けた。恐る恐る扉を叩き「いるのか」と呼びかける。ぬるい水に打たれ続けているであろう人物は何の反応も返さない。遊星はもう一度呼び掛けた。不安は目に見えて加速していく。目を閉じると先ほどの惨状が目に浮かんだ。力なく横たわる肢体。陶器の肌に荒々しく浮かび上がった打撲の跡。まるで遡上の魚のようだった。心臓を抉り取られるような痛みに遊星は思わず唇を噛んだ。「ジャック」呟くその名は、誰にも届かずに水の外へ落ちる。


ジャック・アトラスは美しい男だった。出会った人間の脳に、少なからず憧憬の感情と共に記憶に刷り込みたいと願うほどに美しかった。遊星とジャックが共に孤児院で暮らし始めた頃から、それは芽吹いていた。

慣れない手つきで機械を扱い傷だらけになった遊星の浅黒い指にジャックは幾度となく触れた。「遊星の手は、がんばり屋さんの手だ」そうやって幼いジャックはいつも笑いかけてくれるのだ。
「ジャックの手は、きれいだ」
「……俺は、きれいなんかじゃない」
ジャックは蚊の鳴く声で言った。遊星には意味が解らなかったが、ジャックが長い袖を捲ったことで理解してしまった。めったに人前に肌を出さない為に白い腕に刻み込まれた毒々しい赤が、遊星の目を焼いた。
「この痣が」
痣を中空に晒す。生まれたときから既にあったという痣は、いつの間にか忌むべき印とされていた。ゼロ・リバースを引き起こしたモーメント開発者の助手の一人に、同じような痣があったと証言する人物が出てくると思えば、シティの方でも同じような痣を持つ少女が実の父親に怪我を負わせたという噂も流れ込んできていた。元凶。化物の仲間。ジャックは影で罵声を浴びせられ続けられていた。だからジャックは必然的に痣を隠さなければならなかった。それは、恐れる市民から己を守る唯一の方法であったのだ。
「こんな物、いらなかった。こんな腕……!」
「ジャック!」
「遊星、俺は……俺のこの痣が、あんな災いをもたらしたのか?」
「違う」遊星は、断言した。「ジャックのせいじゃない」そうして自分の手を、ジャックの腕の痣に重ねた。ジャックは、澄んだダリアパープルの瞳を遊星に向けた。その視線に、心臓が抜け落ちるような痛みを覚える。
「ありがとう、遊星」
そうやってジャックは朝靄のような笑みを浮かべた。遊星は叫びだしてやりたかった。自分が、ゼロ・リバースの象徴なのだと。そう言って、ジャックへの非難の目を全て自分に向けさせてやりたかった。だが、いつもいつも遊星は結局そのことを言い出せず、更に眩暈がするほどの罪悪感に苛まれながらジャックの笑みを受け止めることしか出来なかったのだ。万人に嫌われるより、ジャック一人に嫌悪を向けられることの方がもっと耐えられないことだった。遊星は、己の指が示す通り、自分こそが穢れた存在だと思えた。
「俺達は、ずっと一緒だ」
ジャックの手は、夜空を見上げ星を探す時も、いたずらがすぎてマーサに叱られた後も、ずっとずっと遊星を繋ぎ止めていてくれた。だから遊星も同じように、ジャックの手を絶対に離さないように掴んでいた。そして――そうして、ジャックは。




鈍い音がした。
「ジャック…?」呼びかけても、依然水が床に叩きつけられる音しかしなかった。しまった、と悔やんでも遅い。あの状態のジャックを一人にするのが拙かった。すっ、と恐怖に頭の血液が冷えていく感覚がする。「あけるぞ!」鍵がかかっている扉を、体当たりで開けようとした。大きく扉がたわむ。3回目の後、鍵が壊れる音と共にやっと扉は開いた。遊星はあわてて浴室にいるであろう体を捜す。いつもの白い着衣を肌身に纏った彼は、やはり目の前に倒れ伏していた。
「ジャック!!」
遊星はジャックの体を抱き起こす。と同時に、シャワーから浴びせかけられるそれが、骨身に凍みるような冷水だったことに驚愕した。まさかこんなものをずっと浴びていたと言うのか。遊星はすぐさまシャワーを熱い湯に切り替え、ジャックの体を温め始める。「ゆうせ……」ジャックの、紫色に変色した唇が遊星の名を呼んだ。殴られた頬は、冷水に晒していても無惨に腫れ上がっている。「とれないんだ」ジャックは、震える手で自らの胸の辺りを掻き毟った。そこにも、暴力の跡がある。「何度こすっても、取れない……」瞬間、遊星ははっとした。やはり、目を離すべきではなかった。遊星はシャワーヘッドを置いて、ジャックを抱きしめる。「大丈夫だ、ここには俺しかいない」暗示するように言い聞かせた。「もう、ジャックはどこも汚れていない」ぴくり、と腕の中のジャックが反応した。数年前のと寸分も違いないダリアパープルは、まるであのときの事を思い出させるように濁っている。



遊星が異変に気づいたのは、規定時間外に使われているシャワーの音だった。風呂の時間以外は決して使われないシャワーの音が、かれこれ10分以上も続いていた。流石の遊星も、見逃すわけにはいかない。遊星は、こっそり脱衣所に入り、浴室の扉を開けた。そこには、見覚えのある金髪がシャワーの水をうけて濡れていた。遊星は、扉を開けたまま呼びかけた。
「ジャック……?」
ジャックがゆっくりと振り向いた。泣き出しそうにくしゃりと歪んだその顔は赤く腫れていた。遊星は頭が真っ白になった。
「ジャック、どうしたんだ、その……」
「とれないんだ」
ジャックがぽつりと漏らす。その唇から赤い液体がつつ、と足れて水に流されていった。遊星は耐え切れなくなってジャックに手を伸ばす。「来るな!」弾かれた様にジャックが吼える。遊星は突然の拒絶に訳もわからず伸ばした手を下ろすしかなかった。ジャックを見ると、またジャックも同じように悲痛な面持ちでこちらを見ていた。
「俺、は…っ、あ、あぁあいやだぁぁぁああっ」
「ジャック!?どうし……っ!」
頭を抱えてうずくまってしまったジャックを、本人に止められたからといってみているわけにもいかなかった。水に濡れるのも構わず遊星はなるべく優しくジャックの肩に手をかける。ひ、と息を飲む音がしたが、遊星は構っていられなかった。あの目は、遊星を見ていない。何か別のものをみている。
「ジャック、俺だ、わかるか」
「ゆうせ……遊星、遊星…!!」ようやくジャックは遊星を見た。まるでその言葉しか知らないと言う風にジャックは遊星の名前を呼び続けた。親友のこんなにも取り乱した姿を遊星は見たことが無かった。
「大丈夫だ、俺はここだ。ここにいる」
ジャックが遊星にすがりつく。遊星は背中に手を回し、そこでふと水とは違う液体に指が触れた。白い粘性のあるそれは、良く見るとジャックの衣服のところどころに付着し染みを作っていた。遊星はただ、ジャックの体を抱きしめてやることしか出来ない。何が起こったのか。それを問う権利はないと遊星は幼い思考の隅でそう考える。そうして、やはり。年月を経て成長し、初めて快楽を覚えた夜。遊星は指を汚した自分の精液を見たときはっきりと確信した。


――ジャックは、汚されてしまった。それも一度ではない。二度もだ。遊星の知らないところで、その陵辱は秘めやかに行われていた。一度目のことは、ジャックは固く口を噤んだ。二度目は、つい先ほど締め切っていたはずのガレージで遊星が目撃した。一度目のような性的暴行こそなかったものの、幼い頃の暴行が引き金を引いたらしい。ジャックの体には抵抗の後がほとんどなかった。遊星は人目に触れないよう血に汚れたジャックを浴室へ運び、ジャックが落ち着くまで時間を置くつもりだった、のだが。結局、ジャックを襲った犯人は解らずじまいで、セキュリティに追放するにもジャックのプライドがまず許さないだろうと考えた。
「俺は、汚れてなどいない……?」
ジャックがうつろに呟く。その目は大分光を取り戻していた。遊星はあぁ、と頷く。「風邪をひくから、もうあがろう。着替えも持ってきた」と促し、ジャックも少し迷ってから、素直に頷いた。乱れた衣服から覗く肌を出来るだけ視界に入れないように二人で浴室を出て、遊星は「何かあったら、呼んでくれ」と言い残し脱衣所を後にする。「遊星」扉越しに、ジャックが小さくすまない、と呟いたのが聞こえた。やがて水を吸って重たくなった衣服を脱ぐ音と、乾いた衣擦れの音が交互に聞こえてくる。そうやって肌身を見せないように着替えるジャックの姿と、白い体に浮かぶ赤い傷跡がありありと浮かんで見えて、己の浅ましさに唇を噛みながら遊星は目を閉じた。





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