三番街の獣
ちっ、と遊星は舌打ちをした。時刻はとっくに夕方を過ぎている。絶対王者、ジャック・アトラスは今日もこの立派な豪邸にひきこもったままだった。あるいは、正門以外の抜け道があるのか。時間を無駄に浪費してしまったことに遊星は後悔する。愛機を調整する作業のおかげで、こり固まった体をほぐすのは慣れているが疲労感はしっかりと遊星の肩にのしかかっている。遊星は筋肉をほぐしつつ恨めしそうに適当な窓を睨み付けた。ほとほと困った駄々である。
栄光のチェッカーフラッグに賭けてプライドを取り戻す。遊星にだってそれが有効になるのはD1グランプリを制したものだけだとわかっている。D1グランプリに優勝すればもう一度、遊星のプライドをへし折ったジャック・アトラスと戦うことができる。目を閉じれば体を殴る風と共にいつでも思い出すことができた。カードを繰る白い指を。勝利を渇望する飢えた決闘者の目を。何故だかあれが遊星の脳裏に焼きついて離れないでいた。遊星は眉を寄せる。さっきから、容姿ばかりではないか。
いやしかし、そう、あの容姿がいけないのだ。
輝く金の髪。立ち振る舞いは王者の如し。あれだけ本物の『王』を見せられれば、並みの人間ならその威圧感に気圧され膝をおりかねない。あの大気を揺らすようなヘルデンテノールにはそれだけの威厳があった。同時に、内に入ってきたその声は欲望を駆り立てるのだ。お前の力はその程度か。俺を倒してみせろ。そういった囁きが、遊星の中を暴れまわるのだ。まるで熱病にでもおかされたように。かっと遊星は体を熱くした。それは戦いの高揚感と同じだった。さながらあの澄ました顔を敗北の苦痛に染めるのは、雪に足跡をつけるような快感だろうと遊星は思った。そこまで考えると、またこの鬱屈とした感情はどうにもおかしいと懸念した。それは決闘が途中で中断されたものによるものだと考えた。あの時、罠を発動できていればあの男に一泡ふかせることができたはずなのだ。つまり遊星はまだデュエルだけでは負けていないのだった。この消化しきれないもやもやとした感情が八つ当たりのようにジャックに向かっているのだと解釈した。遊星はこもった息を吐き出す。
「うちに、何か用ですか」
反応が遅れた。遊星の目の前には白髪の男が一人立っていた。男の影は遊星をすっぽりと覆えるほど大きかった。遊星は思わず身を固くする。使用人にしては、この男の身なりは整っていた。ならば考えられるのは身内の誰かだろう。あの絶対王者の。
「ジャックの客ですか」
「絶対王者に会いにきた」
さほど考えずにでた言葉は悩ましげなものだった。男はふむ、と眉根をよせてあいにく今日はオフなので、と厳しい顔で遊星の要求を跳ねのけた。だが、「まぁ、貴方ならいいでしょう」と急に笑顔になった。今度は遊星がその都合のよさに眉を潜めることになる。「俺なら?」遊星は問い返したが男は黙って笑みを深くしただけだった。
「あなたは飢えた野犬の匂いがする」
随分な言われようだと遊星は鼻で笑った。シティの人間の傲慢な態度にも慣れてきたところだった。サテライトから勝利という餌を嗅ぎつけてやってきた狂犬。そう男の目は物語っていた。あの冷たい目が、彼と似ている気がする。だが驚くほど感情は読めない。これならまだジャック・アトラスを相手にしているほうがマシだと思えた。男の口が左右に開いた。
「こちらへ」
外装が質素な分、内装は豪奢だった。遊星は居心地の悪さを感じながらも男の背中を追いかけた。先ほどからずっと気になっていた「あいつとはどういう関係なんだ」という質問をすると「息子ですよ」と簡潔な答えが返ってきた。「あなたは」ぴたりと男は歩を止めた。
「あなたはどういう関係なんですか」
嫌な問いかけだ。遊星は黙秘を突き通す。なんてことないように男は手で制した。言わなくて結構。どうせ負け犬なのだから。遊星は背中からそういった類の戯言を感じ取った。なにもかもお見通し、といったようで気分が悪い。そもそも、この男はなぜ自分をここまで通したのかまるでわからない。一度遊星は門前払いまで食らっているのだ。
男は左手のドアを一瞥してここです、とドアに歩み寄った。その途端にドアから男が飛び出してきて男にぶつかった。ひっ、と喉を鳴らし、「ご、ゴドウィン様!」と狼狽する。それから一目散にその場から逃げ出した。遊星は呆気に取られるしかなかった。「今の男は」ゴドウィンはその問いかけには「ただの使用人ですよ」と答える。そういえば、この屋敷は異常に使用人の数が少ない。
「では、これで」
ゴドウィンは渋面を残したまま足早に立ち去った。遊星は、まずざっと見渡してその部屋が殺風景だったことに驚いた。ソファと机。ベッドがなければとてもここが個人の部屋とは思えない。寒々しい。遊星は住人を探すが、どこにも長身は見当たらない。あのゴドウィンという男に一杯食わされたのではないかと思った。
「ン……」
その時もぞりとベッドの山が動いた。遊星はおそるおそる近づき、そして絶句した。最初はそれがなにを示しているのかわからなかった。
ジャック・アトラスがベッドに横たわっていた。薄いシーツから覗き見える肌身が見えた。右の手のひらを額に押し付けて、まるで猫のように眠っている。隆起した筋肉の線が呼吸に合わせて上下にゆっくり動いた。
彼はなにも身に着けていなかった。
遊星は一瞬で混乱に陥った。何故だか背徳的な気分に襲われたのだ。思わず口元を押さえる。
ジャックは侵入者の存在に気付かずに伸びをした。額の髪を払いのけ瞬きをするとようやく顔を動かした。見られる。そう思っただけで遊星は逃げ出したい気分にかられた。まるで石化でもしたように遊星のほうは瞬きひとつできなかった。
「何をやっている」かすれた声が遊星の鼓膜を刺激した。ジャックはまだ眠そうな声で遊星を急かす。「早くこっちへ来い」
途端に遊星は石化を解かれたように緊張が途切れてしまった。かわりに緊張の糸を掴んで操ったのはジャックだった。遊星はその声にふらふらと自分の意思とは関係なく近寄っていった。ショックで抜けきってしまった頭に、低い声で命令される声はよく効いたのだ。
ジャックは寝台へ近づいてくるのが遊星だと認めるととろけた目を見開いた。意外だ、と言った目で遊星を眺め回した。
「おかしなことだな。猫が鼠に早代わりしたか」
色素の薄い目が遊星の全身をじろじろと眺め回した。どくどくと心臓が圧迫されている感じがした。ジャックが見えない手で遊星の心臓をわしづかんだようだ。さっきからずっと鼻についてまわる異様なにおいが苦しいと感じた。裸の男と、乱されたシーツ。そしてそれにしみこんだ嫌なにおい。そこから導き出せる答えは考える暇もないほど明白だ。目の前の男はおおよそ絶対王者とは違って見えた。遊星は嫌悪を顔に滲ませた。この男はいったいなんなんだ。遊星は身を引こうとしたが、一歩遅かった。腕を掴まれ上半身をベッドに押さえつけられる。ジャックはさっと立ち上がり遊星をあお向けにベッドに縫い付けた。
「捕まってしまったなあ、次はどうする?」
デュエルの時とはまったく違う、遊女の笑みを浮かべてジャックは耳元で囁いた。妙な甘さを含んだ声だけは対戦者を追い詰めるそれだった。背中が泡立った。このひどく淫乱な男が、あの美しい絶対王者だと?遊星は悪い夢を見て魘されるように唸った。
「あの時とはまるで態度が違うぞ、クズ」
この状態で平生を保っていられる人間のほうがおかしい。遊星は抵抗しようともがくが、ジャックの力はすさまじく押し返すこともできなかった。ジャックの体から甘いにおいが立ち昇ってくる。それは遊星の頭をおかしくさせようと脳をかき回してきた。
「この……、××野郎…ッ!」
せめてもの抵抗とばかりにその綺麗な顔に向かって唾を吐き捨てるとジャックは頬をちらりと横目でみやり、唇の端にたれてくる唾を指先で絡めとった。ちゅ、とそれを吸う。
「不味い」
その隙をついて遊星は思いっきり体を反転させた。入れ替わりに今度はジャックが遊星をみあげる番になる。全裸の男を組み敷くなどことの異常さに遊星は目眩がした。しかし遊星の意思に反して喉はごくりと唾を嚥下した。彼は美しかった。知らず知らずのうちに異常な空気に遊星も感染していた。興奮もしていたのだ。遊星をクズだとののしるこの男を、二度とそういえないように辱めてやりたいと思った。遊星は金の髪を引っ張る。ジャックは顔をゆがめただけだった。苦痛の息がシーツの上を滑った。ぞくり、と襲う波が遊星の意識をさらっていく。唾液でてらてらと牙を濡らし始めた本能は、とうとうこの男に痛みを与えてやりたいと遊星に命令した。遊星の頭はそればかりになった。プライドを、魂を潰された痛みをこの男にも――。
こんこん、とドアがノックされたのはそのときだった。「失礼、ジャック」外からのゴドウィンの呼びかけにさっと遊星は青ざめてジャックから飛びのいた。ゴドウィンがドアを開ける。それから、おやおや、と顔をそむけた。
「服を着なさい。はしたない」
ゴドウィンはそういって遊星を部屋から連れ出した。この異常な光景に一言も言及することもせず、ただジャックに「猫は捨てておきました」と伝えただけだった。これが男をたぶらかす息子を見たときの父親の態度であろうか。遊星はますます得体のしれない実態に途方にくれた。それから、俺はやはりあの時にみたいにのせられ、あおられ、遊ばれていたという事実を悟り唇を噛んだ。
「お見苦しいものをお見せしてしまったようで」
ゴドウィンは苦笑と共に軽く弁明した。育て方を間違えたのか、言っても聞く耳をもたないのです。皆口をそろえて言います。あの子から誘ったと。それは無意識に人を惹きつけてしまいます。王ですから。あの子は抱えきれない獣を腹に飼っているのです。あなた、なにかされませんでしたか。
「ひどく、あなたを気に入ったみたいなので」遊星は一言も口を聞きたくなかったので黙っていた。
遊星の困惑を汲み取ってゴドウィンは今日はお帰りください、と諭した。ここは異常だ。触れてはいけないものに触れてしまった。後悔しても遅い。
「実は今日、使用人が一人やめてしまいましてね。もしよければ、ここで働きませんか」
そんなことを暢気に言っている。足りない使用人を補充するためにここに呼ばれたのかと合点した。つまりは自分は捨てられた猫のかわりか。遊星は吐き気がした。それを必死に堪えて、遠慮する旨を伝えた。ゴドウィンはそうですか、と言って遊星を正門まで送り出した。去り際に一言、
「今日のことはお忘れになるように」
そういって一枚の写真を見せた。遊星は今度こそ言葉を失った。遊星がアジトにしている写真が映っているだけだったが、彼が意図していることは火を見るより明らかだった。ゴドウィンに命の手綱を握られたも同じだった。ゴドウィンは懐に写真をしまって遊星を見送った。遊星は夢からさめたように呆然とした。
「忘れろ、だと」
遊星はやがてよろけて2、3歩後退した。シティは、美しいところだと思っていた。あの絶対王者のように白無垢に身を包み、冷酷ささえ氷河の美しさに変えてしまうような人間が住んでいるところだと思っていた。しかし本質は、サテライトなんかよりもずっと狂っている。野生じみていた。現実はどうしようもなく汚れていたではないか。シティも。あの絶対王者でさえも。だというのに、
「できるはずがない……」
遊星は自らも内に秘めた野獣の本能が、ジャックの内に飼う獣に惹かれていることを知ったのだ。まるで雌を求める雄のように。自分の強さを誇示し、たった独りの雌を手に入れたいと思っている。獣だらけのこの街ではそれはとても自然なことだと思えた。
101215
拝借
透徹