レプリカ



私は、まだ、マシーンにはなりたくない。

アポリアはぼんやりと考えていた。自分の口からそんな言葉が出てきたことに驚いていた。自分は、まだ、人間でいたつもりだったのだ。驚くべきことに。ぎゅっと目をつむり、ずきずきと胸をおそう疼痛に耐える。先ほどゾーンに拒絶された痛みがぶり返してアポリアの息をとめた。そうして自分のはいた言葉に嫌悪をおぼえた。羞恥さえ感じていた。ゾーンは今何を思っているのだろう。私も辛いとゾーンはいったが、多少のことなら、いやどんなことがあってもアポリアはゾーンのすべてを受け入れるそんな覚悟で挑んだのだ。永遠の友だと思っていたからたった一度だけでいいのだ。ゾーンの素顔を知りたかった。それは親愛と不安で構成された好奇心であり猜疑心だった。どうして。その理由さえゾーンは教えてくれなかった。ずんと腹に沈むような苦しさ、理不尽に対する寂寥感、それを攻撃的な感情にしないようにアポリアはずいぶんと苦労をした。結局は彼の素顔を暴こうとした自分が悪いということでなんとか気持ちを整理しため息をつく。
こんな体になってしまった今、アポリアは、誰かにすがりたくて仕方がなかった。それは自分が生前のアポリアの記憶のコピーである事実をまだ受け止められずにいたからだ。例えばふとした拍子にこんなことを思ってしまう。私の腕はこんなものではない。私の顔はこんなものではない。別の器に移された時点で個人の意識は消失する。自分を忘れようとすればするほど、逆に無意識の部分は自分を探してしまうのだ。アポリアはその考えにいつも苦しんでいた。そしていつかそれを愚か者の考えだと断言したのはパラドックスだった。
「自分が最後に何を望んで死んだのか思い出してみるといい」
パラドックスはそう忠告した。他人への関心が極力薄い傾向の彼がじっとアポリアの目をみつめてそういったのだ。思い出すまでもないとアポリアはそう返した。自分の記憶を三つに分けてゾーンのしもべとして遣わせること。ゾーンの作り出す未来を信じること。前者はそれぞれルチアーノ、プラシド、ホセという名前を与えられてアポリアの中で今は眠っている。そして後者の思いも揺らぐはずはない。彼ならきっと未来を変えてくれる。その信頼は今でも変わっていない。
「余計なことを考えるのはやめたまえ。それはただキミを苦しめるだけだ」
余計なこと、とアポリアは繰り返す。パラドックスは自分を気遣ってくれているのか。そうするとほんとうに余計なことなのではないかと思えてくるから不思議だ。
「例えば、キミがうじうじと悩んでいる問題だ。自分は何者なのか…そんなことを考えたいのならさっさと哲学者にでもなるがいい。単純に頭のシワの数でさえ私を越えることすらできんだろうが」
「……かもな」
だろう?だから我々はただゾーンの命令にしたがっておけばいいのだよ、とパラドックスはそういってアポリアの腕を軽く叩いた。それからこうも付け足す。
「…ゾーンがキミを作り出した理由を考えれば、少しは楽になるだろう?ゾーンは、キミにもいて欲しかったのだ」

ゾーンがルチアーノ、プラシド、ホセのどれでもなくアポリアとしての意識を蘇らせたときに、アポリアはまず困惑した。自分が願ったのは自分の絶望をゾーンの手足とすることで、決して自分の蘇りを願ったわけではなかったからだ。アポリアはまず目線だけを動かして周りの状況を確認しようとした。薄い膜のように包まれたようなカプセルの中にいることはわかった。「ここは」アポリアは無意識のうちに呟いた。
「目が覚めましたか」
「……ゾーン?」
死別したときとなにひとつ変わっていないゾーンがこちらを見下ろしていた。その隣には、アポリアの知らない男がじっとこちらを見ていた。いや、あの顔は見覚えがある……。
「まさか私の顔を忘れたとは言うまいな?」
男がそういってにやりと笑った。金の瞳が細くなる。そうやって笑う皮肉屋の男をアポリアはよく知っていた。
「パラドックス……?パラドックスか?」
「ゾーンは私たちを蘇らせてくれたのだ。アンチノミーも一緒だ」
「アンチノミーも……」
アポリアがふっと息をはく。普通に、安堵のため息だった。そしてガラスにうっすらと映る自分の姿に目をとめた。アポリアの知らない男が驚いた顔で自分をみている。パラドックス、アンチノミーが若返っているというなら、やはりそうなのだろうかという予感はあった。だがやはりショックを受けずにはいられなかった。男はアポリアの顔筋にあわせてあわただしく表情を変えた。
「これが私、か?」
「あー…」パラドックスは多少言いにくそうに頬をかいた。「キミの若りしころのデータはすでにあるのだが、やはり同じ顔…というのは気が引けるだろう。だから…その……」
「パラドックスが、データを提供してくれたのです」ゾーンが助け船をだす。「彼を基にしたので……あなたの本来の顔と違うのは仕方ありません…」
「まぁ…いろいろといじくって、キミの雰囲気に近づけはしたのだがね…」
パラドックスは少々気まずくなったのかゾーンに、「彼にも知らせてくるとしよう。泣いて喜ぶぞ」と告げてどこかへいってしまった。ぽつんと二人だけ取り残される。ゾーンが間をとりなすように「具合はどうですか」などと聞いてくる。アポリアはそれに頷くだけでよかった。ありがとう、ゾーンと礼を言えればよかった。だがでてきたのはなぜ、という疑問だった。「なぜ…とは…」ゾーンはひっそりと狼狽した。
「なぜ……私なんかを蘇らせた…」
アポリアが自分の記憶を三つにわけろと言い出したのは、なにより、死ぬ前の自分はもう疲れはててしまったただの木偶だったからだ。そんな人間がゾーンの役にたてるはずがないと思っていたからだ。アポリアは擦りきれてしまった己の弱さを恥じていた。
「私なんかいても、キミの役にはたてないのに」
「それは違います!」ゾーンが言葉をあらげた。「あなたの力が必要なのです……私にどうかお力を」
「キミは」そうやって真摯に頼み込む彼の態度にアポリアはなにかひっかかるものを感じた。「ゾーン、だよな」
アポリアは、生前とは違い敬語で話しかけてくるゾーンにほんの少し違和感をもっただけだった。だがゾーンは一瞬だけ言葉をきった。そして人工声帯からこんな言葉を絞り出した。
「…えぇ、私はZ-oneです」
アポリアはさらに追求しようとしたが、その時パラドックスが連れてきたアンチノミーがカプセルに突撃してきたせいで結局アポリアは話を聞きそびれてしまった。
今思えば、あの時にすべて聞いておけばよかったのだ。アポリアは悔やんだが、すでに遅いことはじゅうぶん承知している。


私たちは、不安定だ、とアポリアは考えている。とりわけ自分がいちばん弱いことを自覚していた。個人が見いだせないことを恐れている。パラドックスのいった通り、そんな個人のありかなどというささいな問題に気をとらわれずもっと未来について考えるべきだと思った。わかっている。わかっているのだそれはアポリアにも。だが、弱い人間はいつも自分を探し回っているものだ。自分を肯定してくれる愛を探している。しかしアポリアは愛さえ放棄した人間だ。したがってアポリアは自分の存在を肯定するため仕方なく考えに没頭していた。
自分は何者なのか。
それを知るためには哲学者にでもなるがいいと言われたが、アポリアはそれについては嫌というほどよく理解していた。私はアポリア。ただし前に『生前の』後ろに『記憶のコピー』がつく。たったそれだけの違いだが、それだけの違いで自分はすでにアポリアではない。自分がそうなのだから、分割され自分の中で眠っている三人の人格はもっと不安定だろう。いずれ生前のアポリアの記憶のコピーに統合する予定の、各々の姿と記憶を有した仮人格。だが彼らは自分の生い立ちよりも大切な憎しみがあった。自分が何者なのかどうでもよくなってしまう憎しみが。
人格をわけて記憶を切り離した今、その憎しみと悲しみに彩られた記憶はたしかに自分のものだったのにどこか他人事のように思えた。悪い夢でもみていたかのような変な喪失感があった。そんなときアポリアは、わざわざその記憶をひっくり返して憎しみを浴びた。そうやってこの三人の人格が自分なのだと認識してきた。たまに彼らの記憶が一斉になだれこんできて、耐えられなくなることもあった。そんなとき、アポリアはよくバグをおこした。
右手を目に突き刺しえぐり出す。飛び出してくるのは赤い目と、細長いコード。人間と同じ痛みはある。それでも血はでない。小さな部品。痛みに喘ぐ声。表示されるエラーコード。アポリアは痛みに倒れこんだ。握力で目を握りつぶしたことすら意識の外だった。痛い。目が痛い。心が、痛い。ここまで人間とそっくりだというのに、最後の一線だけは越えさせてくれない。血がでない。涙すら。アポリアは痛みに悶えながらぼうと床をみつめた。アポリアの目には血だらけの地面がうつっている。唯一の恋人を失い、復讐を誓い、なにより彼女の痛みを忘れないように、身に刻みたいがために、プラシド…青年期の自分は己の目をえぐった。
「アポリア……」
「は、…あ、パラドックス……」
「バカなことを…余計なことは考えるなと言ったろう……」
「く、ぅう…こんなにも痛い…痛いのだ……なのに」アポリアはそういってえぐった眼孔をおおった。「あぁ……壊してしまった…せっかくゾーンに作ってもらったのに…」
この体は、自分のものではなくゾーンがつくったもの。ゾーンのものだ。そう考えると罪悪感があった。血だらけの床は消え失せ、もうすでに彼の意識はプラシドではなくアポリアに戻っていた。
「……キミはゾーンを心労で倒れさせるつもりかね」
「そんなつもりはない…私は平気だ。ただゾーンに謝りたい…。ゾーンはどこにいる……」
「その前に、キミを直さなければ。ほら、たて」
乱暴だ、とアポリアはよろけながらもたちがある。手から壊れた目が落ちた。やけに軽い落下音に、アポリアはまるで悪戯が見つかった子供のようにびくついた。
「ゾーンはキミを叱らんよ」
パラドックスは静かに呟いた。キミが自分の体をないがしろにしても。壊してしまっても。へこんだ赤い目のパーツを拾う。
「キミをずっと眠らせておけばよかったと、今日も泣くだけだ。あの人は私たちのために泣いてくれるのだ」
偽物の私たちのためにな。最後に消えるようにつけ足された言葉は鬱蒼とアポリアの胸を重くした。




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