針の上で天使は何人踊れるか
ジャック・アトラスは悪魔である。
強くはばたける漆黒の翼。禍々しく突き出た角。よくしなる皮の鞭のような尾っぽそれらすべてが、悪魔の中でも高位種に属するものだとわかる。たとえその身を飾る色が清廉な金と紫であってもだ。しかし長年ジャック・アトラスが悩んできた問題こそ、先に述べた色にある。悪魔とは、一目見ただけでぞくりと心を震え上がらせるような黒き闇をもつものが大半である。例えばジャックの親友であるクロウ・ホーガンは薄暗い絶望の始まりを思わせる灰色の目をもっていた。「でもさ、お前にだってちゃんとした翼と、角があるじゃねぇか」そういってクロウはジャックを慰めるのだが、ジャックは決まって否!と否定した。
気に入らないのだ。
ジャックにとって憎むべき仇敵、天使を思わせるその金髪が気に入らない。その色は悪魔の中でひどく目立った。中にはジャックの強大な力に嫉妬し、侮蔑を込めて『混ざり物』と指をさすものもいた。天使と交わったからだと嘲笑するものもいる。ジャックはそれだから自らの色を死ぬほど(もちろん悪魔に死という概念はないのだが)嫌っていた。自分の体で好きな場所といえば、この右腕に刻まれた赤い翼の痣しかない。
その痣は冥界をすべる紅蓮の悪魔に選ばれたものの証だ。その証を授かったものは紅蓮の悪魔に体を与えることを約束させられている。肉体は滅びるが、それと引き換えに魂は強大な力を得て、冥界の王へと君臨するのだ。いわばこの痣は王位継承の証である。
ジャックはそのときをとても楽しみにしていた。
「俺はもうすぐ王となる。この痣がそう言っている」
恍惚のまじった声でジャックはよく呟いた。そして愛しげに痣を撫でた。「ようやくこれで忌々しい姿ともおさらばだ」
「もうすぐお別れか」クロウが痣を一瞥する。
「そうなるな」
「嫌なやつだったけど、退屈はしなかったぜ」
「お互い様だ」
そしてジャックは飛びだっていった。美しい金が黒い羽根にまぎれて見えなくなっていくのを、内心でクロウは勿体ねえなぁ、とだけ思った。綺麗だったのに。
ジャックがいつものように下界をさまよっていたときだった。羽根で移動するのは目立ちすぎるので、悪魔も天使も共に下界では人に擬態する。その時に運悪く天使と遭遇してしまったのだ。
だがそれは天使というにはあまりにも異貌だった。――髪だ。髪が黒曜石のように真っ黒だったのである。白い翼と服がなかったら悪魔だといわれてもおかしくない風貌だった。そしてそれは向こうも同じだったらしい。
天使の視線がゆらりと金の髪に注がれた。ジャックは急に煮え切らない怒りを感じた。こいつ、天使のくせにオレをジロジロ眺め回すとは!実際それには嫉妬も混ざっていた。天使にしておくには惜しいほどの黒髪だった。
「お前」天使が口を開いた。重々しい声だった。「悪魔だな」
「それがどうした」黒い羽根を広げジャックは威嚇する。天使は能面のようになんの表情も映さなかった。
「悪魔は、浄化する」
天使と悪魔は、相反する存在である。天使は悪魔を浄化し、悪魔は天使を殺す。共にまちうけるのは消滅である。相容れないのだ。
「フン、相変わらず天使は物騒だな!」
言うが早いが、ジャックは翼を広げて天使に突進した。体格差で組み伏せてしまえば、あとはやすやすとこの天使を殺すことができるだろう。色は悪魔だが、顔は天使にふさわしく整っていた。その顔が恐怖に染まるのをみるのが、悪魔にとっては快楽にもひとしい。
だが、ジャックの攻撃はあえなくかわされた。
「何ッ!?」
振り向いたそこに、天使の顔がある。深く澄みきった青の瞳が射抜くように鋭いのをみてジャックは一瞬反応が遅れた。腹部に衝撃。前のめりになったところを天使がさらに力を込める。あえなく組み敷かれたのはジャックのほうだった。
「く、くそ!」
あの体のどこにそんな力があったのか、天使の体を跳ね除けようとするもビクとも動かない。高位種の悪魔がまったく太刀打ちできないということにジャックは混乱した。それどころか天使が身にまとう浄化の光にジャックはますます暴れることになる。熱い。身がじりじりと焼かれるような感覚。ジャックがやっとの思いで天使の胸倉を掴んだときには、すでに息絶えだえになっていた。
「どけ…天使の分際で…!」
「さっきまでの威勢はどうしたんだ」
勝ち誇った笑みで天使は笑った。まるで悪魔の笑みと変わらないとジャックは皮肉をこめてそう言おうとするが、口からあふれ出たのは大量の血だ。浄化の光が心臓まで達しているのだ。力が抜けていく。消えるのか、俺は。ジャックは薄れる意識の中でそう思った。ぱたりと腕が地面に落ちる。
「これは…」
天使の視線が脱力した右腕の痣に注がれる。それからなるほど、と一人納得したように呟くとジャックが意識を失ったのを確認してからゆっくりと体をどけた。「こいつが次の王か」天使はその麗人の顔をじっくり吟味するように見回した。美しい金が眩しい。天使はその髪を掬いあげ自らの指に流す。清流のようにそれはてのひらからこぼれおちた。
「……気にいらねぇな」
天使は体格差をものともせず気を失った悪魔を抱えあげた。それから白い羽根をだして宙に浮く。無表情だった天使の顔は、まるでいいものを見つけたように楽しげにほころんでいた。
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