- ナノ -



裁判所に併設されているカフェに入ると、水鏡はいつもと違う雰囲気を感じ取った。
店員にオーダーしたコーヒーを待っている間も、場が騒然としているというか、何となく落ち着かない。
疑問を抱きつつ、空いた席がないか視線を移動させれば、一番端のテーブルに突っ伏して泣き声を上げている女がいた。
その姿に見覚えがあった水鏡は、何事かと訝しむ周囲を視線で牽制しつつ、女のいるテーブルへ歩を進めた。椅子を引く振動に気がついたのか、女はゆっくりと顔を上げた。

「ミ、ミカガミさぁーん……」
「こんにちは、なまえさん。同席してもよろしいですか?」

モチロンです、と大粒の涙を流してしゃくり上げているなまえに、水鏡は表情こそ崩さないものの心中動揺していた。
しかし、先日から抱えていた重い案件は聖なる木槌によって判決が下され、法廷特有の緊張感から解放されたばかりである水鏡は、しばし彼女の話に付き合うことにした。

「一体何があったのですか?」
「また振られちゃったんですうう」

彼女が涙を落とす原因は、殆どが恋愛関係か身の上相談だ。水鏡が淹れたてのコーヒーに口を付けるのと同時に、なまえはカフェの紙ナプキンで濡れた目元を拭う。

「私の家、門限がすっごく厳しいんです。バイトも合コンも行けないから出会いが全然なくて。今回も友達に紹介してもらって、良い感じのところまで行ってたんですけど……さっき別れようってメールが来て、け、結局ダメでした」
「まあ……」
「弟だって自分の道を見つけてるのに、私だけ前に進んでないような気がして、……少しでもオトナになろうと頑張ってるつもりなのに、ぜ、全然上手くいかないんです……ううッ」
「無理になる必要はないと思いますわ。弓彦さんには弓彦さんの、なまえさんにはなまえさんのペースがあるはずですもの」
「ほ、本当ですかぁ……」

なまえの呼吸は徐々に落ち着きを取り戻し、終いには笑顔でアイスティーのお代わりとオレンジパイを店員にオーダーしていた。
この素直さと涙腺の弱さは、水鏡が面倒を見ている新米検事―彼女の弟に良く似ている。

「なまえさんは一柳家の法を守っていらっしゃるのですね。素晴らしいことですわ」
「ミカガミさんに褒めてもらえて嬉しいです。家ではあまり……きゃっ」

「水鏡くん、すまないね。ウチの娘の相手をしてもらって」
「…………一柳会長」

なまえの肩に置かれた手の持ち主は、全検事の生命を掌握する法の神だ。なまえの襟元に触れた拍子に彼女の首元が露わとなり、思わず水鏡はなまえから視線を外した。

「急な案件が舞い込んで来ちゃってさあ。なまえと約束している時に限って、な、なんでこうなるかね。参っちゃうよ、全く……ううッ」
「!パパ、泣かないで……ほら、ハンカチ」
「あ、ありがとう……なまえは優しい子だねえ」

子どもの成長というものは本当に驚かされるよ、と万才はゴーグルに溜めた涙を捨てた。

「じゃあなまえ、一緒に帰ろうか。ああ、そうだ。僕の執務室からヘルメットを持ってきてくれるかい? 久し振りになまえをバイクに乗せるものだから、つい忘れてきてしまったよ」
「はあい。ねえパパ、先に地下駐車場で待ってて。すぐ行くから! あ、あとミカガミさん、付き合ってくれてありがとう!」

ばたばたと忙しなくカフェを後にするなまえの姿を愛おしげに見送った後、男は表情を強張らせた水鏡と対峙した。

「水鏡くん、悪いんだけどウチの子をあんまり褒めないでくれる? そういう教育方針だから」
「……それは、失礼いたしました」
「僕に褒められるために、ケナゲに頑張る姿はいじらしいよ、ホント。あの子が可愛くてしょうがないんだ」

娘に対して注ぐ家族的な愛情ではない。これを歪んだ愛と言わずに何と呼ぼう。そして、なまえの首元から微かに見えたあの黒紅色の跡は、この男によってつけられたものだと水鏡は推察した。
ただ、なまえがその意味を知っているのか、確たる証拠があるわけではないが。

「なまえは弓彦ほどバカじゃないけど、やっぱり親としては交友関係とか友達の質とか、色々心配になるわけ。最近なまえにまとわりついてた男も、ちょっといじめたらすぐ消えちゃってさあ。そんな弱虫がなまえに相応しいわけないよねえ?」
「……」
「とは言え、なまえも良い歳なんだから、早く親離れしてもらわないとねー。いつまでもパパって呼んで欲しいけれどね……ううッ……じ、じゃあ水鏡くん、これで失礼するよ」
「ええ、お気をつけて」

涙の溜まったゴーグルを傾けながらなまえの元へ向かう男の背中が遠のいたのを確認し、水鏡は深い溜息をついた。
彼女を手離す気など毛頭ない癖に、どの口が言うのか。なまえに恋人を紹介した友人も、きっとタダでは済まないだろう。あの男がいる限り、なまえの良い話は当分聞けそうにない。

アイスティーの氷が溶けていく音が、水鏡の耳にいつまでも残った。