倉院の里において、綾里家と血縁関係にない人間が定住することは非常に稀である。古き良き伝統を護るため、外部の人間は意図的に排除するという暗黙の了解が正当化されているからだ。
そのような閉鎖的な空間にもかかわらず、なまえと言う女―倉院の里とは全く縁のない外部の人間だった―は、3ヶ月程前から綾里家に住み込みで働いていた。
先述のような空間であるが故に仕方のないことなのかもしれないが、彼女が来た当初は綾里家を破滅させる危険因子だとか、家元の絶大な権力の恩恵に与りたいからだとか、根も葉もない噂がまことしやかに囁かれていた。
しかし、綾里の力に媚びず忌まず、淡々と自身の仕事をこなしていくなまえの姿を見て、口さがない者が減っていくのは至極当然のことだった。
「なまえさん! こんにちは!」
「真宵様、ごきげんよう」
渡り廊下を通っているときに、中庭を掃除している彼女を見かけた私は、いつも通り声を掛けた。挨拶は仲良くなるための基本中の基本だもんね、ふふん。
例に漏れず高齢化が進む倉院の里の中では、なまえさんは明らかに私と同年代に見えた。だからもっと話してみたいのに、決まって彼女は私にこう言うのだ。
「いけません、真宵様。私は仕える身ですから」
なまえさんは唇を真一文字にいつも結んでいて、今みたいに仕事以外で困ったことがあると眉を下げてしまう。
なまえさんは余計なお喋りを一切しないので、作法の煩さがピカイチなキミ子おばさまはとても彼女を気に入っているみたいだ。だから余った部屋をなまえさんに気前よく貸して、彼女はそこに住み込んで働いているというわけだ。
申し訳なさそうに立ち去るなまえさんの背中を見送りながら、私は彼女の笑った顔を一度も見たことがないのを残念に思った。笑ったら可愛いと思うんだけどな。もっと仲良くなれたらいいのに。
1日の仕事を終え、玄関の閂が掛けられているのを確認したなまえは夕食を済ませて自室に戻った。部屋の内鍵をしっかり閉めると、自然に安堵の息が漏れる。身の安全を確保する上で重要なのは、交番が近くにないこと、法律関係者がいないこと、自分を知っている人間がいないこと。
周りの人たちは素性も明かさぬ自分に、とても良くしてくれる。防犯カメラやセキュリティとは無縁の場所だが、閉じられた空間であるが故、不審者や新参者が目立つこの環境が今の自分に一番あっていると感じた。答えは明白、気づいたらすぐに逃げられるからだ。自分の身は自分で守らねばならないと、生きている一瞬一瞬で実感している。
一日中気を張りつめているせいか、その反動でとても眠い。なまえは欠伸をかみ殺しながら、ゆるゆると目を閉じて布団に潜った。
布団に入る時が、一番自分らしい自分でいられるようだ。…………
首を掴む冷たい手。
陶酔を帯びたどこまでも暗い瞳。
全身に散らされた無数の鬱血痕。
一瞬の隙をついて逃げ出した後は、終わりのないゴールに向かって全速力で走るほかなかった。
どこまでも追ってくるあの男から、今も私は逃げ続けている。
「……!! はあっ、はあっ………」
最悪の寝覚めだった。
嫌な汗が大量に額から噴き出し、肌にじっとりと張り付く髪の毛に不快感を覚える。恐る恐る首元に触れると、そこには柔らかい皮膚の感触があるだけで、頭を左右に振った。自分を縛る存在は、もう考えなくてもいい。以前の世界とは違うのだ、なにもかもが。
喉がからからに渇いていたので、水分を取るために外に出たくなった。しかし、誰もいない夜中に万一のことがあったらと考えると、それも憚られた。ここは無理やり寝てしまおう。
今夜は台風が近づいているようで、中庭の木の葉が喧しく音を立てている。明日になったら掃除をやり直さなければ。
なまえは布団をもう一度頭まで被り、柔らかな睡魔が訪れるのを待ちわびた。倉院の里を強風が吹き荒ぶ中、なまえの部屋の扉前で、静かに息を潜める男の存在に気づかないまま。
翌朝、布団から身を起こしたなまえが思い切り背伸びをすると、鈍い痛みが頭を締め付けた。水分を取らなかったせいか、寝起きのせいか、考えがいつもよりまとまらない。
黙々と身だしなみを整えた後、なまえはこめかみを軽く抑えながら部屋の内鍵を開けた。
部屋を出ると、修験者達のものではない騒がしい声が、対面の間の方から聞こえてくる。
訝しげに思いながらも渡り廊下の終わりに差し掛かったところで、曲がり角から慌ただしく出てきた女性がなまえの姿を認め、興奮したように口を開いた。
「対面の間で殺人事件があったんや! これはスクープやで!」
そのまま走り去った女性の後ろ姿を呆然と見送った後、なまえは我に返り血の気が引いた。誰が誰に殺された、ということも気がかりではあるが、今のなまえにとって一番重要なのは、いずれここに警察がやってくるという事実だ。
ああ、なんということだろう。警察とあの男は繋がっているというのに。
逃げられる内に、いや、今から逃げなくてはならない。一刻も早く、ここから離れなければ。1日3本のバスなんか待っていられない。
もはや強迫観念に囚われた頭の中で、次から次へと悪い妄想が出てくる。早くしないと見つかってしまう。
地の果てまでも追ってくる、あの男に。
なまえは自分の部屋に飛び込んだ。施錠されていることをしっかりと確かめた後、装束から私服に着替え、元々最低限だった荷物を手当たり次第にかき集める。途中、紙とメモが目について、置き手紙でも書こうとも思ったが今は時間が惜しい。
不義理を心の中で謝りながら目を逸らし、荷物を持って鍵を開けて、外に出ようとした。
開かない。
この扉には内鍵しか付いていないはずなのに。おかしい。おかしい。おかしい。内鍵を解錠しても扉が開かないということは…………誰かが、外側から押さえているとしか考えられない。
昨夜のような嫌な汗がじわりと滲み出る。先程聞こえていた喧騒が、今は嘘のように静かだ。
なまえが扉に耳を当てると、まるでその行動を察知していたかのように、どたどたと幾人かの足音が聞こえてきた。聞き覚えのある男の声がしたことに気付いたなまえはへたりこみそうになったが、何とか気力で持ち直した。まだ道はあるはずだ。
音が出ないように内鍵を再び施錠し、部屋の中をぐるりと見回す。
「……悪いけど、しばらく人払いを頼むよ……司法取引で少しでも刑を、か、軽くしてあげたいからね」
「承知しました! 一柳検事殿ッ!」
足音は遠のいていき、再び元の静寂に戻った。今ならば人払いで警察も現場―対面の間に戻って、この辺りは手薄になっているはずだ。
物音を立てないよう細心の注意を払いながら、なまえは部屋の入口から一番遠い畳と床板を剥がして、出来た空間に身体を潜り込ませた。
一つでも方向を間違えると、あの男のいる中庭側に出てしまうから、勝手口を探して脱出しなければならない。万が一の逃走経路を考えておいて良かった。
乾いた土埃でむせそうになりながらも、なまえは無我夢中で抜け道を探った。僅かな一筋の希望だけを心の支えにしながら。
やがて手探りで進んでいくうちに、綾里家の広い屋敷の下も終わりが見えてきて、見慣れた勝手口の扉の一部が視界に入った。
縁下から出る直前に物音を確認したが、なまえのいる場所は対面の間や正門からは正反対の位置にあるため、先程と同じような静けさが広がっていた。
あと少し、あと少しでここから逃げられる―外に身を乗り出したその時だった。
「探したよ、なまえくん、本当に……あ、会えて良かった……」
背中から尋常ではない力強さで抱きとめられ、なまえは声にならない悲鳴を上げた。
鍵を壊すような音は聞こえなかったはずだ。自分の音も最小限に抑えていたはずだ。何も間違いは犯していない、何故、どうしてここに……部屋から抜け出したことにいち早く気付いて、あたりをつけて待ち構えていたのだろうか。ひっそりと息を潜め、ほくそ笑みながら。
背中から伝わる体温と地を這うような低い声に、なまえは昨日の悪夢、否、過去の記憶に呑み込まれてしまいそうになる。
「もう、急にいなくなっちゃうから驚いたよー……キミがいなくなって、不安で不安で不安で不安で仕方がなかった……この代償、高くつくからね」
「いや、いやです! はなしてください、も、もう戻りたく、ない」
「こ、困るなあ……もしかして、ここが気に入っちゃった?」
最後の力を絞って振り切ろうとしても、男の腕からは到底逃げられそうになかった。
なまえの被った土埃を全く厭う様子もなく、空白だった日々を埋めあわせるかのようになまえの身体を強引に引き寄せる。
ひゅうひゅうとなまえが鳴らす呼吸音と焦がれていた身体の温かさに、一柳は色欲に悶えるあまり落涙した。ああ、彼女は確かに生きているのだと。
「……僕が真実を作り出せる立場にあることを、忘れたわけではないよね? キミの大切な綾里の人間が、罪に問われるかもしれないよ。なまえくんのせいで有罪になったら……ん……その人は、一体どんな思いをするだろうね。未来を閉ざされた絶望で、もしかしたら裁く前に命を絶ってしまうかもしれないねえ」
一柳は愛の言葉を囁くかのように、なまえににひそひそと耳打ちした。自分のせいで他者に迷惑がかかることを何よりも嫌う彼女の性格を熟知しているため、思考回路をコントロールすること自体は難しくなかった。
案の定、彼女の抵抗は徐々に弱くなり、終いにはか細い泣き声が聞こえてきた。予想通りとばかりに笑みを深くした一柳は、片手でなまえを支えたまま首元に視線を移す。
自分の刻みつけた所有印が、随分薄くなっている……速やかに刻み直さなければ。
一柳が周囲に目配せをすると、どこからか現れた複数の警官になまえは拘束される。やはり警察にも、この男の息がかかっていることは明白だ。
絶望的な表情を浮かべたなまえを尻目に、どこか楽しげな一柳は慣れた手つきでなまえに赤いチョーカーを装着する。自身の手首に巻きつけたリードがしっかりとなまえに連動するのを確かめてから、満足そうに一柳は頷いた。
「……さあ、今度こそチェックメイトだ、なまえ。僕と一緒に帰ろう」
なまえさんが里から姿を消して、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている。私は対面の間で起こった殺人事件に巻き込まれていたから、そのことを知ったのは裁判が終わった後だった。
なまえさんがいなくなった途端、家宝は盗まれていないかとか言い出すシツレイな人達もいたみたいけど(はみちゃんも凄い剣幕で怒ってた)、彼女がそんなことするはずない人だって私は思ってるし、実際に取られたものなんて1つもなかった。
それに、なまえさんの部屋には、里の生活がイヤになったので家に帰ります、と綺麗な字で書き置きが残されていたらしい。
それでも、ううん、私が信じたくないだけかもしれないけど、その書き置きはなまえさんが残したものじゃないと思った。
私はいつかなまえさんが帰ってくるような気がして、平穏な日常を取り戻した今でも、彼女の部屋の前を毎日通ることにしているんだ。空っぽの行李やまっさらな机を見るたびガッカリするけれど、彼女の存在を忘れないために、これからもずっと通い続けると思う。
あーあ、イヤな顔されてでも、仲良くなりたかったな。
私は頭の中で、なまえさんを思い描いてみる。
陽の光が暖かく降り注ぐ中、渡り廊下に腰掛ける彼女は、一度も見たことないはずの穏やかな表情で「遊ぼうよ真宵ちゃん」と私に微笑んでくれた。