- ナノ -



「なんで、バンちゃんがいるのさ」

巌徒は不機嫌そうに吐き捨てた。
問いかけられた一柳は鼻で笑いながら、薫り高いコーヒーを優雅に啜っている。椅子にもたれる一柳の向かい側―今は空席だが―淡く湯気立つミルクティーの持ち主に会うためにわざわざ足を運んだというのに。とんだ誤算だ。

「彼女と打ち合わせ中だから、用事は後回しにしてくれるかな」
「はあ? そもそも、君はとっくに現場に出る立場じゃないだろう? それに、彼女と組んでいるのは女性検事だったはずだけど?」

今日は巌徒の部下であるなまえが、出張先の西鳳民国から帰国する日だった。帰国後は間をおかず、局内にある会議室で担当検事と打ち合わせすることは既に彼女から聞いていたので、昼食に誘えなかった巌徒はこうして差し入れを携えて訪れたのだ。
定例会議を早めに切り上げたのも、右手に下げた紙袋に記された洋菓子店のランクが高いのも、遠方出張から戻った彼女を労う上司として当然の行動だと自負していたし、見返りを求めるつもりもない。
それでも、一柳の側にちょこんと置かれた可愛らしい雑貨が気になって仕方がなかった。なまえからの土産だろうか。モチロン彼女に他意などあるはずもないが、今は理不尽な怒りを抱いてしまいそうだ。

「いくら昇進しても、僕の身分はあくまでも検事だからねえ……しかも、今回は国際的な密輸組織が絡んでいる厄介な案件なようでね。僕に白羽の矢が立ったってわけ。警察局長様の耳に何故その情報が入ってないのか、不思議でしょうがないなあ」
「ぐっ」

どの口が言うか、と巌徒は一柳を睨みつけた。似た者同士、彼女をどう思っているか手に取るようにわかる。それに、自分の庭である警察局内において小細工が出来る人間など、目の前にいるこの男しかあり得ない。
他の部下なら震え上がるであろう鋭い睨みを、真っ向から受け止める一柳の視線と絡み合い、見えない火花が散る。

「なまえくんは数多の刑事の一人だろう? 別に誰と組もうが、何の損もないじゃないか」
「あるから言ってるんだよ! ……邪魔するなら、例えキミでも容赦しない」
「へえ、どんな風に損するのかゼヒ聞きたいなあ。後ろに彼女もいることだし」

ばっ、と巌徒が後ろを振り返ると、気まずそうな表情で書類を抱えたなまえが立ち尽くしていた。
立ち上がった一柳は固まっている巌徒の横をすり抜けて、なまえの書類を優しく取り上げた。その際、堂々となまえの手に触れたのを巌徒は見逃さなかった。

「ありがとう、なまえくん。た、助かったよ……でも、呼んでくれれば手伝えたのに」
「大丈夫です、一柳会長。これが私の仕事ですので……巌徒局長、ただいま戻りました。ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません」
「そんな野暮なこと気にしないの。おかえり、なまえちゃん」

深々と頭を下げる彼女に、気持ちを切り替えた巌徒は労いの言葉を掛けた。先程の理不尽な怒りは露と消えて、久々に見かけた彼女の姿に年甲斐もなく顔が緩んでしまいそうだった。彼女の頭を優しく撫でると、一柳に舌打ちをされたような気がしたが、終始聞こえぬふりをした。
先程の醜態は一度リセットして、右手に下げていた紙袋を彼女に手渡す。

「はい、差し入れ。なまえちゃんが一人で食べてね。このオジサンに渡しちゃ駄目だよ」
「ありがとう、巌徒くん。これは僕が美味しくいただくよ」
「バンちゃん、今の話聞いてた?」

他人に対する興味が元々少ないだけに、一度気に入ったが最後、獲物が朽ち果てるまで執着する。非常に厄介な相手であることは百も承知だ。自分の性格を棚に上げていることに、この時二人は気がついていなかった。

そんな男達の気も知らぬなまえはごそごそと自分の荷物を探り、西鳳民国の国章が施された紙袋を巌徒に手渡した。

「巌徒局長にも、出張のお土産です。滞在中お世話になった狼捜査官からいただきました」
「狼って、あの国際警察の?」
「ええ、そうです。とても面倒見が良い方で、毎日ホテルまで送迎して下さったんですよ。休日も観光名所に連れて行ってもらえて……それに勉強熱心で、日本文化を学ぶために今度来日されるみたいです」

ああ、やはり出張に行かせるんじゃなかった。あまりに見え透いた目的に、巌徒と一柳は内心頭を抱えた。