彼女―なまえに一柳が興味を持ったのは、検事審査会での或る所作に違和感を覚えたことが発端だった。
いつもなまえの隣に座る弁護士に笑いかける時の彼女の表情が、仕事仲間のそれと違うように感じたのだ。2人は同じ法律事務所に所属する弁護士だった。
検事審査会においてはそれぞれが如何なく能力を発揮するので、特に一柳が咎める理由もなかったが、”友愛”と呼ぶにはそぐわない、相手に向けるなまえの視線がどうも心に引っかかっていた。”恋慕”とも少しばかり違うようだ。それなら”崇拝”と呼んだ方が、一番合点のいく表現だった。
その場面を目撃する度、一柳は確信を深めていくとともに、歪んだ感情も増幅していくのを自覚した。
もし崇拝する対象が消えてしまったら、残された彼女はどんな表情をするのだろうと、そればかりが気になって仕方なかった。
法の神である一柳に目を付けられること、それはすなわち、彼女の悲運を決定づけるものに他ならなかった。
それから程なくして、例の弁護士は命を絶った。法の女神が冷たく微笑む、検事審査会の審議室で。
前途有望な若い芽を摘むことに心が痛まなくなってからどのくらい経っただろうか、と他人事のように考えている間にも、一柳の筋書き通り、捜査は順調に終わりを迎えていた。
カードキーの入退室記録から、死亡推定時刻付近に現場を出入りしていた人物が当の弁護士しかいなかったことが証明されたため、自殺として処理される運びとなったが、なまえだけが目に涙を溜めて首を横に振っていた。ざわざわと騒がしい空間の中で、現場指揮を執っていた一柳に、なまえははっきりと懇願した。
「お願いです、一柳会長……私に、再調査を許可してください」
「……うん、うん。気持ちはよく分かるんだけどさー。僕が証拠を見落としていると思うのかい?」
「そ、そういう訳では…………」
「……まあ、同情するよ。……君が生きる目的を喪ったことに対しては、ね」
一柳がなまえの肩に手を置くと、なまえは目を見開いた。ややしばらくして、蚊の鳴くような声で「どうしてそれを」と呟いた。そして指摘されたのも初めてだったのだろう、なまえの体は小刻みに震え出した。
ああ、この表情が見たかった。一柳はこみ上げてくる感情―それは明らかに支配欲だった―を抑えながら、なまえの顔を覗き込んだ。
「まあ、再調査ぐらい別に構わないさ。……君次第、だけど」
なまえにしか聞こえない声量で、一柳は密やかに耳打ちした。全ての法曹を従わせる絶対的な悪魔の声が、なまえの思考回路に錆を施していく。
長年一流の検事としてキャリアを積んできた一柳にとって、彼女の思考や反応を読み取ることは容易かった。後はなまえが、自分の手を取るのを待つだけだ。
しかし、一柳の予想とは裏腹に、なまえは一柳の手を肩からそっと外した。
「……どうしても、忘れられないのです。法廷内で響く凜としたあの声が、美しいロジックで追い詰めるその後ろ姿が。あの人の隣に立てるように、私は全てを犠牲にしてきました。だから、あの人を喪った今、もう私には何も残っていない……死んでしまいたい」
言い終わる前に、なまえは涙をぼろぼろと零した。先程まで覚えていた優越感は氷のように溶けて消え、代わりにどす黒い炎が心の中で揺らめくのが分かった。
目障りな存在が消えさえすれば、全て終わりだと思っていた。
それが正解だと信じて疑わなかった。
それなのにどうしたことだ、この焦燥は。あの弁護士が生きていた時よりも、なまえの心に存在が刻みこまれてしまったではないか―永遠に消えない火傷の跡のように。一柳は自分の顎を苛立たしげに擦った。死者に対して殺意を抱くなど、初めてのことだった。
一柳はなまえから視線を外さず、彼女の下瞼に溜まった涙を指で掬い上げながら、言葉を紡いだ。
「僕が生きる目的を作ってあげるよ」
「……ごめんなさい」
「僕だけを見てよ」
「……ごめんなさい」
なまえは一柳から目を逸らす。涙で睫毛がふるりと揺れるのを見てとって、一柳は心の中で舌打ちした。
ずっと彼女の視線を独占したかったのだと、この時一柳は初めて気がついた。