- ナノ -

 ああ、今日も番井くんと話せなかった。
 同じゼミ所属という特権がありながら、有効活用できていない事実に心が折れそうだ。授業中のディスカッションは会話のうちに入らないし、チャイムが鳴ると彼は手早く荷物をまとめて、誰とも話さずゼミ室を出ていってしまうんだもの。

「……あ、今日も動画、上がってる」

 番井くんがミーチューブで活動していることは、同学科の間では公然の事実だった。初めて動画を観た時の衝撃は今でも忘れられない。
 でも、暴論を振りかざし、過激な言葉で世の中を嘲る彼の姿に、私はいつの間にか夢中になっていた。彼のフルネームを検索すると、いつも不穏なサジェストが簾のように表示される。こういうのって就職に不利にならないんだろうか、と母親みたいな心配さえ芽生えるくらいには。全く目立たない番井くんの、意外な裏の顔。好きになるまでそう時間はかからなかった。

「いつも思うけど、全然雰囲気違うな……」

 動画の中の番井くんはガッチリと固めたオールバックスタイルで、自信に満ちた表情で自論を語っている。動画の内容は正直、私にはよく分からない。ゴシップ系を取り上げることが多いかな、と感じるくらいだ。私はいつもと違う彼を見られれば充分だから、内容なんか別にどうでもいいんだけどね。

 普段の番井くんは、動画で見た不遜な態度をおくびにも出さず、礼儀正しく真面目な印象だ。
 授業が始まる五分前にはきちんと席に着いて課題文献に目を通しているし、発表形式の時は誰よりも早くプロジェクターや机をセッティングしてくれている。別のゼミなんて、教授が誰かセッティングしてーってチャットで発言してもみんな既読スルーしていたのに。むしろ未読の方が多かったかもしれない。もちろん、私もその一人だ。

 とにかく。同じゼミになってしばらく経つのに、なかなか番井くんと話せるきっかけが掴めない。気安く彼に話しかけるゼミ生もいないから、結果的に彼はアンタッチャブル的存在になっているというわけだ。
 先週のゼミでオンラインミーティングをやった時、彼のアイコンの色物感について誰も触れなかった……いや、触れられなかったのもその証左だ。その時は教授が何のフォローにもなってない助け舟を出していたけれど、あの時の番井くん、声がいつも以上に死んでたな。ちょっと可哀想だったけど、新しい彼の一面が見られて内心ときめいたのはここだけの秘密である。
 それに、授業中は絶対に目を合わせてくれないし、そもそも共通の話題も分からないからフラグの立てようがない。もしこれが女の子だったなら、カバンについたマスコットを会話の糸口にして仲良くなれたりするけれど、彼がいつも提げている肩掛けカバンには何もついていないし、持ち物の筆記用具もシンプルなものばかりだった。

 ううん、困ったな。どうしたら番井くんと仲良くなれるんだろう。何かサークルに入ってたりするのかな。果物系の名前のテニサーやインカレのイベサーに入っていたら嫌だな。ウェイウェイしてる番井くん、解釈違いすぎる。まじ無理。担降りしよ。
 こんなふうに、好き勝手に彼の背景を想像しながら寝落ちするのが最近の日課になっていた。内容は分からないこそすれ動画は欠かさず見ているし、何より同じゼミ所属のアドバンテージはとても大きい。普通の人よりも彼に近い存在であることが、私を楽観的にさせていた。いつか彼に振り向いてもらうチャンスはあるはずだって、信じていた。


「番井くん!」

 その日は一限が急遽休講になった日で、休講のメールが届いた時は既に大学の敷地内を歩いている所だった。もっと早くメールを送ってくれれば、だいぶ寝過ごせたのに。いつも一緒に講義を受ける友達にメッセージを飛ばすと、すぐに眠たそうな絵文字が返ってきた。もしかしなくても今起きたな。
 この幸せ者、とだけ返して、二限まで時間を潰す手立てを考えていると、9号舎地下のカフェの存在をふと思い出した。あそこなら朝早くから開いているし、安くて美味しいと評判のモーニングが食べられるかもしれない。
 こういう機会でもなければ、行くこともないだろうから。そんな思いつきで立ち寄ったカフェの並び列で、トレーを持った番井くんの後ろ姿を見かけた時は驚きのあまり心臓が口から飛び出しそうになった。急いで彼の真後ろに並んでから、私は思い切って声を掛けた。声量がバグってしまったのはこの際仕方がない。

「……え? あ……おはよう、ございます」

 振り向いた番井さんは、目を白黒とさせている。突然の声掛けに相当驚いたらしい。たしかに、仲良くもない人間に大声を出されたらびっくりするよね。なんだか彼に悪いことをしたかも。
 でも、せっかくのチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。

「番井くんは二限からなの?」
「いえ……今日はゼミだけです、けど」
「え……ゼミって四限だよね? 来るの早すぎない……?」

 私達のゼミは、全国の大学生が最も眠くなる時間帯の四限に設定されている。四限ってまだまだ先じゃないか。カフェの壁に取り付けられた時計の短針は、ようやく9に重なったばかりだ。あ、もしかしてアレかな。

「サークルの朝練?」
「……まあ、そんな感じです」

 この歯切れの悪さは完全正答じゃなさそうだ。難しいな、番井くんのルーティン予測。サークルと授業以外で大学に来る理由なんてあるのかな。就活解禁もまだ先だし。
 悶々としているうちに列は進み、一足先にレジを通っていた番井くんがぺこりと頭を下げた。

「それじゃ、……お先に失礼します」

 彼はあっという間に、カフェの奥にある二人がけのテーブル席に消えていった。遠くから聞こえる椅子を引きずる音が、妙に胸に刺さった。
 相席してもいいかな、って言いたかったんだけど。仲良くなるまでの道のりがあまりに険しい。私が同じゼミのメンバーだって気づいてなさそうだったし。あーあ。番井くんの席から少し離れたテーブルに座り、温いカフェラテに口をつけた。

 今回の件で、彼について分かったことがいくつかある。一つめは、ゼミの曜日は朝早くから大学にいること。カフェに行けば番井くんに会える確率がアップすると分かっただけでも大きな収穫だ。肝心の理由は教えてもらえなかったし、元々講義が入っている時間帯だから頻繁に行くことはできないけれど。
 二つめは案の定というか、私に全く心を開いていないということだ。どんなに会話を投げても終始きまり悪そうな彼の表情を思い出して、つき、と心が痛む。

 そもそも番井くんって、好きな人とかいるのかな。なんとなく想像できないし……想像したくないかも。もし声をかけたのが私じゃなかったら、違う反応だったのかな。ゼミも必修講義も、他の人に感情をあけすけにした彼を見たことがないから何とも言えないけれど……本当に私、番井くんのことを何も知らないな。

 悶々と考えていると、突然番井くんが席から立ち上がった。周りをきょろきょろと見回し、片手に持ったスマホで何か打ち込んでいる。彼は荷物を置いたまま、今度は入口の方に早足で歩いていった。どこか慌てたような様子が新鮮で、姿が見えなくなるまで目で追いかけてしまう。
 なんだか私、番井くんのストーカーみたい。まあ、あながち間違いではないか。荷物だけが残った不用心な席に時折視線を遣りながらスマホでムツムツをしていると、再び番井くんの声が聞こえてきた。姿が見えなくても、彼の声を私が聞き間違えるはずがない。

「本ッ当にすみません! 電車が遅延してて」
「いえ……全然気にしないでください。会長さんのせいじゃないですから。モーニング買っておきました」
「ワ、ワァ……つがいさん優しいッ……さすが叡ゲ同唯一の良心……」
「ふふ。僕をそう呼ぶのは、貴女しかいませんよ」

 スマホを滑っていた指が止まる。
 番井くんの声に被さるようにして聞こえてきたのは、間違いなく女の子の声だった。固まった私の横を通り過ぎて、二人は番井くんが荷物を置いていたテーブルに腰を下ろした。テーブルの上には、たしかにコップが二つ載っている。今の今まで……全然気がつかなかった。
 会長さんと呼ばれた女の子は両手を合わせてから、モーニングのサンドイッチにかぶりついた。この席だと彼女の顔はあまり見えないけれど、そこそこの声量で喋っているから会話が筒抜けだった。

「それにしても、西村くん来なくなっちゃいましたね。リア充サークルで忙しくなったのかな」
「なんとなく、前兆はありましたけどね」
「まあ、ダンスは日々の積み重ねが大事なんでしょうけど。片手間に掛け持ちは難しかろうなあ……でも、折角仲良くなれそうだったのにさあ……」
「……会長さん」
「もし西村くんが戻ってきたら、また衣装買いにサンチョ行きません? 部費払ってない分、今度こそ私持ちで」
「なまえさん」

 むぐ、という音と一緒に、女の子のマシンガントークが突然止んだ。彼女の唇に、番井くんが人差し指をそっと置いたからだ。自分以外の名前を出すことを、咎めるみたいに。目の前の光景が信じられなくて、視線が釘付けになる。
 え。え。嘘。声に出したつもりだったのに、漏れたのは乾いた息の音だけだった。

「叡大祭まで時間はありますし、あとで考えましょう。まずは一緒に食べませんか」
「…………つ、つがいさんんん……」

 すっかり大人しくなった彼女を、番井くんは蕩けそうなくらい慈愛に満ちた目で見つめている。配信でもゼミでも見たことのない表情に、愕然とした。
 私は彼のことを、知ったつもりになっていただけなんだ。

 真綿のように緩やかだった朝独特の空気が、私の首をゆっくりと締めていく。ふと、番井くんの視線が私に向いた。
 こういう時に限って私を見てくれるなんて、ずるいよ。
 喉の奥が灼けるように熱くなる。番井くんは意味深な笑みを浮かべながら、今度は自分の唇に人差し指を立てた。彼女に触れた、その指で。

 ああ、これからも彼の視界に私が映ることはないのだ。ただそれだけは、揺るぎない事実だと分かった。分からないことだらけだった彼の内面を、やっと理解できた気がした。

 過去最低スコアのムツムツを強制的に閉じて、モーニングのサンドイッチを口に入れる。トマトとレタスの水分をものともしないパンの乾燥具合は、なんだか本当に砂を噛んでいるみたいだと思った。