- ナノ -

 ※華の告白ED前提/暴力描写あり


「あなた、誰」

 気がつくと、口に出していた。あまりに非現実的な光景に、部室に踏み入れかけた足が空中で固まる。廊下と部室の床色の境目は、現実と地獄の境界線だ。
 いつも雑然と散らかった部室の床は綺麗に片付いて、見るからに高価そうなビデオカメラが三脚に取り付けられている。この空間を支配したと言わんばかりに、部室の真ん中で。だいだいくんがデッキ構築のために持ち込んだ大量のコモンカードはどこに行ったのだろう。
 ううん、違う。今はそんな事に意識を割いている場合じゃない。まっしろになった頭の中に、少しずつ色彩が戻る。目の前の状況を、もう一度整理しなければ。

 視界に入った光景は、全裸の男性がビデオカメラから必死で顔を背けるように土下座をする姿だった。乱れたブラウンのロングヘアにどきりとしたけれど、女性にしては厚みのある骨格と、時折聞こえる低い呻き声で、この人は男性なのだと分かった。
 赤く点滅したビデオカメラに備わる液晶モニターは、どこまでも無慈悲に彼を映している。ひと目見ただけでは誰なのか分からないけれど、部屋の隅で逆さまになった黒いソファの下から覗く花柄のトップスに、何となく察しがついてしまった。もしこの場にいたのが西村くんだったなら、部室でAV撮るなんて害悪陽キャの鑑だね、なんて毒を吐けたかもしれないけれど。あいにく今の私に、そんな余裕は一ミリたりとも残されていなかった。

 ああ、入る部室を間違えただけならどんなに良かっただろう。でも、その可能性が万に一つもないことは、会長の私が一番よく分かっている。部室に入ることができるのは、ドアの暗証番号を知っている人間―つまり、サークルのメンバーだけだからだ。頭のてっぺんから少しずつ、凍りついていく感覚が不快だ。

「……おい、早く彼女に挨拶しろ。挨拶はコミュニケーションの基本だろうが。お前の両親はそんなことも教えてくれなかったのか? なるべくしてなった"逸材"だなあ、ははッ!」

 私がドアを開けてからも延々紡がれる、耳を塞ぎたくなるような言葉の暴力。床と同化した彼の頭を緩慢に踏みつけるブーツの踵から、徐々に視線を上げた。真っ白なボトムスに、タイトな詰襟ブラウス。愉快で仕方ないとばかりにつり上がった唇からは、過激な差別用語が乾いた砂みたいにさらさらと零れ落ちる。

「会長に目をかけてもらっているくせに……なぁんて感謝の心が足りないんだ、このクソ恩知らずのカスが。会長からレスコで相談を受ける度に俺は苦しくて苦しくてたまらなかった。毎朝目覚めるたびに最悪の気分だったよ。お前にその気持ちが分かるか? 分かんねえよなあ。分かってたらこんなことになってねえもんなあ……っと!」

 苛立ちを滾らせた声とともに、濁点の混じった呻き声が狭い空間に木霊した。ぐり、と踏み躙られたブラウンのロングヘアは不格好に乱れて、色素の薄い銀色が見え隠れしている。早く駆け寄って安否を確認しないといけない、のに。身体が思い通りに動かない。

「会長の手を煩わせるだけ煩わせといて、まさか何も報いないなんてことはないよなあ。落とし前はキッチリつけさせるからな……この俺、反逆者タカヒトが!」

 いつもの穏やかな雰囲気とは対照的な、自信に満ち溢れた威圧感。個性的なメンバーを上手にまとめられない私の隣で、献身的にサポートしてくれたあの人の面影はどこにもない。
 本当に別人みたいで……本当に、そうであってほしかった。

「つ、つがいさん、どうして」

 恐怖で引き締まった喉から、必死で言葉を絞り出す。私の声が時間差で届いたのか、嵐のように撒き散らされる暴言はぴたりと止んだ。
 薄い唇を噤んだ彼―番井さんは光のない瞳で私を見ると、心底理解できないとでも言いたげに片眉を上げた。

「会長さんのご厚意を踏み躙る行為など、断罪されてしかるべきでしょう?」

 虫の息で床に崩れ落ちる彼には向けられることのない、やさしくて温かい声だった。生唾を飲み込むたび、喉奥に痛みが突き刺さる。

「で、でも! こんなの、絶対に」
「間違っていると、おっしゃりたいのですか? はあぁ…………以前も同じことを言いましたけれど、会長さんはお優しすぎるんです。理解力ゼロの低脳なんぞに慈悲を施してしまうから、『会長は俺のことが好きだから何をやっても許されるはずだ』と誤解されるのです。貴女の優しさは数多ある美点の一つでもありますが、その貴重なエネルギーは俺だけに割いた方がずっと有意義ですよ。ああ、だめだ。また腹が立ってきた。呼吸する資格すらないゴミ虫に、なぜ会長が……!」

 番井さんは彼の頭上に乗せた足で、思いきり顔面を蹴り上げた。重い打撃音と共に、床にうずくまっていた彼は仰向けに倒れた。お前以上に会長は深い傷を心に負っておられるんだ、と吐き捨てられた憎悪に、私の良心まで凍りついてしまった。

「あなたは、ほ、本当に、つがいさんなの……?」
「Exactly.ええ、まさに。配信者タカヒトとして活動する俺も、一介の大学生としてサークル活動に従事する僕も、正真正銘のホンモノですよ。おい、俺の許可無しにモゾモゾ動くなカス。ホント理解力ないのな、お前……色々な意味で救いようがない。被害者面をかます余裕があるなら、彼女に誠心誠意謝罪しろッ!」

 番井さんの長い脚が再び振り落とされて、横たわった彼の身体が大きく跳ねた。私が来る前から殴打されていたのだろう、無数の赤黒い痣が全身に浮き上がっている。冷ややかな色を瞳に湛えながら、番井さんは自身の胸に手を置いた。

「会長さんは慈悲深い御方ですから、どんな俺でもきっと受け入れてくださるのでしょうね。貴女のそういう所が……なんだ、まだ生きていたのか。お前みたいなクソカスが会長の寵愛を受けるなんざ百年早ェんだよ。今度は両目を踏み潰してやろうか、あァ!?」

 これがマンガの世界なら、途中で順番が入れ替わって私が罵倒される側に回るんだろうな。現実逃避の妄想で少しでも精神を保たないと、正気ではいられない。でも、情報処理が全然追いつかない。穏やかな呟きと怒号が交互に頭の中で反響するせいで、判断能力が鈍い音を立てながら落ちていくのが分かった。

「クソッ。それもこれも全部、こいつのせいだ。こいつさえいなければ俺は……僕は、もっと会長さんに……ああ、」

 番井さんは言語化しがたい音を、ぶつぶつと口に含んでは飲み込んでいる。この場ですら吐き出せない、不健全な何かを。
 時間が経つごとに番井さんの呼吸は徐々に荒くなり、やがて縋るような目で私を見た。なに、なんなの、本当にもう。

「とにかく……会長さんは、何も悪くないですから。これからも、部室にいらしてくださいね。明日も明後日も、そのまた明日も。一緒に穏やかな日常を過ごしましょう。貴女さえいれば、それでいいんです。他の誰もが、物語における劣悪なノイズでしかないのだから」

 番井さんは深く息を吐いたあと、オールバックに固めた自分の前髪をぐしゃりと掴んだ。崩れてばらばらになった前髪は、彼の顔を不均一に覆い隠した。
 出会った当初から本心が見えない人だとは思っていたけれど、こんなにも深い闇を宿らせているなんて、考えてもみなかった。

 息が、上手くできない。さっきからずっと、自分の指が小刻みに震えている。番井さんは口角をにい、と上げたあと、自分の胸に当てていた手を私の前に差し出した。

 光を浴びていない、不健康な白くて細い指。RGB値で色を表現する私に苦笑いで接してくれる番井さんは、どこにもいない。昨日までの日常は、もう二度と戻らない。

「ハッピーエンドを迎えるための、最後の選択肢……聡明な会長さんなら、もうお分かりでしょう。ね?」

 最後の一文字の重たさに、首を横に振ることなんてできない。震える手は私の意思に反して、ゆっくりと彼のいる方に伸びていった。