- ナノ -


ロッカーの中から教科書を取り出しながら後ろを振り返ると、廊下の窓からディディの背中を目で追いかけている私の彼氏、マンダークの姿が見えて胸が痛くなった。
彼をちょんちょんとつついて朝の挨拶をすると、なんだなまえか邪魔しないでくれよと冷たい返事を返され、また窓の外に目を向けた。

……私のこと、やっぱり好きじゃないのかな。
ロッカーに戻って鍵を閉めて、一人寂しく教室に向かってとぼとぼ歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。

「おはよう、なまえ」
「あ、……おはようデクスター」

赤毛で身長は低めで(って言ったら怒りそうだからここだけの話にしておこう)、マンダークに似た雰囲気(って言ったらもっと怒りそうだからここだけの話にしておこう)の彼は、私の隣に並んで歩いた。

「今日化学があるのかい?」
「うん、デクスターのクラスは?」
「とても最悪なことに体育があるんだ、台風でも来れば良かったのにな」
「先生怖いんだっけ、さぼれなくて残念だね」
「全くだよ……ところでなまえ、学校が終わった後は暇かい?」
「え、……、たぶん」
「僕のラボに遊びに来なよ。新作のロボットが出来たからなまえに見せたいんだ」
「……うーん、」

いくら友達とは言え男の子の家に行くのだから、彼に罪悪感を覚えてちらりと視線を向けると、まだ彼は窓の縁に肘を掛けて外に向けてハートを飛ばしていた。
少しでも後ろめたく思った私が、物凄くみじめだった。

「なまえ?」
「わかった、行く」
「やった!じゃあ、授業が終わったら迎えに行くよ」

じゃあ僕はここで、と彼は手を振りながら教室の中へと溶けこんでいった。

それを見届けてから、私も自分のクラスへと早足で向かう。後ろを向いて確認するまでもなく、まだ彼は愛するディディの姿を目が焦げる程焼き付けているのだろう。

(私の告白なんか、……断っちゃえばよかったのに)

段々強くなるきりきりとした痛みを我慢しながら、教室のドアを静かに閉めた。

◇◇◇

――ほら、やっぱりね。

頭の裏で冷静な私が呟いた。
今日はデクスターの家でロボットを見せてもらって、冷凍庫で作ったアイス・キャンデーを舐めながらアクションハンクの録画を見て、デクスターのママがチキンを焼きはじめたのだろうか、とてもいい匂いがして……。
もう晩ごはんの時間だから帰ろうと、秘密の本棚から出てきたその時だった。

「なまえ、帰らないで」

デクスターとの距離が次第に近くなっていく。じりじりと後退りしているうちにベッドのマットレスが膝の裏にがくん、と当たってベッドの海にダイブしてしまった。
そのままデクスターが、ベッドに上がって真上から私を見下ろしているような状況だ。他の人が見たら誤解されてもおかしくないような状況だ。まずい。これはまずい。横に転がって脱出しようとしたけれど、気づかれたのか先に両手首を抑えられてしまう。
デクスターって、こんなに力が強かったっけ。どんな手段を使っても、苦手な体育を休もうとするあのデクスターが……

ぶうん、とどこかからモーターの音が小さく聞こえること以外は、この世界には私達しかいないのではないか、と思う程に辺りは静まりかえっていた。
いつもならディディが「なまえ、うちで晩ごはん食べてくでしょう?」とドアを蹴破る勢いで混ざってくるのに……と考えたところで、デクスターが「姉貴は夜遅くまで帰ってこないよ。バレエの日だから」と握った手の力をますます強くした。

しばらく私の顔をじっと見つめていたデクスターは、息を詰めたような表情でゆっくりと近づいてくる。

「ま、待って、デクスター!それはちょっと、私には、」
「『マンダークがいるから』、かい?アイツが君を幸せに出来るとは、これっぽっちも思えないね」

今日だって、ヤツは誰かさんにずっと熱烈な視線を向けていただろ?とウィスパーボイスで耳打ちされて、頭から冷や水を浴びたような気分になった。やっぱりデクスターも気づいていたんだ。
マンダークが、本当は今もディディを好きなんじゃないかってこと。私からの告白を受けたことも、暇つぶしの自由研究くらいにしか思ってないんじゃないかってこと。だとしたら、なんてミジメな茶番なんだろう。目の奥から熱いものがじわりと込み上げてくる。
私の考えを読み取っているかのように、デクスターが口を開いた。

「だからね、なまえ、早くこんな茶番を終わらせるんだ。そして僕と、」
「奇遇だな、デクスター。僕もたった今そう言おうと思っていたところだ」

急にデクスターよりも強い力で右腕を引っ張られて、突然現れた来訪者―マンダークの腕の中にすっぽりと収まる。
あまりに突然のことに、思考回路が一瞬遮断された。先程から一転して、ピリッとした空気が辺りに立ち込める。

「邪魔したな」
「ああ、全くだね」

分かっているなら出て行け、と言わんばかりに顔をしかめているデクスターに、マンダークは鼻でせせら笑った。

どうして私がここにいると知っているんだろうか。そう考えたところで、ハチドリのような小さいロボットが旋回していることに気がつき、ようやく合点がいった。
ラボから聞こえているものとばかり思っていた先程のモーター音の正体は、どうやらこのロボットだったらしい。彼がここに辿り着いたのは、GPS機能か何かが取り付けられているからだろう。

デクスターも気づいていたようで、サイドテーブルにあったレーザー銃を手に取ると、見事な腕前で撃墜させていた。カメラのレンズと思わしき部品が、コロコロとカーペットの上に転がる。
マンダークは転がったレンズを踏み潰しながら、私をぎろりと睨みつけた。

「この僕がいながらいいご身分だな。帰るぞ、なまえ」
「え、でも、」
「でもはナシだ」

マンダークは苛々したような声音を発しながら、腕時計のボタンを押した。
きゅいいい、と緑色の光が私とマンダークの周りを取り囲んだかと思うと、既に両足部分が消えていて、うわ、と間抜けな声を漏らしてしまった。彼が身につけている腕時計は、瞬間移動機能があるものに違いなかった。分子レベルにまで体が分解されてから移動先に転送されるので、乗り物酔いのような気分になってしまうのが玉に瑕なのだ。
ごめんね、とデクスターに手でジェスチャーすると、また明日、と苦笑いを浮かべた彼が口を動かすのを見てとって、少しだけ胸が痛んだ。その刹那、視界が暗転する。

◇◇◇

(なんか私、最低な女だな……)

瞬間移動で行き着いた先は、マンダークの部屋、もとい彼のベッドの上だった。ベッドで追い詰められるような形になり、図らずも先程と同じシチュエーションになってしまった。
しばらく沈黙が続いた後、マンダークが呆れたような表情で口を開いた。

「ああ、そうだな。お前は最低だよ」
「だからエスパーやめてってば」
「お前はすぐ顔に出るから分かるんだよ。それに、本当のことだろう?ひょっとしてクイーンビー気取りのつもりか?」

急に目の前が真っ赤になって、私の顎元に触れた彼の指を思わずはたき落とした。マンダークはそれに動揺した様子もなく、そのまま私の手首を掴んだ。

「リードを繋いでおかなかった飼い主にも責任があるからな。今回だけは大目に見てやる」
「なにそれ、私は犬ってこと?」

マンダークがディディにうつつを抜かしていたことがそもそもの原因なのに、そんなことを言われる筋合いはないはずだった。どこまでこの男は、私をバカにするつもりなんだろう。

「バカになんかしてないさ。お前は可愛いさ、誰よりも」
「な……なに、今更。変なもの食べた?」

彼と会話レベルが合うわけでもないし、ディディみたいに可愛くない私からの告白を受けたことを、本当は後悔しているんじゃないかってあれだけ落ち込んでたのに。
彼の一言で、今までの怒りが全部どうでも良くなるなんて、私はどこまで単純な生き物なんだろう。自分自身に対しても腹立たしいことこの上ない。

「…………私、もうかえる」
「ああ。"また明日"、なまえ」

デクスターの台詞を嫌みったらしく繰り返しながら、マンダークは腕時計を私に向けながらピピッ、とボタンを押した。私を自宅まで瞬間移動で飛ばしてくれるのも、合理性を重んじる彼ならではの優しさだと思った。
再び緑色の光に包まれながら、仲直りのキスくらいしてくれてもいいのに、と心の中で舌を出した。

◇◇◇

一人部屋に残されたマンダークが指を鳴らすと、何処からともなくモーター音が近づいてくる。それはなまえの後方にスタンバイする、ハチドリ型の新しいロボットだ。
モニター機能を内蔵した自分の眼鏡から、このロボットを介してなまえの姿と声を常に捉えることができる。
学校にいる時もなまえが自宅で過ごしている時も、ハチドリは常に旋回し、生きた情報が自分に転送される。もっと色々な表情を見せてほしいと、わざとなまえからディディが見える位置にいたのは果たして正解だったようだ。
あいつにだけは知られたくない。彼女が僕を想い、妬心に焼かれる表情は、たまらなく愛しく煽情的であることを。

「……なまえを理解できるのは、僕一人で充分だ」

マンダークはハチドリに腕時計を向けて、再び光を放射した。