はっと目がさめた。大嫌いな白の天井がみえた。眉をしかめる。それからゆるやかに覚醒した。生きている。ジャックは体をおこそうとしたが強烈な脱力感に襲われて断念した。ついでに自分がなにも身に付けていないことにも気づく。ジャックはしばらく思案し、シーツを巻き付けた。不可抗力ながらも我が身が白に染まるのを恨めしく思う。白が目にいたい。白。そうだ、俺は天使に負けたのだ。となれはここはおそらく天界であろう。敗北したうえに敵に捕まるなど恥以外のなにものでもない。己のふがいなさが腹立たしい。それに、なぜあいつは自分を浄化しなかったのだろうか。まあいい、隙をみてここからさっさと脱出して……。
「起きたか」
「き、貴様いつから……!」
今度こそジャックは飛び起きた。体の痛みがますます怒りを煽った。天使は口すら開かずじっとジャックを眺めていた。基本的に無口なのだろう。不気味だとジャックは思った。怒りのかわりに恐怖が増殖していく。そもそも悪魔を生かしておいた理由も、ここに連れてきた理由もわからない。無愛想な天使を睨み付けた。
しかしジャックは天使の目から視線を外すことができなかった。サファイアを光の元へとさらしたとき、こんな色をするのだろう。深い深い海へと招かれるような感覚すらする。安らぎのあの場所へと引き込まれたら、二度と戻ってこれないだろうという、そんな感覚。
その時、こんこんと控えめにドアをノックする者が現れた。天使は立ち上がりドアを開けて招き入れる。彼の視線が外れたことでジャックはこっそりと安堵した。彼の目は紛れもなく聖者の目だ。鮮やかなアズライトはジャックの頭を飽和させなにも考えられないようにする。あの目の前にいったい何人もの人々が穏やかな沈黙の前に自然と懺悔のために口をひらいたのか。そのままそっと溺れて、呆けた顔で眠りにおちていったのか。ジャックには容易に想像することができた。
「あ、起きてる!」
鮮やかな緋色の髪をふわふわと揺らしながら少年がジャックに近寄った。背中から生える小さな翼で、まだ天使としては見習いなのだろうとわかる。「着替え、持ってきたよ」少年天使がジャックに白い衣服を渡す。当然ジャックは反発した。
「俺の服をどこへやった!」
ひっ、と少年天使は無口な天使の後ろに隠れながら「だって、血がついてたから」とぼそぼそ弁明した。なんだと、とますます激昂するジャックに無口な天使は指を伸ばした。喉に触れる。焼けるような浄化の痛みにジャックは押し黙らざるをえなかった。
「お喋りがすぎる」
無口な天使はそういって傍らの少年天使をジャックから遠ざけた。そして「ありがとう、ラリー」と礼を言う。ラリーと呼ばれた少年天使はジャックを気にしながらもうん、と頷く。そのまま彼らは二言三言交わし、やがてラリーだけがでていった。室内にまた沈黙が与えられる。
「着ろ」
短く命令した天使は壁にもたれかかってやはりジャックから目をそらさない。それどころか早くと急かすばかりだ。仕方なくジャックは天使の監視のなか嫌々白の衣に着替える。痣がまだ腕に残っていたことにほっとした。天使の言いなりになるのは気に障ったがこれ以上乱暴をされてはたまったものじゃない。
「お前、名前は」
ジャックは黙っている。かすれた声でわざわざ名乗りたくもなかった。天使も黙った。やがて根負けしたように「遊星だ」と自分から名乗った。ユーセイ。聞きなれない天界特有の発音をジャックは自分なりに解釈する。「お前は」遊星はもう一度聞き直した。ジャックは渋々自分の名前を名乗った。遊星はたどたどしく名前を反芻した。それから「綺麗だな」と感想をのべた。まったく嬉しくなかった。
「そうしていると天使みたいだ」
遊星は飽きもせずジャックの容姿を美しいと表現した。心なしか顔が綻んでいるようにもみえる。この俺が忌々しい天使と同一にされるとは!とジャックは怒りと羞恥で顔を真っ赤にさせた。悪魔のジャックにとっては侮辱にもひとしい。
遊星はジャックの頬に手のひらをそっと滑らせた。まるでお前の命は自分の手のなかにあるんだぞ、ということを誇示するように執拗な手つきだった。溢れだす浄化の光がジャックをまたも蝕んでいく。自分が無くなっていくという恐怖にしかし臆することもなくジャックはぐっと遊星を睨みつけた。遊星の手はジャックの金の髪へと移動するとそれらをさらさらと拾い上げ、そうして目を細める。
「ずいぶん、……気に入った…みたいじゃ…ないか」
先ほど遊星が声帯に触れたためうまくしゃべれない喉を振り絞り途切れ途切れにジャックがそう吐き捨てると遊星は無言のまま指で髪を軽くすいた。
「こっちはな」
ジャックの痣のある腕を掴む。
「コレが気に入らない」
ジャックは遊星の手を振り払った。天使なんぞに触れさせてたまるものかと思った。そんなものこっちから願い下げだ。遊星はむっとした表情をした。この天使の顔は、戦いの中でしか大きく動かせないらしい。
「さっさと…俺を浄化でもしたらいいだろう」
ジャックは呻いた。
「まだしない」
平行線を辿る会話にジャックは飽き飽きしてきた。だいたいこの天使はさっきから悪魔を綺麗だの天使みたいだの、まるで天使らしくない振る舞いだ。この男、もしや使えるのではないか。ジャックは遊星の目を見つめた。が、遊星は目を逸らす。ち、とジャックは内心で舌打ちした。さすがに悪魔と接するときの心得を熟知しているようだ。闇は光よりも甘美にできている。見つめつづければ、待っているのは闇だ。
「……お前、階級は」
ジャックからする始めての質問だった。遊星は「能天使」とだけ告げる。「ほう…随分と、……悪魔を殺してきたんじゃないか…?」血の臭いがぷんぷんするぞ、と鼻で笑えば遊星の押さえ込まれていた怒りがまた一段と膨れあがる感覚がする。何事にも動じないといった顔をしているくせに、案外扱いやすそうだった。それに、よりにもよって能天使だとは。ジャックはさらに挑発の言葉を浴びせようとして、結局咳き込んだ。限界らしい。衰弱による眠気も襲ってきた。ジャックはベッドに体を横たえた。理由はわからないが、この天使は反抗しなければ手を出さないらしい。痣もまだある。脱出できる体力が回復するまで耐えるのだ。それまでに、さっきの男。やたらとジャックの金の髪に執着がある変わり者の天使を、手駒にしておくのも悪くない。ジャックは内心舌なめずりをした。
誘惑は悪魔の専売特許だ。
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