ゆううつなひずみ
※暴力表現あり





「クロウ。」

鬼柳が俺の名前を呼んだ。だけど俺は絶対に振り向かない。振り向いてやらない。いくらあいつが困った顔をしようが、尚更。なあクロウ、と鬼柳が動いた気配を見せたから俺は慌てて古くさいソファから立ち上がり、剥き出しの肩に触れようとした腕を払った。罪悪感も何も感じないから、当然胸に一筋の痛みなんて訪れない。あるのは全身の鈍痛。骨身に染みる冷たさ。

「さわんな。」

さっきまで俺の腕を縫い付けて離さなかった鬼柳の白い腕が見えた。しかし今度は俺の腕を捕らえることもせず項垂れるように腕が落ちる。「ごめん」闇夜に濡れたとしか思えない陰鬱な声が鼓膜を直撃する。あえて俺は無視をして、床に捨てられたズボンを拾った。下着は……これはもう穿けないな。衣服を広い集め身に付ける作業を繰り返している間も、鬼柳はただテープレコーダーのように音の羅列を垂れ流していた。
謝ってすむことじやないけど、ほんとにごめん。どうすればいい。俺はどうやって償えばいい。
沈黙。俺はカッターで破かれたシャツを羽織る。その時切られた腹の傷はなんとか塞がっていた。俺がたてる衣擦れの音を消すように鬼柳は捲し立てた。
クロウ、ごめん。ごめんごめん。本当に許してくれなんだってする。でも、俺好きなんだ。クロウの事が。愛している。仕方なかったんだ。なぁ、許してくれよなんでもするから。

懇願、いやむしろそれは娼婦の媚びる眼に近かった。愛を理由にすれば暴力すら正当化出来ると信じきっている男。自分の魅力をわかった上でそれを武器にしてくる男。相手にしてられなかった。俺はベストを羽織って肌身を隠すように片手で前を押さえる。「帰んのか」途端に不機嫌さを滲ませる鬼柳の反応にいっそ笑いたくなった。ぎし、とベッドのスプリングがなる。今度こそ肩に手がかかった。そのまま床へ引き倒される。背骨に走る衝撃に息が詰まった。無理矢理開かされた体の鈍痛が大声で馬乗りになる男を非難する。

「……何か言えよ。」
「不安なんだ、お前は俺を本当に愛してくれているのか。」
「もう訳がわからないんだ俺を救ってくれよ、俺を許してくれ、助けてクロウ。」

くっ、と喉がしまる。声帯を圧迫されて声が出ると思ってんのか。月が泣いている。もうなにも見たくないというように鬼柳は俺の胸に顔を埋めた。あぁ、今日は帰れないかもな。人間から何よりも気力を奪う諦めが脳髄に侵食していく。
勿論最初は素直に恐怖した。痛みのあとの変に優しいつかの間の幸福が待ち遠しかった。だが今は恐怖もしないし幸福も感じない。ただ煩わしさと虚しさだけが残った。鬼柳が喋る度に俺の中の鬼柳はどんどん消え、燃えカスみたい残っているのは自分の信じていた穏やかな愛が、その行為で汚されていく事に対する憤慨だけだ。その口で愛を語るな。お前は言ったな、愛している必ず幸せにしてやると。俺は信じていたんだ。愛に飢えていた俺を救ってくれると本気で信じていたんだ。なのに。肉欲にまみれたそんな愛を捧げられても俺は触りたくもない。痛みを伴う愛を捧げられても俺は受けとりたくない。
きっと、最初から解釈が違っていた。鬼柳はキスやセックスが真実の愛だと信じ、俺はただ惜しみ無く与える慈愛が真実の愛だと信じていた。それだけの違いだ。だが、その違いが俺達を決定的に別ち、鬼柳を狂わせる原因になり、俺に信じていたものを失わせる事になったのだ。最初から歯車が噛み合っていなかった。それが機械全体に不備を起こし、今や廃棄処分されるのを待つだけだ。滑稽だと思わないか鬼柳。

俺は手を上げて鬼柳の髪に触れた。ぎちり、と歯車がまた滑る。裸の胸にぽたぽたと水滴が落ちた。鬼柳はこれを許しの手だと勘違いするだろう。そうしてまた鬼柳は俺を彼なりの方法で愛してくれる。本当に滑稽だ。ならこの撫でる手を止めればいい話だが、生憎俺はこれしか愛し方を知らなかった。





100417
拝借 遠吠え

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