死体は綺麗な儘が好い
徹底的に陵辱された大地を踏みしめるとき、絶望の音が聞こえてくる。文化を、そして命を破壊し尽くされた街にも平等に日の光はやってきた。皮肉だとアポリアは思う。そして間抜けだとも。とても場違いな気がしてくるのだ。きっと仲間が死に、自分が死んでも、こうやって太陽はのぼり、沈み、一日を繰り返すのだろう。誰もいなくなった大地を照らし続けるのだろう。それをもったいない、と思うのは人間に都合のよい解釈だ。その運動を長く長く繰り返したからこそそれは大地に生命を芽生えさせた。ふと見習うべきではないのかと思った。あまりにアポリアは疲れきっていた。このまま泥のように眠りこけ、この大地と一体化しても違和感ないほどに彼の肌は黄土色に枯れ果てた、木偶だった。
がしゃがしゃと不規則な金属音が近づいてくるのでゆっくりとアポリアは振り返った。姿勢を不自然に傾けながらゾーンはやってくる。そしてアポリアの手前で立ち止まった。「探した」白い装束が泥にまみれている。あれにはきっと人が蒸発したあとの血や肉片が混じっているのだと思うとアポリアは急にここを離れたくなった。
「変わらないな」
いつもは必要最低限のことしか口にしない彼が今日に限って饒舌だった。それはきっと孤独をひしひしと感じているからだとアポリアは思った。あの場所に戻れば、今でも穏やかに眠っている仲間の遺体をいやでも目にするからだ。アポリアは次が自分の番だと悟っていた。耳は遠く、目はかすみ手はふるえる。朦朧としている時間が増えた。もはやゾーンともに研究を続けていける状態ではなかった。そうなると、今度は老いに加えて先に行った仲間たちにたいする罪悪感がつもっていって、アポリアの心を押しつぶすのだ。
ゾーンはずっと壊れたモニュメントを眺めているように見えた。アポリアも目を向ける。無惨に歪んだ平和のモニュメントは苦痛に身をよじらせるようにしてたたずんでいた。
「…大丈夫か。顔色が悪い」
ゾーンは重い手を伸ばしてアポリアの頬にふれた。アポリアはわずかに硬直した。瞼を引っ張り目の状態を確認する。「……ゾーン?」アポリアの顔に刻まれた老いを淡々とあばきだしていく。
「キミこそ」
ゾーンは手を離した。
「大丈夫なのか、ゾーン」
「………」
沈黙が二人を包んだ。静かな朝だ。なにも聞こえない。アポリアの呼吸音意外なにも聞こえやしない。アポリアは急に脳裏に映像が浮かんだ。幼いときにみた、あれは映画だったのかもしれない。青年が一人、朽ち果てた協会へと歩いていくただそれだけの映像だった。その空気とにていると思った。0と1の境界線に含まれた空気。自分はそれをポップコーンと炭酸飲料を飲みながら両親の間に挟まれてあたたかさを享受していた。あのあたたかさが恋しかった。もう失われてしまった女の温度。人のぬくもり。今になって思うのは、アポリアの母が生命を生み出すという偉業を成し遂げたことに対する尊敬であった。
「私は、恐ろしい」ゾーンはアポリアの老いから目をそらした。「貴方が……いなくなるのが」
「ゾーン、それは私も同じだ」
神は皮肉にもこの世に男しか残さなかった。
「帰ろう。体に障る」
ゾーンが手を差し出したのでアポリアはつかんでゾーンの体を支えた。自然と重い足取りになった。アポリアの息があがっていくのを感じたゾーンは彼の肩にまわした手に力を込めてぐっとひきあげる。
「まだ倒れるわけにはいかない」
そうだ。まだあきらめるわけにはいかない。誰のために?という疑問が頭をよぎる。人間の未来のために。亡くなった仲間の思いを遂げるために。彼のために。アポリアはいくつか答えをすぐに導き出したが、歩き始めるとついに彼の衰えた脳はそれらの答えを失わせてしまった。
アポリア、と自分を呼ぶ声でアポリアはふっと目を開けた。脂汗をびっしりとかいているのがわかった。鼓動が早い。息も荒くなっている。ガラス越しにゾーンがじっとこちらを見下ろしている。「アポリア」せっぱ詰まったゾーンの声で、アポリアは自分のおかれた状況を理解した。ついにくるべきときがきたのだと。驚くことに、一番最初に感じたのは、喜びであった。もうこれで重い責任から逃れることができるという安堵だった。
「ゾーン」
目の前には、未完成の生命維持装置がまるでアポリアの喉元を狙っているかのようにぶらさがっていた。まるで手術台のようだと思った。母親はきっと同じような映像をみながら自分を産んだのだろうか。かなしいことにアポリアの腹にはなにもない。使い込まれてスポンジのように劣化した臓器だけだ。
「私を一人にするのか……」
安らかだったアポリアの心境はしかしゾーンのその言葉でまたたく間に萎んでいった。ゾーンの声は、寂寥感に満ちているようであったし、先に逝くアポリアに対して責めているようにも感じられた。アポリアの心はまた黒々と塗りつぶされていった。
アポリアはおいていかれる悲しみを知っている。だからこの場合、おいていかれる当人であるゾーンの苦しみはひしひしと伝わってきた。心臓をひきさかれそうな痛みだ。そして、目の前が真っ暗になり、頭が熱くなり、もうなにも考えられなくなるのだ。ゾーンをそんな絶望に浸したくなかった。彼のそばにいてやりたい。アポリアは、そのためならいっそ自分などどうなってもいいと思った。
「ゾーン、私の絶望を利用しろ……」
気がつけばそう口走っていた。ゾーンの願いを、アポリアはどうしても叶えてやりたかった。生き残った者の責任というが、ここで彼らが志し半ばでつきたとしても、責められる者は誰もいない。行き着く先が死なら、死した後良心の呵責を感じることもない。それなのに、命を削りながら次の時代をつくりだそうとしている友を、どうして自分はおいていけるのか。
彼は文字通り未来に身を捧げた。ならば、自分は、その彼に身を捧げることなど、苦痛でもなんでもないと思った。
「キミのためなら、私は喜んでこの体をささげよう。ゾーン……」
深い絶望を体験したこの脳なら、なにがあっても未来を変えると躍起になるだろう。もう絶望したくないと叫びながらただひたすらにゾーンの作る未来を盲信することができる。自分はあきらめてしまった。彼をおいて死のうとしている。もう未来を変える資格などないのだ。ならば自分に宿る絶望の記憶こそが、その権利をもっていることになる。
約束しよう、とゾーンは言った。その言葉を聞いた瞬間、アポリアの目から涙が流れた。アポリアはそれを安堵の涙だと思いたかった。だが本当は恐ろしかったのだ。
「ゾーン…キミをおいていく私を許してくれ……」
彼は恨んでいるだろうか。すべてを押しつけて一人逝ってしまうアポリアのことを。ゾーンの、あの意思の強そうな青い目はぼやけてしまってなにも見えなかった。だからアポリアは死ぬ間際でさえも、こうやってただ懇願することしかできない。
20110212
20110223加筆修正
拝借
星葬