上手に人間性を放棄した


不可思議だと、それ以外形容しがたい場所だった。灰白色のレースをあしらったように幾重にも折り重なり押し寄せる波は綺羅星にも負けないくらいに自ら輝き、光源が弱々しい月光しかないのがかえって怪しい位だった。そして必ずと言っていい程そこはいつも夜の帷がしっとりと覆っていた。夜空に浮かぶ月は金色で、十五夜に相応しい完璧な球体の形を保っている。そのクレーターのない人工物のような平らな月に別段クロウは首を傾げることもしなかった。サテライトの空気は汚れ過ぎていて、黒い雲に犯された金か、もしくはくすんだ朧月しかみることが出来なかったからだ。だから一寸も霞んでいない金色の月を見た彼が一番始めに浮かんだのは、綺麗だ、という称賛の言葉だった。色は違えど自分の風にも匹敵する孤高の存在感を放っているジョンブリアンの月。その色彩に含まれた意味にクロウは酷い郷愁を覚えるのだが、記憶捲っても捲ってもそこには深淵よりも深い闇が横たわっているだけで一欠片の光明さえ見出だす事は出来なかった。
やがて水面は飽きたかのように寄せては返す前後運動をぴたりと止める。耳が痛いほどの静寂があたりを包んだ。内側から胸をかきむしられる沈黙にクロウは観念し一歩踏み出す。また一歩。わざと砂を蹴りざくざくと音をたてながら汀まで歩み寄り鏡のような水面を覗きこむ。ふと、透明な水の底に、赤い縄のようなものが沈んでいるのが見えた。あれはなんだろう。クロウはさして警戒する事もせずそれを掴んだ。水から引き上げる。

びくん、とそれは陸に揚げられた魚のように痙攣した。しかし急に命を吹き込まれたかのようにも感じた。赤い縄は身をよじりクロウの腕に自身を絡めてくる。なんだよこれ!クロウはとっさに片方の手で赤い縄を引き剥がすと背中を向けて全速力でそこから逃げ出した。身を守るための本能がけたたましく警報を鳴らす。とにかくクロウは蛇のように自分の腕に巻き付いた赤い縄や、大きな手を広げ招く暗い海から遠ざかろうとしたのだが、その途端にくん、と左足が引っ張られ砂の上に倒れてしまう。砂にまみれた左足を見る。足首には確かに赤い縄がきつくきつく巻かれていた。ひ、と息を詰める。何しろその先はたった今逃げようとした水平線の先へと繋がっていたのだ。それだけではない。絡めとられた足がず、ず、と海へと引き摺り込まれていくのを見てクロウは愕然とした。ぞわりと背筋が冷たくなる。砂をかき足を乱暴に降りクロウがどんなにもがいてみてもなおも力は強くなるばかりだった。爪先、膝、更には腰のあたりまであっという間に引き摺りこまれてしまう。すでにその時には透き通っていた筈の水はどす黒く変色しており、粘度の高いヘドロと化していた。まるで底無しの沼のようだった。こうなってしまっては、蜘蛛の網にかかってしまった蝶と同じように、それに食われてしまう他出来ることはない。赤い縄は無慈悲にも、鼻先まで水没したクロウの体をいとも簡単に引き摺り込んでみせた。





ずるずるずる、と縄が砂を擦る音。そして煩い抵抗が完全に止んだ事に男は手にした赤い縄を取り落とし笑った。しばらく木霊すほどの高笑いを辺りに響かせた後潔く動作を再開させる。やがて黒塗りの海から縄に繋がれた一個の個体が引き上げられた。泥々とした物に覆われていたがそれは間違いなく人間の形をしていた。男はおそらく顔があるであろう位置を探り当てヘドロ状の溶液を指で子削げ落とす。それが欲しくて堪らなかった目的の人物であることを確認してから月の眼を細め、口内を蹂躙しようと舌を伸ばす。だがあまりのそこの苦さに慌てて男は唇を離した。案の定変化したヘドロ状の水は土を食べていた方がましだと思えるえぐみを含んでいた。舌の上のそれを吐き出して指でぬぐいとる。クロウもこんな物早く吐き出してしまいたいだろう。男はすぐに汚れた衣服を脱がし自分の纏っていたマントを被せ、小柄な体を抱き上げる。うっすらとわかる病的なまでの白さが自分と同じだということに男はどうしようもない興奮を覚えていた。




100411
拝借 


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