- ナノ -



「今夜大事な懇親会があるんだけど、重要な案件が入って行けなくなっちゃったんだ。みょうじくん、急で悪いけど代理で行ってくれる?」
「分かりました」
「ほ、本当かい! じゃあ先方には僕から連絡しておくね。結構な有力者も沢山参加するから、くれぐれも失礼のないように気をつけてね。くれぐれもだよ」

そして終業後、事務所を出る時に所長を見ると、晴れやかな顔で観葉植物に水を遣っていた。今思えば何故そこでおかしいと思わなかったのか、過去の自分を問い詰めたい。


「みょうじなまえ様ですね、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

接遇の行き届いた初老のウェイターに案内されたその場所は、広々とした個室だった。片側の席には荷物が置いてあるので、先方はすでに来ているようだ。
なまえも反対側の席に鞄を置き、その他の荷物をウェイターに預ける。襟元を正して席に着いた時、ある違和感を覚えた。

「こ、個室……?」

"結構な有力者も沢山参加するから、くれぐれも失礼のないように"

なまえは先程の所長の言葉を思い返す。椅子の数は何度見ても2つしかない。

もしかして場所を間違えた?
既に来ている人も不思議に思ったから席を外しているのでは?

どうにか辻褄が合うように考えを巡らせていると、引き戸から煌びやかな検事バッジを付けた男性と、スパークリングワインを持った先程のウェイターが現れた。

「やあやあ。待たせたね。……あれ、君は?」
「みょうじなまえと申します。本日は代理で参りました」
「参ったなあ。彼と直接込み入った話をしようと思っていたんだけど」
「……! あの、私じゃ、ダメでしょうか……?」
「…………あっはは! 冗談だよ、ジョウダン。弁護士のなまえくんだよね、所長から聞いているよ」

高らかに笑ったその人を見て、からかわれたことにようやく気がついた。なまえは思わず頬が熱くなる。

「一応名刺渡しとく? 会った証拠にならないし。はい、これ」
「頂戴いたします……け、検事審査会会長……?」
「なまえくん、もっとリラックスしてよ。なんなら僕のことはバンちゃんとでも」
「それは流石に呼べません!」
「そ、そう? じゃあ下の名前でもいいよ。それでも駄目なら、か、悲しいねえ……泣いちゃうよ、僕……」

相手が雲の上の人物だからという理由で、全て断ることが失礼なのは分かっている。所長は今後も付き合いがあるだろうし、今日だけの間柄である自分に課せられた仕事は、この会を無事に乗り切ることだとなまえは考えを切り替えた。出来ることは何でもやってやろうじゃないか。
なまえは貰った名刺に今一度目を通した。

「万才さん、宜しくお願いします」
「うん、うん。なまえくんはイイコだねー。じゃ、乾杯しようか」

◇◇◇

食事自体は終始和やかな雰囲気で、つつがなく進んだ。相手は百戦錬磨の検事だけあって、話を引き出すのが凄く上手だった。

「へえ、なまえくんにはお姉さんがいるんだ。仲良くやってる?」
「はい、大好きです! 最近休みの時は、たまに傍聴に行くみたいです」
「なまえくんの勇姿を見に?」
「カッコいい検事さんがお目当てみたいで……その人に会えると感想を後で教えてくれるんですけど、『私と付き合ってほしい』とか、いや、『私と結婚してほしい』だったかなあ……いつもそんな調子です」
「あっはははは。君のお姉さん、面白いね」

つい、こんな余計なことまで話してしまうから気をつけねば。お酒のペースを落としながら、なまえは一柳の話にも相槌を打った。

「同じ法曹界で生きる者同士、仲良くしておいた方が仕事もやりやすくなるでしょ? 今回はこんなオッサンと2人きりで悪いんだけど、き、来てくれて嬉しいよ……ウウッ……」
「そんなことないです! 最初は不安もちょっぴりありましたけど、凄く楽しいですし……あ! そうだ、万才さん。何かお伝えすることはありますか?所長……ウチの者に」
「……あ、ああ。そうだね。うーん。彼とは大体電話で済ませるしなあ」

それなら、何故所長を誘ったのだ。

「うーん、どうしてだろうねえ」
「心が読めるんですか!?」
「だ、だって、なまえくんの顔に書いてあるんだもの……さて、他になんて書いてあるかな」

ずい、と顔が近づいたと思ったその刹那、なまえの耳元で一柳がひそひそと呟いた。
本能的な怖さからくる防衛反応なのか、鼓膜の震えからくる擽ったさなのかは分からなかったが、なまえの肌がぞわりと粟立つ。

「実はね……君と2人で、一度ゆっくり話がしたかったんだ」
「ば、万才さん擽ったいです……!」
「……なまえくん、もしかして、こういうのに弱い?」
「そんなこと、んっ」
「……はは、ゴメンね、ついいじめたくなっちゃって」

男の唇は名残惜しげになまえの耳元から離れていく。なまえの視線と男の視線が交差したとき、なまえは一抹の不安を覚えた。この男の瞳は、果たして何を見据えているのだろうか。焦点が合っているようで、合っていないのだ。

ふとなまえが男から視線を外すと、自分のワイングラスに口紅が少し付着していることに気がついた。もしかしなくても、口紅が大分落ちているかもしれない。

「ああああの、私、お手洗い行ってきます」
「はい、行っておいで」

鞄の奥のポーチを引っつかんで、なまえは慌てて席を立った。背後から聞こえてきた彼の笑い声に、またしても顔が赤くなる。完全に遊ばれていることは百も承知だ。
食後のコーヒーがくるまでに、少しでも気持ちを落ち着けなければ。
なまえは煩く音を立てる心臓に手を当てて、大きく深呼吸した。


"万才さん"
"私じゃ、ダメでしょうか……?"
"万才さん"
"私と付き合ってほしい"
"万才さん"
"私と結婚してほしい"
"万才さん""万才さん""万才さん"
"大好きです!"

「状況証拠はカンペキ……と。あとは、既成事実を作るだけか」

段々大きくなるヒールの音を合図に、男は素早くボイスレコーダーをジャケットの内側にしまった。
ずっと狙っていたこの機会を、取り逃がしてなるものか。彼女を手に入れるこの時を、どれだけ待ち望んでいたことだろう。

「なまえくん、コーヒー来たから飲もうよ」
「ありがとうございます、いただきます」

角砂糖に似た"何か"が、しゅわしゅわとコーヒーの底で溶けていく。
望む真実に辿り着くためには、多少の味付けが必要なのだ。