深淵なる悲哀




それは歌と呼ぶにはあまりに耳障りだった。悲鳴と呼ぶのが一番正しいように思えた。だけど悲鳴というと率直で悲しいので遊星はそれらを歌と呼んだ。

遊星は生まれたときから歌が聞こえる。
生まれたときから、と言うのは語弊かもしれないが記憶があるときにはすでに遊星の耳を支配していたのは歌だった。言葉がわからないために不明瞭なそれはちょうどたくさんの人々の声のように聞こえて不快だった。そのせいで遊星は小さな子供だというのにいつも目の下に隈をつくって、ぶすっとしかめ面を引っ提げた可愛いげのない子供であった。仮面を貼りつけたような顔に当然大人たちは警戒した。
少し大きくなった頃、遊星はその歌が悪意の固まりだと知った。そうして幼い頃から聞いていた歌が死者の言葉だということに気づく。ゼロ・リバースの死者だった。遊星は彼らからことの経緯をすべて聞いた。(遊星が止めても彼らはむしろ嬉々として語って聞かせた。)お前たちはそうやって俺を苦しめてどうしたいんだ、と遊星は聞いた。歌はただ苦しめたいだけだと言った。苦しめたいだけなのだから、遊星が本気で黙れと言うと歌はぴたりと止んだ。
やがて遊星にも友人ができた。ジャック・アトラス。クロウ・ホーガン。彼らと遊んでいるときは、歌はただ囀ずるように歌っているだけで、遊星が一人になる夜にこぞってわめきたてた。あいつらは実はお前が大嫌いなんだ。だってほら、あの子らの両親は、ゼロリバースで死んだじゃないか。遊星はその通りだと思ったが、とりあえず黙れと言っておいた。
「遊星は最近一人言がおおいな」
「そうか?」
「いったい誰と喋っているんだ」
「別に…」
「隠すな。実はな、俺も声が聞こえるんだ」
遊星はぎくりと肩を強ばらせた。だがジャックは遊星をよそに自分のデッキからカードを一枚取り出した。「なんだそれ」初めてみるカードに遊星は興味をひかれた。
「スターダスト・ドラゴンだ」
どうだかっこいいだろう!ジャックはふふんと鼻をならした。白くてきらきらとしていてまるでジャックのようなモンスターだと思った。
「デュエルしよう、遊星」
負けちゃえ、と小さな子供の歌に遊星は素直に負けてやった。遊星、手を抜いてるんじゃないだろうな!とジャックはその日1日ご機嫌ななめだった。遊星が早々に負けてしまったためにスターダスト・ドラゴンが召喚できなかったのだ。怒って去っていく白い背中を見送りながら、そういえば「声が聞こえる」の意味を問うのを忘れていたなと思い出す。

またある日は、ジャックはいきなりそのスターダスト・ドラゴンを遊星の手に押し付けてきた。「これはお前にやる」かわりにジャックはもう一枚、今度は真っ赤な体を持つドラゴンのカードを手にいれていた。
「こっちはいいのか」遊星はしかし白い龍を手にいれて内心どきどきしていた。
「いい。このレッド・デーモンズ・ドラゴンのほうが強い!」
「ジャックはすごいな。こんなカードいったいどこで手にいれたんだ」
ジャックは自慢気にカードをくれる優しいおじさんがくれたんだ。ぼらんてぃあだと言っていたぞ、と説明する。
「それに明日は、もっとすごいカードをくれるらしい!」
ジャックは有頂天だったが、遊星はその話に眉をひそめた。
「ジャック、明日はいかないほうがいいかもしれない」
「なぜだ?」
遊星は、最近カードをエサに子供を誘拐する悪い人がいるとマーサから聞いたばかりだった。それをジャックに聞かせるとジャックはううん、と唸った。
「だが、俺が来るのを楽しみにしているようなのだ」
「ジャック」
遊星は頭を絞って考え出す。幼い頃から悪意にさらされ続けた遊星にとって、悪意をかぎとるのは朝飯前だった。スターダスト・ドラゴンのきらめきが目にはいる。
「ジャック、カードもそう言っている」
「カードが?」
ジャックはまじまじと遊星の目を見つめた。やがてぷっと吹き出した。「遊星はそんな嘘をでっちあげてまで、俺をひきとめたいのか」ははは、とひとしきり笑ったあとに「わかった。明日はいかない」と約束した。笑われたのは恥ずかしかったが、遊星はほっとした。そしておや?と思った。
「カードの声が聞こえるんじゃなかったのか?」
「あんなの嘘に決まってるだろう」
カードじゃなくて、歌なら聞こえるんだがと反論しそうになって、はっと気づいた。そういえば今日に限ってジャックと喋っている間、歌は一切聞こえてこなかった。
「それともお前は聞こえるとでも?」
ジャックがかわいそうな者を見る目でこちらを見てきたので「いや、ぜんぜん」と全力で首をふった。どうやら自分はよほど嫌われるのが怖いらしい。

結果的にそれがよかったのかわるかったのか遊星には判別しかねた。ジャックはそのぼらんてぃあのおじさんのところには行かず、カードは二枚しかもらえなかった。人間とは選択しなければ前に進めない生き物なのでせいぜい選ばなかった未来に思いを馳せるぐらいしかできなかった。ジャックは時折もらえなかった幻の三枚目のカードについてあれこれ考えて遊星に語って聞かせた。(白と赤がくれば黒い龍しかいないだろうと豪語するジャックの前で、まさか自分はピンクの龍だったのではないかとは言えなかった。言わなくて正解だと今でも思っている。)だが、遊星の意識は常に白き龍、スターダスト・ドラゴンに向かって動かなかった。スターダスト・ドラゴンは不思議な力を持っていた。あのカードを手にいれてから、煩かった歌を一度も聞くことはなかった。夜は安心して眠れるようになったので、だんだん顔色がよくなったのを見て親友のクロウはとても喜んだ。後にもう一人顔色の悪い男が仲間に加わった。「もう少しで幽霊グループになるとこだったぜ」とクロウは冗談混じりに言った。
鬼柳京介。彼は透き通るような肌の血色の悪い男だったが内に秘めたエネルギーは常人のそれを越えていた。三人は火に群がる虫のようにその熱に惹かれていった。鬼柳は、思春期の青年たちが飢えていた『刺激』を与えるのがとてもうまかった。酒や煙草などの「ちょっと」悪いこと。そういったものを与えて三人の反応をみると、ジャックは高いプライドや見栄から真っ先にアルコールと紫煙に手をだした。クロウと遊星は遠慮したが、そんなことで輪を外されるとかそんなことは一切なかったのでほっとした。
だが、いつの間にか遊星はしだいにいてもたってもいられなくなった。物足りない、と感じるようになった。足りない。歌が、足りないのだ。遊星を傷つける歌を遊星は欲していた。俺はもっと傷つかなければならない罪深い人間だ。こんな、のうのうと生きていい人間ではないはずだ。そういったん思ってしまうと、頑固な遊星はそう決めつけてやまなかった。傷つく時に感じる痛みこそが一番生を実感できる瞬間である。遊星はそれが人より少しだけ顕著で極端だっただけだ。苦しみを加えて、ようやく人と同じような生活を遊星は自分に与えることができた。つまり今の幸せに自分は不適切なのだ。
だが、歌を復活させるためにスターダスト・ドラゴンを手放すことはどうしてもできなかった。あれはジャックにもらったカードなのだ。あれを手放してしまったらきっとジャックは傷つくだろう。傷つくのは自分だけでいいのにどうしてそんなことができる。遊星は徐々に焦ってきていた。他人を傷つけず、自分だけうまく傷つく方法。
「ジャック、頼みがある」
「なんだ?改まって」
遊星は、鬼柳やジャックがたしなんでいる嗜好品が羨ましくなった。一本くれないか。俺も吸ってみたい。ジャックにそう話すとほうと眉をあげて自分が吸っていた最後の一本の煙草を遊星にくわえさせた。「どうだ?」ジャックは、甘い遊星のことだからきっと顔をしかめてさっさと返すだろうと舐めきっていた。だが遊星は結局すべての煙を肺の中に入れてしまった。呆気にとられるジャックの前で遊星はふっと笑ってみせる。ニコチン。タール。自らの内蔵をずたずたに傷つける物。

「いいな、これ」



遊星、遊星、Dホイールの調子はどう?
ラリーの無邪気な問いかけを遊星はしかし聞こえないといった風に受け止めた。ラリーはめげずに遊星の上着を引っ張って遊星!と呼びかける。その時かぎなれない臭いがラリーの鼻先をかすめた。これ、煙草だ。遊星はラリー呼びかけにようやく反応をしめすとその少女のような小さな顔をじっと見た。正しくはその唇の動きを。
「ラリー、どうしたんだ?」
「…Dホイールの調子、いい?」
「ん……。あぁ、いい」
遊星はスロットルを握ってエンジンを吹かせたが弱々しく時折雑音が入った。遊星はうつむく。滅多に変わらない遊星の表情だがラリーにはそれが悲しそうにみえた。ジャックが、Dホイールとカードを盗んでいかなかったら、遊星はこんな風にはならなかった!けれど遊星はそのことに触れると傍目にもわかるくらい苦しそうな顔をするのであえてその話題を避けて励まそうとラリーはまくしたてた。
「遊星、なにか必要なパーツはない?俺、なにをしてでも持ってくるからさ!」
「………」
「あ、でも盗みは遊星との約束だから、しないよ」
「………」
遊星は言葉こそ発さなかったが、ラリーの頭を無骨な手でゆっくり撫でた。ラリーはそれだけで頑張れる。この人のためならなんでもしようという気になれた。「ラリー」遊星はラリーの頭から手を外すとポケットに手を突っ込んだ。「ライター持ってないか」
固まるラリーをよそに遊星は煙草の箱を慣れた手つきで開けた。中をさぐってなにも持たずに手を引き抜いた。あぁ、と妙に間延びした声で遊星はぼんやり呟く。
禁煙するんだった。
ラリーはいよいよどういった態度を取ればいいかわからなくなってしまいその場に立ち尽くした。なぜだかとっても泣きたくなったのだ。カードと共に、魂までとられてしまったような気がしてぎゅっとラリーは遊星に抱きついた。


2年前のあの日。鬼柳は狂い燃え尽きてしまった。彼は死亡したと聞かされたとき、三人ははっきりと自らが路頭に迷ってしまったことを知った。一斉に皆が光にすがろうとした。遊星は手のひらに光る星屑のきらめきに。クロウは恩義を感じた男の中に。ジャックは煌々と燃えるシティの灯りに。そしてその光を得るために遊星の光までも奪っていったのだった。
遊星は光を、スターダスト・ドラゴンを失ったことでまた歌の激流の中に放りだされなければならなくなった。スターダスト・ドラゴン。あれは元々ジャックのカードである。持ち主の元に返して当然だと納得させた。他の子供たちではなく自分に白いドラゴンを手渡したジャック。3枚目のカードを取りに行かせたくなかったのは2人だけのものにしたかった。ジャックの独占が欲しかったからだ。遊星は歌に身を委ねながらそう思った。だから執着なんてないと。
だが以前と比べて歌は周りの声が聞こえないほど大きくなったようだ。そしてその歌は遊星の心に染み込んでほろほろと涙を流させるのだ。遊星は首を傾げながら涙を流した。(苦しい。痛い。辛い。)こんなときにいつも隣にいた男がいないことを寂しく思った。
ジャック・アトラス。星屑のように美しい男。遊星はかぐやの姫が月に思いをはせるようにジャックを静かに思った。ジャックはいつも表には出さないが俺を心配してくれていて、(俺を見捨てないでほしい。俺を、)あいつがいたから俺は。

(心配してほしい)


あ、と遊星は突然気づいた。いくらこうやって自分を傷つけていても意味がないのだ。彼が隣にいない遊星にとっては死ねだの消えろだのといった歌はくだらない戯れ言なのである。ああ、そうか。遊星は急激に歌に対する興味を失っていった。遊星はかしこい男で、藁もないのに手を伸ばす男ではなかった。心配してくれる人間がいないならば、この罵倒に意味なんてない。

黙れ、と遊星は唸った。騒がしい歌は消えた。まるで幻のように。





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