- ナノ -


かつてなまえのクラスには、天才の男の子がいた。
しかし、いくらクラスメイトとはいえども接点があったわけではなく、せいぜい帰り道で見かけたついでに、余っていたストロベリー・キャンディーをあげたことくらいしか記憶に残っていない。
科学の成績はどんなに良くてもBだった自分とは裏腹に、先生の寵愛を受けていたあの人は今どこで何をしているのだろうと、なまえはふと思い出すことがあった。


順風満帆な人生とまではいかないものの、なまえは並の成績でスクールを卒業し、小さなオフィスの事務職に就くことができた。不況のご時世ではあったけれど、この前のプロジェクトは成功して先週打ち上げをしたばかりだし、「結婚することになったんだ」と照れくさそうに笑うリーダーを皆で冷やかしたり、人間関係にはすごく恵まれていたので、これといった不満はなかった。
今日もいつものように家を出て、いつも通りの時間にエントランスに到着して、エレベーターに乗り込み自分のオフィスの階のボタンをいつも通りに押す。やがて、チン、と到着を知らせる音がした後、重々しくドアが開かれるのをぼんやりと見ながら、なまえは同じ1日が始まると思っていた。空っぽのオフィスで首を吊って死んでいるリーダーを見て、呆然と立ち尽くす同僚達の姿を見るまでは。
オフィスが多額の負債を抱えて倒産したことを知ったのは、それから数日後のことだった。

自分の生活を立て直すことを最優先し、なまえは必死に求職活動を続けた。やっとの思いで掴んだ次の再就職先は、偶然にもかつての同級生が経営する会社だった。企業研究をしていた時にどこかで聞き覚えのある名前のような気がしたのだけれど、最終面接の時にその人は欠席していたし、人違いかと思ってあまり深く考えていなかった。採用後に届けられた社内向けパンフレットの写真を見て、ようやく顔と名前が一致したのだ。なまえが住む都市では一番規模が大きい会社なだけに驚きも大きかったけれど、引きずり出した昔の記憶を思い出して納得した。

きっと彼は、持ち前の能力を存分に発揮できる選ばれた人間だったのだ。昔でさえ軽口を叩けるような関係ではなかった上に、今では雲の上の存在であることは間違いないのだから、とにかく与えられた仕事は一生懸命こなさなければ。

なまえは溜息を吐きながらパンフレットを閉じた。

◇◇◇

そこは例えるなら、地獄のような場所だった。
パーソナルオフィスとはいえども防犯カメラが仕掛けられていて、少しでも能率が下がれば鞭で百叩きの刑になってしまう。
更に悪趣味なことに、その拷問はオフィスに備え付けのテレビで中継される。公開処刑も同然のそれは、全社員のモチベーションと統率力を否が応でも引き上げさせるものだった。気が滅入るような雰囲気のオフィスで、そうならないように業務を必死でこなすほかないのだ。
今日もくたくたになった身体で帰り仕度をしていると、スピーカーから悪魔の声が響き渡った。

「以下の者は今すぐ社長室へ来るように」

先ほど消したはずのテレビの電源が自動的に入る。そこに映されたテロップを見て、なまえは頭が真っ白になった。ただ一人表示されている名前は、紛れもなく自分の名前だった。


―憔悴するなまえを乗せた全自動の椅子は一定の速度で動き続ける。社長室へ向かう途中、いつか読んだ日本の小説に出てきたパノラマ島のような景色が辺り一面に広がっていた。
鮮やかな色をした南国の鳥や噴水が高速でフェードアウトしていくので、とても観光気分にはなれなかったけれど。
椅子は徐々に速度を落として、社長室へと滑り込んだ。

「遅い」

頭上から冷たい声を浴びせられると同時に、男を取り巻く容姿端麗な秘書達にも睨まれる。なまえは椅子から立ち上がり、深々とお辞儀して次の言葉を待つ。これから起こるであろう辱めに、頭の中は空にしておこうと思ったのだ。

「朗報だ、なまえ。本日付で社長秘書室への異動を命じる」

なまえは反射的に頭を上げた。
嘲笑を漏らしていた周りの女性たちも目を丸くして彼を見ていた。その視線にさも今気がついたとでも言うように、ぴしゃりと言葉で牽制する。

「お前達はこの女がいた部署への異動を命じる。元々人員不足だったから好都合だ」
「マ、マンダーク様!」

ある女性は顔を青くし、ある女性はその場で泣き崩れているのを、なまえは呆然と見つめていた。
そんなに自分の部署が嫌なんだろうか。嫌だろうな。いや、きっと彼のことが好きだったのかな。
先ほど頭の中を空にしたせいか、どうでもいい言葉ばかり浮かんでは消える。

阿鼻叫喚と化した空間を物ともせず、玉座のような豪華な椅子から立ち上がったマンダークは、なまえのいる方へ歩を進めた。
呆然とするなまえの目の前で足を止めると、マンダークは20cmにも満たない距離まで顔を近づけた。哀れむような表情をわざとらしく湛えながら。彼から距離を取ろうと後退りしたものの、膝裏に椅子の台座が当たり、再び座るような格好になった。

「ああ、なまえ。会社が倒産してさぞ大変だっただろう。お前の会社以上の待遇が保証できる会社なんざ、僕の会社以外ないからな。アタマが悪いなりに良く考えたじゃないか」
「……」

なまえは目を合わさないまま閉口した。しかし、確かに彼は常軌を逸した天才であったから、何も言い返すことができなかった。ついでに性格が多少捻じ曲がっていたことも思い出した。

「社長は、私のことを覚えているのですか」
「忘れるわけないだろ?僕の婚約者を……お前の気持ちは最初から分かっていた」

この人は、何を、言っている?
なまえの視線は初めて彼に注がれた。ジョークを飛ばしているつもりは全くなさそうだった。至極当然の事実であるかのように、マンダークは言葉をまくし立て続ける。

「あの日、僕はラボを破壊された翌日でとても疲れていた。そんな僕にお前はキャンディを僕によこした。しかも2つもだ。その時確信した、お前は僕のことを愛しているのだと!なのにお前ときたら、僕より劣っているチビでマヌケなデクスターとばかり、いや、この話はよそう。……とにかく、お前が人生を無駄に回り道している間、僕はあいつを完璧に打ち負かした。お前を縛るちっぽけな会社を捻り潰す努力も怠らなかった。今や世界でも絶大な権力と財力を持つ僕に、お前だって文句のつけようがないだろう?願っても無い結婚相手じゃないか」

特徴的な笑い声を高らかに震わせながら、マンダークはなまえの周りを闊歩する。とめどなく冷や汗が流れ続けるなまえの脳裏に、最悪の事実が焼きついた。自分の会社を潰したのが、目の前にいるこの男だったとは……

永遠とも思えるような沈黙が続いたあと、男は恍惚とした表情で問いかけた。

「なあ、なまえ。僕のいない人生はどうだった」