- ナノ -



ゆみひこくんが高校に上がってからも、私との交流は続いた。
私はいっぱしの社会人として働き始めたばかりだったのだけれど、いかんせん出張と残業の多い仕事だったので家に帰ることも難しくなり、一人暮らしを始めることにしたのだ。

そういえば、私が引越することがわかった時はずいぶん揉めたなあ。かなり急だったからゆみひこくんに伝えそびれていて、結局引越当日に彼が遊びに来たときに言うことになったのだった。
その時のゆみひこくんは目をぱちぱちとさせて、荷造りしている私のそばをしきりにうろうろしていた。

「なまえ、なあ、どこ行くんだよ」

リビングに置いた山ほどの段ボールに囲まれながら、ものの数分で彼は大粒の涙をこぼしていた。これだけ付き合いが長いと弟も慣れたもので、特に慰めたりはせず私の荷造りを手伝ってくれていた。引越業者があと1時間で来てしまうので、それまでに急ピッチで作業しないといけないのに思わぬ地雷を踏んでしまった。

ほっといてもずっと泣きっぱなしのゆみひこくんに、やがて弟は鬱陶しくなったのか、姉ちゃんなんとかしろよと目で訴えかけてくる。無言の攻撃の合間合間に、ムシしないで、オレを1人にしないで、と消え入るようなゆみひこくんの声が空間にコダマする。
はあ、と溜め息をついた後、私は持っていたガムテープを床に置いて、ゆみひこくんに紙切れを渡した。
何年ゆみひこくんの相手をしていると思っているのだ、こんな時の対処法はとっくに心得ている。

「これ、新しい住所。平日は仕事だから、もし遊びに来るなら事前に電話してね」
「……! う、うん……わかった」

今泣いたカラスがなんとやらだ。
涙をぐしぐしと袖で拭いた後、オレも手伝う!と私がさっき置いたガムテープを手に取っていた。
姉ちゃんは本当に甘いよな、と弟は呆れていた。


そして一人暮らしにも慣れてきた頃、これから家に行くとゆみひこくんから連絡があった。いつもより嬉しそうな声だったから、良いことでもあったのかな。
彼の好きなお菓子をテーブルにセットして、放置していたお皿を洗いながら待っていると、まだ慣れないインターホンの音が部屋に響いた。ドア越しに聞こえてくるいつもの鼻歌は紛れもなく彼の声色で、いつも通り出迎えた。

「なまえッ! 聞いてくれ! やっとオレ、検事になれたんだ!」
「ほんと? ユミヒコくんおめでとう! 頑張ったね!」
「それで、その……なまえ、オレ、」
「ゆみひこくん、寒いから閉めて」
「ご、ごめん」

ゆみひこくんにスリッパを勧めた後、部屋に案内した。彼はいつもソファーで寝そべったり、壁に自分の写真を貼ったり(帰った後に剥がすけどね)と勝手知ったる他人の家みたいな感じで過ごすのが日課なのだけど、今日は座布団の上でキチンと正座していた。

「それでだな、なまえ、その、」
「ゆみひこくん、お菓子食べる?」
「え、あ、ありがと……」
「飲み物は何がいい?」
「じゃあジュースで……って、なまえ、わざとやってるだろッ!」

涙目で私を睨むゆみひこくんに、ばれたか、と小さく肩を落とす。
もし検事になれたら、ゆみひこくんが叶えたいこと。それを私は知っている。幾度となく私に言っていたことだから。

視線に負けた私はジュースの紙パックを置いて、彼とテーブルを挟むような形で座布団に腰を下ろした。彼の目線が私を見下ろすようになったのはいつからだっただろう。
彼は所在なさげに目をキョロキョロさせたあと、何かを決したのか、真っ直ぐに私を見据えて口を開いた。

「なまえ、オレと結婚してほしい」
「……ごめん。その気持ちには、応えられない」

ゆみひこくんの瞳孔が開いた。

「な、なんで、話が違う」
「話? ただの決意表明でしょ? この際だから言うけど、ゆみひこくんまだ17歳だよね? 法律上まだ結婚できないし。私の気持ち、ムシしないでくれる?」

このまま畳みかけていかないと、絆されてしまう。彼が約束された未来を歩めるように私がするべきことは、彼と決別することだ。私を過去の遺物として、忘れられるように。

「それに、前に私が言ったこと覚えてる? ゆみひこくんが結婚できる頃には、私はもうオバサンになってるって。ゆみひこくんがイチバン輝いている時に隣にいるべきなのは、私じゃないよ」
「フッ、なまえこそ覚えてんだろうな! オレは『どんなに大きくなってもなまえはなまえだから結婚しよう』って言っただろ!?」
「……そ、そんなこと言ってたの?」
「え、あ、まあ……うん」

お互いの勢いが尻すぼみになってしまい、一瞬気まずい沈黙が流れた。
それでも先に沈黙を破ったのはゆみひこくんで、私としたことが出遅れてしまった。こんなに切り返しの早いゆみひこくん、見たことない。

「そ、それに、なまえ自身はどうなんだよ!? なまえがオレのことどう思ってるか、まだ一度も聞いたことないぞ!」
「わ、私は! ……おかしいよ、私にこんな、」
「なあなまえ、ちゃんと答えて」

彼の切羽詰まったような声が私の心臓を握りつぶす。テーブルを乗り越えた彼に両肩を掴まれていた私は、逃げ場がなかった。

「ずっと考えてた。なまえがオレを一人の男として見てくれるにはどうしたらいいのかって。オヤジにも相談せずに、1人で考えた。きっとイチリュウの検事になれば、なまえは振り向いてくれるって思ったんだ」
「……」
「だからオレ、凄く勉強して、ううっ、検事になったらなまえに、プロポーズしよう、って、うぅ」
「ご、ごめんね、私、ちゃんと考えてなかった! お願い、泣かないで」

ゆみひこくんは本当にバカだ。
私に対する義理のために、彼が本心に蓋をして約束を果たそうとすることが、彼の将来を潰すことになるんじゃないかって、本当はずっと怖かった。
そんな私の黒いもやも、彼の言葉で嘘のように消えていく。声を絞り出ながらぼろぼろと泣いているゆみひこくんを、私は固く抱きしめた。バカはお互い様だ。

「ずっと好きでいてくれてありがとう。私もゆみひこくんのこと、大好きだよ。……さっきは酷いこと言って、ごめんね」
「う、いや、オレの方こそ……ごめん。でも、なまえがまた、笑ってくれて嬉しい……ふふ」

自分だって涙で顔がぐちゃぐちゃなのに、袖で私の涙を拭ってくれた。
それがとても嬉しくて、不意打ちで彼の目元に口付けた。ゆみひこくんは顔を真っ赤にしていたけど、きっと私も同じくらい赤いと思う。

「よし、早速オヤジに報告して法律を変えてもらおうぜ! ……あと、チューは毎日で」

素直で優しくて、真っ直ぐな瞳がとてもキレイなゆみひこくんは、やっぱりちょっと頭が残念みたいだ。