水槽




遊星が熱帯魚を買ってきた。
仲良くしているしている近所の住人の一人が、水槽の処分に困っていたらしい。遊星は特に考えずにひきうけた。遊星はときどきそういうことがある。貰えるものなら貰っておけという貧困層出身の考え方がしみついていた。
もって帰ってから、せっかくだから、何か飼ってみようという気になったらしい。夕方ごろからペットショップに出かけた遊星は、夕飯を食べ終えたごろに戻ってきた。「たくさん種類があって、選ぶのに時間がかかったんだ」そういって遊星はたった一匹の熱帯魚を水槽のなかにちゃぽんといれた。ジャックが、どうせならつがいで買ってくればよかったものを、というと遊星は熱帯魚から目を離さずあぁといっただけだった。
これは、とうぶん離れそうにないな。
魚をみる遊星の目は得物を狙う肉食獣のように執拗だったけれど、そこに潜む温度は青い目とおなじで熱などひとつもない。彼がコンピューターに向かってただ無心にプログラムを組んでいる目と、おなじだ。
ジャックは遊星の興味が他にうつり、ちょっかいをかけて、黙っててくれ云々今は真面目な話を云々いわれるのが(あくまでほんの少しだが)辛くていらいらするので、もうしばらくはかかわり合いにならないことに決めた。

遊星は作業の休憩中、いつもは目頭をこすりこすりして背中をのばしたり目をつぶったりしていた。目を休ませていた。それが最近では熱帯魚の姿を追うのにつかっている。たった一匹の熱帯魚はたのしそうに泳いでいる。ブルーノはそれをみるとにこにこと自然に笑顔になった。その新しい住人をとても気に入っていた。だから遊星の気持ちもわかる。わかったつもりでいる。彼は素直な男だから。
「遊星はそいつをとても好きなんだね」
「あぁ・・・」
遊星はつい、と目を熱帯魚から離してブルーノにむきなおった。
「やっぱり色かな?透明でキレイだもんね」
「この、青みがかったところ、好きだなぁ」
「きもちよさそう。僕も魚になってみたい…なんてね」
ブルーノは遊星の意中の魚をほめて、感想をいった。口べたな男だが、自分の興味のあることについては饒舌になる遊星のくせをブルーノは知っている。だから、あえておおげさに話をふった。彼は会話好きだったからだ。遊星はブルーノの話に頬をほんのすこしだけゆるめて相づちを打った。
「遊星は動物好きなのかな」
「わりとな。……サテライトにいたとき、飼っていた犬はあまり俺になつかなかったが」
「あ、それって前に孤児院にいた犬」
「あれはクロウにしかなつかなかった。俺とジャックは嫌われていたんだ」
「どうして」
「ジャックは、あの性格だろ。今はそれほどじゃないが、好きなやつほどいじめたいんだ」
なるほど、とブルーノはうなづく。そして彼の能天気な思考回路はかってに、じゃあジャックが僕を殴るのも愛情表現?まるで小学生みたいだ、と苦笑した。
「あれ、じゃあ遊星は」
「…俺は、みてるだけだったからな」遊星はぽつりといった。それからあまりにも自然に話を切り替えた。「ブルーノ、おまえはどうなんだ?」
「え、僕?」
「好きなのか。生き物」
「うん、好きだよ。猫とかさ、飼いたいなぁ」
二人は他愛もない会話を楽しんだ。しかしすぐにブルーノはあれ?と思った。遊星はこうやって話をふられると確かにそつなく返すのだが、なんとなくかみ合っていないような印象をブルーノに与えた。雪の上を踏んでいるような感覚に近かった。くっきりと足跡は残すのに、地面がみえない、途方もない感触だ。
「魚は、触れるだけで火傷をするらしいぞ」
「そうなのかい?」
「向こうは、体温が低いからな。触れられないんだ…」
遊星は大きな目を細めた。まるで触れたくて触れたくて仕方がないような遊星の思いをブルーノは感じとった。
やがて5分、10分と時間が過ぎ、遊星が「そろそろ作業にもどろう」とうながした。ブルーノも立ち上がって、最後にひとつだけつけくわえた。
「ほかの熱帯魚は買わないのかい」
遊星は、今のところかんがえてない、といった。

「飽きねえなあ」
クロウは頭をがしがしとかいた。クロウ、と遊星は水槽の中身から目を離した。クロウは遊星の隣にたって、水槽をおなじようにのぞき込む。「お、ちょっとおっきくなったんじゃねえか?」遊星にむかってにかっと笑った。遊星はつられて思わず唇の端をもちあげた。
「なぁ、遊星。俺はあんまわかんねぇけどさ」クロウはそこでちょっと迷い、「…喧嘩なら、さっさと謝ったほうが、楽だぞ。あいつはぜってー折れねぇから」と譲歩するような口調でいった。彼らの口数が少なくなっているのをクロウは気づいていた。「…喧嘩?」遊星はその単語をただ繰り返しただけだった。「だって、ぜんぜん喋ってねぇから」
クロウは少しだけ身をひいた。こちらをみつめる遊星の目が、わずかに鋭くなったような気がしたからだ。クロウはもう気がひけてしまって、はぁとため息をつくと話を切り替えようとした。
「俺は、ないがしろにしてるわけじゃない…」
「え、あ、」急に先ほどの話に戻り、クロウはついおぼつかない口調になる。「なら、いいけど」
遊星はすっと目を細めて水槽に泳ぐ魚を撫でるように指先でなぞった。「ただ、俺は…似てると…」元々喋る男ではないが、こうやってなにかを考えながら喋ると言葉に頭がまわらなくて支離滅裂になる。小さい頃から自分を持っている子どもだった。その発想力に時々すばらしいと感心して、時々わけがわからないとあきれた。けれどいつも口出しするのはクロウではなくてジャックだった。
遊星がなにかを考えるとき、その青い目は恐ろしいほど冷える。とてもじゃないが、当時幼かったクロウはそんな冷たい目の人間に何かをいえるほど強気な性格ではなかった。
遊星の口は、言葉を探して何度か開きかけたが、的確な言葉をあきらめ妥協したような言葉がでてきただけだった。
「ただ、この魚も、おなじだと思っただけだ…」
遊星が指先に力をこめたので水槽はきゅ、と音を立てた。魚が驚いて水草の陰にかくれてしまった。この魚が、ちいさなたった一匹の魚がなにとおなじかだなんてクロウにはわからない。だれにも。わかっているのは遊星の頭だけだ。

ジャックは、遊星とクロウの会話を盗み聞きしながらずっと不機嫌だった。とにかく、遊星が誰かと会話を楽しんでいるだけでもやもやとしてしまう。だからといって会話にわりこむことなどジャックのプライドがとうぜん許すはずがなかった。笑止千万だ。だいたい、ジャックは魚などに興味はない。それも鑑賞用の魚などに。嫌なことを思い出させる。
いまいましいレクス・ゴドウィンが一度キングであるジャックの控え室に熱帯魚をもちこんだことがある。「キングの癒しになれば」もとから、水さえあればのんきに泳ぐそれらをジャックは気に入らなかった。飼われているという事実にもきづいているのかいないのか。水がなければしぬくせに。餌をやらなければしぬくせに。そう思えばおもうほど、ジャックはなにか胸のしこりを感じずにはいられなかった。それもそのはず、それらの熱帯魚たちはレクスがジャックにあてた皮肉だった。賢いジャックはとうとうそれに気づこうとはしなかった。わざわざその皮肉にきづいたところで、ジャックが玉座から逃げられないのはとうの昔に承知していたからだ。それが賢明な判断である。
嫌な記憶だ。ジャックは苦々しい思いをした。いまならわかる。ゴドウィンはオレを飼ったつもりでいて、笑っていたのだと。そしてそれは遊星も同じだ。あいつは、オレと対等な立場だと言っておきながら、心の中では自分が上位になりたいと思っている。
『おなじだと思っただけだ…』
遊星は、あろうことかオレと水槽の魚を重ねてみていたのだ。吐き気がする。オレは鑑賞用などではない。
「あれ、ジャック」
は、と気づくとブルーノがジャックの顔をのぞき込んでいた。「顔色が悪いよ」ブルーノは眉を寄せる。他人を心配する顔だった。壁の向こうにいる遊星たちに聞かれたくなくてジャックはブルーノの腕をひっぱった。そして自室へつれこむ。ブルーノはなにがなんだかわかっていない様子で「お薬もらってこようか…」と談判した。ジャックは無言でブルーノをベッドに座らせると、自分もその隣に腰掛けた。ブルーノが緊張しているのがわかった。
「遊星をどうにかしてくれ」
よっぽどその声がひどかったのかブルーノはまじまじとジャックの顔を見た。「なにがおかしい」「いやその」ブルーノはうまく紫の目から視線をはずすと「ジャックの口からそんな言葉を聞くとは、おもわなくて」とつぶやいた。
「それにそれを、僕にいうのが珍しくて」
「オレも人間だから、愚痴をいいたくもなるし嫌気がさすこともある」
その人間という言葉に込められた意味も知らずにブルーノはううん、とうなった。しばらく目を伏せ考える。
「直接言ってみたらどう」
「いやだ」それから根に持っているようで「あいつはオレの話をきかない」とふてくされた。
「…それは」たしかにあれは遊星の言い方も悪かった。けれど、頑固者二人がどうやって和解しろと言うのだ。いやそもそも彼らは喧嘩をしてこうなったのか、それさえもわからない。こんなの八方ふさがりだ。無茶だ。僕にいったいどうしろっていうんだ、とブルーノは天を仰ぎたくなった。それからやけくそに「…好きなやつほどいじめたいってやつだよ」と遊星の言葉を引用した。
「…オレは真剣だったのだが」ジャックの、炎に照らされたアメジストのようにゆれる目を見て怒らせた、と直感したブルーノは防御の姿勢をとった。だがジャックはなにもしなかった。佇む男の姿がブルーノの胸をついた。ぽっかりと空洞のように表情の抜けた顔だった。自分の過失がじわじわといたたまれなくなった。「あー、えっと」とにかく彼にあいた穴を塞ぎたくて言葉を探すとすらすらと口から言葉がこぼれていく。
「ほら、ジャックだって小さい頃に犬をいじめてたでしょ」
「いじめてなどいない」
「ああうん、そうだったね……。それと、同じだよ」
ブルーノは言えば言うほどそれは真理な気がしてならなかった。
つまり、彼の冷遇はそのまま裏返し、たぶん、仕返しのつもりなんだよ。だってそのとき遊星はみているだけだって言ってたよ。遊星も寂しい思いをしていたんじゃないかな。だから、あの時の仕返しのつもりなんだよきっとそうだ!そうだよジャック!
最後はベッドから立ち上がりジャックの両手を握るほどだった。ジャックは呆気にとられて、続いてふっとふきだした。
「なんでおまえがその話を知っているんだ」口調は責める感じであったが、笑いながらであるので肩を揺らしながらジャックはきいた。ブルーノがう、と言葉に詰まって遊星から、と素直に白状するといよいよジャックの笑いは本格的になった。ブルーノはどこがそんなにおもしろいのかまったくわからない。「ブルーノ」ようやく笑いがおさまったジャックは言った。
「おまえと話していると真剣に悩むのがばからしくなってくる」
「そ、それってほめ言葉なの」
「なかなか感動する力説だったぞ」
年相応に笑うジャックにブルーノは複雑な気持ちになりながらもジャックの影がすっかりみあたらないことに安堵した。結局遊星をどうにかする彼の相談はどうにもならなかったが、自分はできるだけのことをした。ジャックは気にしすぎなのだ。きっとすぐにいつもの遊星に戻るはず……。
それからジャックとブルーノはぽつぽつと会話を続け、時計の針が12時をさしたところでジャックが寝るといったので暇することにした。「おやすみ、ジャック」「あぁおやすみ」ブルーノは扉を開けた。

ブルーノはそこで立ち止まった。
すぐ目の前にたっている人物に気がついて、ブルーノはすぐに反応することができなかった。ブルーノ?とジャックがいぶかしむ。ブルーノはあわてて扉をしめた。
己の心臓が早いリズムで鼓動を刻み始めた。悪いことはなにもしていないはずなのに、なぜだか後ろめたい気持ちになったのだ。
「……遊星」
「寝るのか。おやすみブルーノ」
遊星はきびすを返した。ブルーノは途端に不安になった。ジャックに用があったんじゃないか。普段のブルーノなら、そして普段の遊星ならそんな言葉はとっくにブルーノの口からでていた。しかし、硬直したのだ。おおよそ平生の様子とはかけ離れているように思えた。ブルーノが我に返ったとき、もう遊星の姿はどこにもなくなっていた。

別にないがしろにしているわけではない。遊星は心の中でそう唱えた。ひたすら唱えた。ただ遊星はひとつのことに没頭すると時間を忘れてしまうだけだ。なにも手につかなくなる。一日中そのことについてじっと考えてしまう。遊星が歳の割に妙に機械のことについて博識なのも、すべてはその性格のせいだ。幼いときからそうだったから、ジャックもクロウも自分のその性格を熟知しているとばかり思っていた。だから、今日クロウからいわれたことは多少なりともショックだった。
遊星はジャックと喧嘩したおぼえもない。しかし、会話をしたおぼえもなかった。つまり自分の悪い癖がまたでたのだろう。遊星は謝ろうと思ったのだ。しかしジャックの部屋の前で硬直してしまった。中からジャックとブルーノが談笑している声が聞こえた。
そのとき、遊星は悲しい気持ちにおそわれたのだ。なんだ、ジャックは平気そうじゃないか。俺と話さなくても、楽しそうじゃないか。そこでまず遊星の謝ろうという気は完全に失せてしまった。
扉からかすかに笑い声が聞こえる。その声を聞いているうちに遊星は急にみじめになった。そしてほんのわずかな怒りも感じた。明らかに嫉妬だった。あのジャックとブルーノが、いったいどんな話をしているのだろう。遊星の記憶の中で、ジャックはブルーノをどこか邪険にあつかっていたふしがあったから、なおさら気になった。遊星はこれ以上はもういれないと思い、引き返そうと後ずさった。その瞬間、扉が開いた。そのあとのことは、あまり覚えてない。自分はずいぶん見苦しい顔をしていたような気がする。気がつけば、あの水槽の前まできていた。
遊星は電気をつけた。
闇の中に水の檻が浮かび上がった。眠りかけていたのか動きが鈍い。遊星は賢明に動かす尾をみていた。体を、目をみていた。青い腹。金の背鰭。何度みても似ている。魚は自由に泳いでいた。
遊星の手が出せない場所で自由に泳いでいる。

遊星はそのまま眠ってしまった。

翌日、水槽は空っぽになっていた。
ブルーノは昨日のこともあってかすぐさま遊星に問いただした。遊星、あの魚はどうしたの。どこやっちゃったの。しかし遊星はブルーノよりも困惑してわからない、わからないんだ、とうろたえてみせた。ブルーノは遊星をまじまじとみた。
「二人ともいったいどうしたのだ」
ジャックが割り込んできた。えらくご機嫌だ。鼻歌まで聞こえてきそうだった。「じつはね」ブルーノはジャックに説明した。ジャックはそうなのか、と一言いっただけだった。
「いなくなったのなら、仕方ないだろう」
「でも……水槽から、でられるはずが」
「そうか?手を貸せば、どうとでもなるぞ。サテライトでも、水槽でも、な」
きっ、と遊星はジャックを睨みつけた。いや、背の関係で睨みつけたように見えただけだ。遊星は実際目を動かしただけだ。ジャックはやはり上機嫌で「おい、クロウ、オレは少しでかけてくるぞ」と呼びかけた。そしてブルーノに「お前もつき合え」と言った。遊星には一言も声をかけなかった。
「ねぇ、ジャック、遊星は」
あわてて追いかけていったジャックの背中に問いかける。ジャックは白いDホイールにまたがった。ヘルメットをかぶる。ハーフメットの内側でジャックはくすりと笑った。「好きなやつほどいじめたいらしいからな、オレは」
美しい容姿にずいぶん似合う意地の悪い笑みだった。



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