- ナノ -

「万丈目……」
「いんしゅう、だ」

渡された名刺に書かれた名前が読めなかったのを察せられてしまったのか、男は笑いながら自身の名を告げた。
緑茶を飲む歳老いたこの男は、近頃勢力を伸ばしている友民党の党首だ。そんな有名人が今、なまえの目の前にいる。なまえ自身も有名人ならばいざ知らず、ごくごく普通の会社員であった。
このアパートは立地の良さと家賃の安さで決めたものだし、VIPを招くことができる程の豪華な造りにはもちろんなっていなかったのだが、アパートの入口で自分を待っていたのだ、と宣う万丈目に、なまえは驚きのあまり家に迎え入れてしまったのだった。

「すまないね、余りにも珍しいものだったから、つい」

気分を悪くしないでくれと笑いながら言われても、なまえは気分が悪くなるどころか困惑していた。
一体何が珍しいのか。確かに古いアパートだが、わざわざそれを笑いに来たのだろうか。確かに名声を恣にしている万丈目からみたら笑いの種かもしれないが、一般庶民であるなまえからみれば普通のアパートだ。

「なまえくん、と言ったかな」
「はい」
「君は"ともだち"を知っているかね」
「まあ、一応……」

"ともだち"が友民党の母体である宗教団体の教祖だということをなまえは知っていた。とすれば、力は党首である万丈目よりも同等かそれ以上だろう。
でも、そんなことはなまえにとってどうでもいい。今まさに気になっているのは、

「なぜ万丈目さんが、私に?」
「なまえくん、すまないがトイレを貸してくれないか」

話を逸らすかのように万丈目は言った。
万丈目をトイレに案内したあと、なまえの疑問は益々積み重なっていく。万丈目のような有名人と自分のような庶民が触れ合うような機会があるとすれば……選挙活動と考えるのが妥当だろう。
そうだ、これは選挙活動の一環なのだ。なまえは納得した。確か選挙も近いし、このような地道な活動をすればこそ今の勢力を維持しえるのだろう。でも待てよ。それは法律的に、

「まずいんじゃ、」

なまえの言葉はハンカチによって遮られた。意識の遠のくなまえが最後に見た景色は、万丈目が玄関のドアから出ていく姿だった。


その十数分後、早足でなまえに駆け寄るこの男は、嘗て彼女の同級生であった。
万丈目がなまえの口元に当てたハンカチには、薬品が塗布されていた。彼女はすやすやと寝息を立てながら眠っている。
それに安心したのか、彼はなまえの髪に触れた。始めは恐る恐るであったその手はやがてぺたぺたと顔を柔躙し、唇に到達するまで時間はそうかからなかった。
ふと思い付いた男は、自分の人差し指を口に含み、彼女の唇を湿らすように丁寧になぞる。自分の唾液に濡れたなまえの唇にどうしようもなく欲情して、予期せぬもう一人の来訪者―服部は息を洩らした。

「なまえ……」

服部はずっとなまえに恋焦がれていた。秘密基地の中心メンバーでこそなかったものの、ユキジと仲が良かった彼女。そんな事情もあってか、よく秘密基地でケンヂ達と遊んでいるのを木の影から見たことがあったのだ。
何度も何度も同じ光景を、それこそ嫌という程見ているにも関わらず、自分がそこに加わることはなかった。
当時まともに話す機会は一度もなかったが、これからのことを考えると、顔の緩みが抑えきれなかった。

「特等席で見せてあげる、世界の、終わりを」

男はうっとりとなまえの首元に顔を埋めた。

日本を代表する宗教団体の頂点に君臨する彼を止められるものは存在しない。幼い頃に手に入れられなかったものを、焦がれていたものを、喉から手が出る程欲しかったものを、全て取り戻そうとしているのだ。
まるで今までの空白を埋めるかのように。