俺の人魚がこんなに可愛いわけがない



「クロウ!やべぇどうしよう!」
ばたばたばた、がったんと床が抜けるぐらいの大きな音をたてて鬼柳は浴室の扉を開けた。鬼柳はマンション住まいである。あの音はおそらく階下の住人に聞こえてしまったろうとクロウはちょっぴり心配した。更には焦った表情でやばいやばいと喚くものだから、クロウは仕方なくおい近所迷惑、とシャワーヘッドを鬼柳に向けることとなった。鬼柳は一瞬黙る。
「うん、落ち着け」
「……おう」
「で、なにがやばいって」
シャワーヘッドを浴槽に沈め淵に手をかけた。ぱしゃり、と水が浅く撥ねる。鬼柳はそれに目を奪われながらも「あの、その」と口ごもった。どうやら大変言い出しにくい内容らしい。急かしてまた騒がれるのも困るので、クロウは辛抱強く鬼柳の言葉を待った。
「…ダチが、さ。泊まりにくるかも」
「へぇ」
「でさぁ、やっぱり…お風呂、とか、使うよな」
「そうなるな」
……ああああー、と鬼柳は頭を抱えてうずくまった。ぱしゃり、とまた張られた水が撥ねて鬼柳の頭を濡らす。「つめたっ」夏が終わりすっかり季節は秋へと変わりつつあったが、クロウが浸かっているその水の温度は身震いするような冷たさだ。常人なら一発で風邪をひいてしまうだろう。だが、クロウは寒さに声を震わすこともせず鬼柳に水をかけて遊んでいる。その水面に見えたのは、見事な魚のヒレだった。
「どうしよう、クロウ」
「断ればいいんじゃねぇか?」
「できるならとっくにやってる!」
がばりと跳ね起きクロウにつめよる鬼柳に、シャワーヘッドから大量の冷水がダイレクトアタックをかました。鬼柳は冷たい冷たいと叫びながら風呂場の扉を閉じる。やばい、怒らせた。鬼柳は別の意味でまた頭を抱えなおさなければならなくなった。


クロウ・ホーガン。その青年には、足がない。
鮮やかな髪に均整の取れた体と、見る目を惹きつけて離さない要素にあふれていた彼には、それらの魅力を全て覆すとんでもないものを持っていた。彼は歩くための二本の足の代わりに背びれとヒレを持ち、そして水に触れていないと極端に弱ってしまう性質を持っていた。腰からすっぽりと鱗に覆われたその姿は、まるで童話の世界にでてくる人魚そのものである。いや、実際に彼は人魚だった。
クロウが海から遠く離れた鬼柳のマンションに突然転がり込んできたのには理由がある。といっても、クロウ・ホーガンと鬼柳京介の出会いは、童話や映画のように決して純愛的なものではない。たまたま友人達と海に遊びに来ていた鬼柳は、その時海辺で同じく戯れていたクロウに見初められた。ある意味運命的ではあった。だが、やはり童話のようにロマンチックになるはずはなかった。彼の目的はまあ簡単に言えば「婿探し」だ。
「誰の?」鬼柳は当然の疑問を口にした。鬼柳はじろじろとクロウの体を眺め回してどうみても男だというのを確信すると内心でがっくしと肩を落とした。そしてはたして人魚というのは両性具有なのか、もしかしたら俺がその婿にならなきゃいけないんじゃないんだろうか、とかそういう風なことを考えた。例えるなら両親が幼少期から心に決めていた婚約者とやらが、18歳の誕生日に家に押しかけてきて「私があなたの婚約者ですよろしくねダーリン♪」などと笑顔で言われふひひ迷っちゃうなあどうしよう坂口くん、といったこれなんてエロゲ?(女性向けバージョン)な展開である。そしてクロウは上記の妄想をばちんと手を鬼柳の顔面に叩き込むことで脳内からデリートさせた。
「俺が面倒みてる子供のだよ」
つまりは、クロウが鬼柳に惚れたのではなく子供の方が鬼柳に惚れたらしい。なんで人間なんかに、とクロウは愚痴をもらす。こっちだってなんで人魚なんかに、と言いたいところだが鬼柳はぐっと我慢した。適切な判断と言える。
「だから、お前を同属にしにきたんだ」
「…えーと、具体的にはどういう」
「ああ、人魚の肉を食うんだ」
なにやら物騒なことを言う。「という訳でちょっと台所借りるぜ」とぺたぺたと足を鳴らし(そういえばこいつ裸足できたのか…ここまで?)台所へ向かう後姿を見送っていた鬼柳ははっと気がつきクロウの体を急いで止めた。思ったより軽い。そして冷たい。
「ちょっと待てよ!!その肉って…!!」
「ああ、俺のだけど」
「絶対無理!」
鬼柳はぐい、とクロウの体を引いた。クロウはその場に倒れこむ。「ワリ、力強すぎた…」鬼柳は慌てて倒れたクロウの体を支えようとする。と、クロウの口から地響きのような低い声が漏れた。それは鬼柳を黙らせるのに十分だった。
「………水」
ぐったりとしたクロウを抱えて鬼柳は半分泣きそうになった。いやちょっとだけ、泣いた。砂漠の真ん中で水を求めてさまよう放浪者の顔だった。もしもしコイツ、死んでないよな?


これがクロウと鬼柳の馴れ初めである。この後水を貰いひとまずは回復したクロウは「何が何でもお前を同属にしてやる!」と若干キレ気味に宣言した。それから半ば強制的に同棲生活を強いられている。驚くことにクロウは家事に類するものはほぼ完璧にこなした。そしてさらに朗報で、どうやら同属となるために食らう肉は生でないと効果はないらしい。という訳で食卓に刺身が並ばない限りは鬼柳の身の安全は確保されているということになる。これには鬼柳は安堵した。そしてクロウには弱点があった。水に浸かっていないとすぐに干からびて弱ってしまうのである。その場合、陸を歩くために人間の足が出現する魔力がかかっているが、(実際クロウはそれでここまできた)体力と共にその魔力も枯渇してしまったらしい。足はほとんど使えず引きずるような形で移動することしかできない。それでもヒレよりマシなのだが。
「頼むから仲間とか、子供のいる海に戻ってくれよ。きっと心配してるぞ?」
鬼柳は何度となくクロウを説き伏せた。それでもクロウはがんとして首を縦に振ることはしなかった。それどころか「鬼柳は…俺のことが邪魔なんだな」と眼を伏せ黙り込んでしまう。確かに風呂は使えないが、そんなクロウの姿を見てそれでも追い出すほど鬼柳は薄情な人間ではない。正直に言うと、一緒に暮らすうちに鬼柳はすっかりクロウの事を気に入ってしまっていた。家に帰れば必ずクロウは暖かい食事を用意してくれたし、遠く故郷を離れ一人暮らしをしている鬼柳の寂しさをクロウは癒してくれた。人魚ということを除けば、いや除かなくてもクロウは鬼柳の良い友人だった。……近頃、その感情も徐々に変化してきているのだが。
「そりゃ…お前がいなくなるのは寂しい。どこにも行って欲しくないと思う。けどな…俺はどうやったってその…なる気にはなれねぇんだ」
海の中の世界は、それは美しいと聞く。鬼柳も、できれば行ってみたいと思わせるほどだ。それでも、鬼柳には捨てられない仲間がおり、恩師がおり、家族がいた。クロウもそれを十分承知している。でも待っている子供の笑顔を思えば、このままあっさりと納得して帰ることなんてできなかった。
「でも、お前、まだ本調子じゃねえんだろ?」
「……あぁ」
「なら、それまでいればいい。いて欲しいんだ」
まだ、時間はある。この問題に関しては答えがでないまま、ずるずると見ないフリを続行する。



そんな日をすごしていたあるときだった。鬼柳が冒頭の問題を持ち込んできたのは。


「すまないな、クロウ」
「邪魔するぞ」
その週末、二人は予告どうりにやってきた。不動遊星。ジャック・アトラス。どちらも鬼柳の大切な友人である。鬼柳は二人を「おう、待ってたぜ」と笑顔で出迎えた。内心はどぎまぎしていた。
(クロウ、大丈夫かなぁ……悪いこと、したな)
鬼柳は友人にさえクロウの存在をあかしていなかった。説明したところで遊星はまぁ解ってくれるとしても、ジャックのほうは絶対に「ダメだなぁ鬼柳、寝言は寝てから言うものだぞ?」と鼻で笑ってくるだろう。クロウの事を信じるのは俺だけでいいという自負もあった。それに、ぶっちゃけ説明めんどくさいし。
「俺のことは心配すんなよ」
クロウはそういって昨日から部屋を出て行ってしまっている。前述のとおり、クロウは水がないと虚弱状態に陥ってしまうやっかいな体質だった。だが、こんな狭いアパートでクロウを隠しきれるはずが無い。鬼柳はクロウの気遣いに心が温かくなるのを感じ、さっそく自分の胸がじくじくと痛む感覚を覚える。そんな鬼柳の心情を察知したのか遊星が「…大丈夫か」と気遣ってきた。
「あ、あぁ…大丈夫」視線が風呂場に行きかけるのをなんとか制し「それより、なんでいきなり泊まりに来るなんて言い出したんだ?」と理由を探ってみる。「泊まりたいからだ」遊星はばっさり切り返した。
「俺は昔から、こういうのに憧れていた。その…お泊り会、というものに」遊星は、お泊り会、のところだけ急に声を小さくしてぼそぼそと喋った。
「……そうなの、か?」
「ああそうだ。小学校の修学旅行のときは、ジャックが風邪をひいてしまって三人ではいけなかったからな」
「ああーそうそう」なんとかは風邪ひかないって言うのによ、と鬼柳は小声で小さく付け足す。「で、中学校のときは俺が腹壊して途中離脱だったな」
「腹を出して寝るからだ」あれで腹を壊さないほうがおかしい、と遊星はあの腹だしミニTシャツを思い出しながら突っ込む。
「高校のときはしかたねぇよな。ジャックは留学、お前がバイクで事故ってアウト」
「悪かった」
遊星は服の上から腹にある傷をそっと撫でた。遊星もジャックもよくバイクなんてのるよなぁ、と苦笑すれば遊星も同じような顔をして好きなんだ、と言った。
「お前ら、何を話している?」
と、ここでさっきまで冷蔵庫の中身を勝手に物色していたジャックが戻ってきて二人に声を掛けた。もちろん冷蔵庫の扉はいらっしゃいませー、といわんばかりに開いている。「あぁっ!バカ閉めろよ!」鬼柳は急いで閉めに行く。その隙にジャックが遊星に耳打ちした。
「遊星、どうやらクロっぽいぞ」
「いや、まだ決め付けるには早い。グレーってところだろう」
「甘いな。お前もあれを見たらわかる」ジャックはそれは嬉しげに洗面所の方へ目をやった。「後で確認するといい。この勝負、オレの勝ちだな」
遊星は1ミリたりとも顔面を動かさなかった。だが、幼馴染であるジャックには、その瞳にありありとした好奇心が渦巻いているのに気づいていた。
鬼柳が軽くジャックを睨みつけながら戻ってくる。
「ジャック、次閉めなかったら飯抜きな…」
「待って!……くっ、さっさと夕飯を買いに行くぞ!」
ジャックはそういって大きなボストンバックから財布と携帯を取り出しウェストポーチに放り込んだ。遊星は尻ポケットに適当に突っ込む。「鬼柳はいい。食費は俺たちで持つ」遊星は鬼柳の手を止め玄関へ誘導する。「じゃあ、お言葉に甘えるとするかな」たとえ一食分でも、食費が浮くのはありがたい。靴を履いて外に出る。
「…ん」
玄関を出たところでジャックが首をかしげた。鬼柳が「どうした?」と聞くとジャックは首をふってなんでもない、という意思表示をする。代わりに遊星が説明した。
「先ほど、迷子らしき女の子をみかけてな」
話しかけても、少女は口を噤んでひたすら下を向いていた。どうしたものかと頭を悩ませていると、青年が通りかかり連れて行ったらしい。青年は少女の知り合いだといったのだが、と遊星は一旦言葉を止める。ジャックがもういいだろうという風に遊星の腕を引っ張ったからだ。遊星はそれでも引っ張られながら言葉を続ける。
「ほら、最近物騒だろ。だからジャックが突っかかったんだ」
「遊星!」ジャックがとがめるように吼える。
「フ…、これ以上はジャックの不名誉になるから言わないが」
遊星の笑みとジャックの焦る横顔に、鬼柳はまぁひと悶着あったんだな、と思うだけに留めた。それからくしゃみをする。





男三人が集まるとどうしても手早く簡単な夕飯になってしまう。という訳で本日の夕飯は鍋である。ぐつぐつと煮えたぎる鍋はキムチを投入して辛口仕様だ。煮詰まると当然辛くなる。
「ゆうへぇ…よくそんなむひょーじょーで食えるな…」ひりひりとする舌と喉を水で癒しながら鬼柳は遊星を横目で見やった。「美味いぞ」遊星は目の前のマグマのように煮える鍋の具を掬い取り、何事もなく口に運ぶ。遊星の胃は鉄でできていると前から噂されていたが、どうやら舌もそうらしい。ジャックもうっすらと汗をかいてダウンしていた。マグマは全て遊星の鋼鉄の胃袋に消えていった。
「ジャック、風呂洗ってきてくれ」
鬼柳がそう命令するとジャックは思いっきり嫌な顔をした。「お前、食事の用意もあんまりしなかったじゃねぇか」と鬼柳に追撃されるとしぶしぶ風呂場に消えてった。遊星が食器と鍋を片付け始めたので鬼柳も立ち上がろうとするが、「鬼柳はいい」とまたとめられてしまった。二回目ともなると流石に気がひける。
「俺も手伝うぜ?」
「家主はゆっくりしておいてくれ。これは感謝の気持ちだ」
遊星は、彼にしては緩やかな笑みを浮かべて台所に消えていった。入れ替わりでジャックがどたばたと風呂場から戻ってきて「鬼柳っ」と名前を呼んだ。手は掃除の途中で泡だらけである。そして何か珍妙なものを見たような不思議そうな顔をしていた。
「お前魚飼ってるのか」
「は?」
「いや…なんでもない」
ああそうそう、と遊星の声が聞こえてくる。
「ジャック、風呂場が終わったらこっちも手伝ってくれ」
「貴様ら、オレをこきつかうとはいい度胸だな……!」
ジャックはぶつくさ言いながら風呂の掃除に戻っていった。鬼柳は一抹の不安を感じて思わず時計を仰ぎ見た。7時半。今頃なにしてんだろうなぁと鬼柳は独り身の人魚に思いをはせる。



「鱗?」
「あぁ、ウロコだ」
ジャックは神妙な顔をしてさっきから閉じていた手のひらを開いて遊星に見せた。そこに乗っているのは確かに一枚の魚のような鱗だった。「これが、風呂場に?」遊星は信じられないといった眼でつぶやく。
「どういうことだ……?でも、洗面所には確かに二人分の歯ブラシがあったんだ。鬼柳が誰かと同棲している可能性は高い」
「……最近、付き合い悪くなったしな」以前なら深夜になるまでファーストフード店でたむろしているなんて普通だった。だが、近頃鬼柳は夕飯の時間までには必ず帰ってしまう。
「玄関に靴は一人分しかなかったから、出かけているに違いないのだ」
「……そうだな」
「しかも冷蔵庫の中は、一人暮らしにしては量が多かった!」
「お前必死だな」
というかいつの間に。遊星は半ば呆れてジャックを見た。そもそも「鬼柳に女ができたに違いない!」と言い出したのはジャックなのだ。遊星は、鬼柳がその事を自分達に言ってこないのはすこし寂しかったが、こうやってわざわざ泊まりに行ってまで暴き出すまでもないと考えていた。それを引っ張ってきたのはジャックである。「お前だって気になるだろ?」と言われて「いや、あまり」と反論してみても、ジャックの話術と交渉術の前ではそんなもの紙束も同然である。だってしたかったのだ。お泊り会。


ガチャ。


と、鱗を囲んで唸っていた二人の耳に突然玄関の扉が開いた音が入ってきた。一体誰が。遊星とジャックの顔が強張った。二人は顔を見合わせ、そして同時に鬼柳がいる風呂場を見た。へたくそな鼻歌が聞こえてくる。それで気を取り直したように「俺が行く」と遊星が席を立った。「いや、オレが行こう」ジャックは遊星を押しのけてリビングの扉を開けた。遊星は万が一のために鬼柳へ知らせに行こうと素早く風呂場で移動する。
「あぁあーッ!お前、昼間の!!」
「な、何故貴様がここに!!」
と、その時だった。青年の大声と、ジャックの怒号が響いてきたのは。「な、なんだ!?」慌てて風呂場から出てきた鬼柳は遊星と直面する。「…おう」「…あ、あぁ」もちろん全裸である。なんだか気まずい雰囲気が一瞬だけ流れたが、遊星は「その、なんだ……よくわからない事態になっている」とだけ言い残して再びリビングに戻っていった。鬼柳は急ぎタオルを巻いて遊星の後を追う。
「なんの騒ぎだぁ!?…く、クロウ!?」
そうなのだ。先ほどドアチャイムも鳴らさず不法侵入してきた人こそクロウ・ホーガンその人であった。臨戦状態を解くことはせず「知り合いか?」とだけジャックは目配せした。「……あ、あぁ」鬼柳が戸惑いつつも頷くとジャックはあの高身長からジロリとクロウを見下ろした。「こいつがまさか鬼柳の知り合いだとはな…」「…その言葉、そっくりそのままテメーに返すぜ」クロウも負けじとジャックをにらみつけた。「よさないか、ジャック」「やめとけ、クロウ」と残りの二人から仲介が入る。二人はしぶしぶにらみ合いだけはやめた。
「俺たちは鬼柳の友人だ。俺は不動遊星。こっちはジャック・アトラス。えっと……」
「クロウ。クロウ・ホーガン」
「クロウか。よろしくな」遊星が差し出した右手をクロウはがっちりと掴んで握手をした。「見慣れない顔だが、同じ大学か?」
「いや、大学には行ってねーんだ」
クロウはそういうと鬼柳のほうをチラと見て「お前、早く服着て来いよ…」と呆れた顔で促す。鬼柳はクロウの発言にびくびくしながらもとりあえず脱衣所に戻って服をしっかり着る。その間鬼柳の頭の中には疑問がぐるぐると渦巻いていた。
何故、クロウがここに?
確かクロウの話では、遊星とジャックが帰るまで、近くの漫画喫茶かどっかで時間を潰すと聞いている。一回泊まってみたかったんだよなーとクロウはご機嫌で話していたから、間違いはないはず。それに、…心なしかピンピンしている。いつもなら、具合が悪そうに足を引きずって歩かざるを得ないのに、今日はしゃんと両足でたっていた。…ますます意味がわからない。
鬼柳がそういった疑問を抱えながらリビングに戻ると、いっそう様子は様変わりしていた。なんとさっきまで険悪モード突入期だったあのジャックはクロウと話している。しかも時々楽しげな笑いまで聞こえてきた。遊星が「おかえり」と声をかける。
「鬼柳…お前なあ」ジャックが振り向いて鬼柳に言った。「別にクロウを追い出さずとも、オレ達は別に気にしなかったぞ?」
「は?」
「いや、いいんだよ。せっかくの三人水入らずに部外者が入っちゃまずいじゃねーか」クロウがにこやかに笑いながらフォローを入れる。
いやいやちょっと待て。なにかがおかしい。いや内容はおかしくないが、なにかがおかしい。鬼柳は思わずストップをかける。「クロウ、どこまで話した…?」鬼柳は恐る恐るクロウに尋ねた。
「俺とお前が一緒に住んでることまで」
「そんだけ?」
「おう」クロウはそういってゆっくりと足を組み替えた。健康的な二本の足は、別に何の異常も無い。人間の足そのものだ。
遊星がソファに体を沈めて、ぽつりと言う。
「しかし、知らなかったな。鬼柳に弟がいたなんて……」
「…え?」
鬼柳が思わずクロウの方に視線を向けると、クロウは軽くウインクをしてこっそり手を合わせた。口パクで「よろしく」なんて言っている。
「おう、鬼柳兄ちゃんは、すっげえいい奴だぜ!!」
――そういうことに、しとけってか……!!
なんとか窮地は乗り切ったものの、鬼柳は予期せぬクロウの「お兄ちゃん」発言に二回目のこれなんてエロゲ?経験を経て嬉しくなったり、また根本的なことが理解できずに猛烈に眩暈がしたりと、まったく釈然としない気持ちを抱えてソファにダイブするしかなかった。





「…で。説明して欲しいことはたぁっくさんあるんだけどなぁ、クロウさん」
「あぁ、何でも来い」
はぐらかされると思いきや、意外とクロウは肝が据わったようでソファにゆったりと腰掛けている。ちなみに、これは翌日、遊星とジャックが帰った夕方のことである。ひと段落ついたのか食事を作る手を止めてクロウは「何が聞きたいんだ?」と鬼柳に問うた。昨夜から足も鱗が生えたりせず綺麗な人間の足そのままである。
「……その足、治ったのか?」
「………それは」
クロウは身構えたものの言いにくそうに頭をがしがしとかいた。鬼柳は辛抱強く待った。普段とは立場が逆だな、とのんびり思った。
「……昨日、ガキが来ててさ」
「それって、俺にその、惚れてるっていう…」
「あんまり俺の帰りが遅いもんだから、来ちまったらしい」
まさかこんなに手こずるとは思わなかったんだよ、とクロウは一人小さく弁明した。申し訳ない気持ちがどっと鬼柳の胸に溢れる。
「それで……昨日の鬼柳とか見て、俺、ずっと考えたんだ。お前はやっぱりあっちの世界の人間だって。だから無理矢理、同属になんかできねぇって」
「…ごめん」
「謝んなよ。謝んのは、こっちの方」クロウはそういって苦しそうに笑った。これで、クロウがここにとどまる理由も無ってしまう…。鬼柳は急になんともいえない寂しさに襲われた。自制しないと、喉から言葉があふれ出てしまいそうだった。クロウに決して言ってはいけない言葉が。
「…で、鬼柳」
クロウが言葉をつむぎかけた。鬼柳はとっさにその言葉の続きを聞きたくないと思った。気付けば腕を伸ばしてその小柄な体を抱きしめていた。磯の匂いと、暖かい体温がますます鬼柳の心を締め付ける。
「嫌だ……」
鬼柳はゆっくりと発音した。「帰らないでくれ」動かないクロウに戸惑いつつも鬼柳は背中に手を回した。好きだった。クロウのことがいつの間にか好きになっていた。その髪も、目も、くるくると変わる表情、利発な考え、それでいて時折見せる素の反応。それら全てをひっくるめてクロウを愛しいと思うようになった。その気持ちをまだクロウに伝えていないが、こうやってきつくきつく抱きしめて、行くなと懇願している時点で勘のいいクロウは気付いてしまったに違いない。嫌がられると思った。そして、鬼柳を突き放して「そういう訳にはいかねーんだ、鬼柳」と、でも笑って、そう告げてくるのだと覚悟してた。だが、返ってきたのはそっと背中に回された細い腕。
「俺……もう、帰らないって決めたんだ」


クロウの脳裏で、幼い少女が微笑みかけた。
『自分に、素直になってください』
私たちのことは心配しないで、いつでも会えるから…ちょっと、寂しいけれど。少女はそういってクロウに別れを告げた。来年の夏は、絶対に会いに来てください。弟も、皆も、待ってますから。貴方と、鬼柳さんのことを。
クロウが世話をしていた、豊かな黒髪の少女はそういって別れを告げた。


耳にそっと囁かれる声は、暖かい。


「……人間が、人魚になれるなら…逆もあり、だろ」


突然、しゅんしゅんと火にかけていた鍋が煙を上げた。「あ、やべっ」とクロウは鬼柳から離れてぱたぱたと台所にかけていった。鬼柳は一人取り残される。さっき言われた意味をゆっくりと噛み締め、理解する。
「クロウ!」
鬼柳は立ち上がり、クロウの体を今度は背後から抱きしめた。あ、あぶねぇだろ!と叫ぶその声すら愛しい。
「俺、絶対に幸せにするから。お前が人魚でも、人間でも関係ない。俺はクロウを愛してるから…!」
だから、ごめん。そう言いかけた鬼柳の唇に、クロウはそっと指を添えた。それ以上はもう何も言わなくていいとでもいうように。謝らないでくれ、とクロウはやはり、あの海に咲く珊瑚のような華々しさで笑う。
「…俺も、好きだ。お前のこと」
「クロウ……」
人が人を捨てるのと同じくらいに、人魚が人魚を捨てることは、欲深く、罪深いものだ。だが、クロウはその道を選んでくれた。自分の代わりに、ヒレを失い、海の世界を失った。鬼柳に芽生えるのは、罪の意識であり、また愛しさでもあった。甘く脳髄を痺れさせるような痛みに、鬼柳は目の端にじんわりと熱が篭るのを感じる。それを見られたくなくて鬼柳はクロウの目をそっと覆った。それからその唇にそっと口をつけた。想像していたどんなものよりも柔くそこは鬼柳を押し返す。「あ、」慌てて唇を離した。
「……抵抗、あるかって、聞くの忘れた」
クロウはくすりと笑う。今度は、鬼柳が言葉を失う番だった。

「お前も、自分に素直になれよ?」

そういってクロウは鬼柳の胸に顔をうずめた。耳に届く心臓の音はうるさく鳴り響き、ああ、きっとこのうるさい鼓動が自分の安らぎの場所なんだとクロウは心の中で呟いた。そして鬼柳と同じ血が自分の体にも流れているのだろうと思うと、また無性に愛しくなった。
「なぁ」
鬼柳がオレンジの髪をさらって、言う。くすぐったさにクロウは身を軽くよじった。


「来年は、また、海に行こう」





101019
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