- ナノ -



 体育館の出来事のあと、飴村くんと遭遇する頻度が妙に増えた。ある時は図書室、ある時は薄暗い視聴覚室で。彼はマシュマロみたいな柔らかい微笑みを常に絶やさずに、私に手を振るのだ。
 この前の休日に本屋で会ったとき、「なまえおねーさん、学校の時と雰囲気が違ってかわいいね!」と話しかけられたときは本当に腰が抜けそうになった。用事があったらしい彼はすぐにその場からいなくなったけれど、有名人は何処にいても目立つのか、周囲から熱い視線を集めていた。


「なんであんたが乱数くんと仲良いわけ?」

 だからこそ、いつかこうなるとも思っていた。
 いくら私が目立たない場所に出入りしているとはいえ、飴村くん自身が目立つ以上、その行動は無意味だった。彼を慕う女の子の一人が、私と彼が会話している場面を見ていたらしい。偶然を強調されたところで、私にとってはそれも無意味だった。

「乱数くんに迫るなんて最低」
「休日も無理矢理引っ張り回して、彼が可哀想だって思わないの?」

 無意味な理由は他でもなく、こんな根も葉もない噂が流れているからだ。
 噂っていうのは無責任なウイルスみたいなものだ。間違った情報であっても、一々真偽を確かめられたり、訂正されたりすることもない。万が一事実でも、私の場合は悪意に歪められて伝播されていく。例えば、今みたいに。

 口を挟む隙もなく、彼女達は好き勝手な言葉でいつも通り詰り罵る。
 周囲の好奇と悪意に満ちた視線を一身に浴びながら、唇を噛み締めた。反論してもイイコトなんて一つもないのは分かっているから、いつも通りしおらしく俯く。

 なんだかそろそろ辛くなってきた。
 あと10分経っても終わらなかったら、もう学校に行くの辞めようかな……

「おねーさん達! 何してるの?」
「ら、乱数くん……!」

 女の子達の背後から現れた人物に、私は目を見開いた。周囲も同じような反応をしていて、全員が棒立ちしている中、飴村くんはくるくると私の周りを軽快にステップしていた。私をがっちりと取り囲んでいた輪が、簡単に決壊していく。

「僕も混ぜて欲しいなー!」
「あ、あの、乱数くん……これは、その」
「混ぜてよ」

 飴村くんの声が低くなって、本能的に身が震える。いつもの人の良さそうな表情は影を潜めて、話しかけてきた子を暗い瞳で見つめていた。周りの子達の表情も凍りついていて、さっきまで浴びせられていた罵詈雑言の嵐は嘘のように止んでいた。


 脱兎の如く逃げていく子達の背中を眺めながら、百回の「やめて」という私の訴えよりも「失せな」という彼の一声の方が効果覿面なんて……と、私は複雑な気分に浸っていた。
 そんな私をよそに、飴村くんは人懐っこい表情で一歩、また一歩と私に近づいてくる。

「なまえおねーさんっ! 上履き買ったんだね!」
「……それ、今言うこと…………?」

 虚を衝かれた私は一気に身体の力が抜けて、ずるずると壁にもたれて座り込む。
 飴村くんもしゃがんで、胸ポケットから黒色のペンを取り出すと、私の前に突き出した。今度は一体、何が始まるんだろう。

「じゃあん! とっておきのヒミツ道具、油性ペンでーす!」
「ええー……?」
「じっとしててねー」

 飴村くんはキャップを外した後、私の上履きにペンを走らせた。唖然としている私をよそに、彼は鼻歌を歌いながら、両サイドにもペン先を滑らせていく。
 筆圧がたまに擽ったくて、身を捩らすと「動かないでってば」と、私の足を支える手にぐ、と力が入る。当分離してもらえそうにないので、私は諦めて彼に身を任せた。
彼の長い睫毛は頬に影を落として、女の私より余程綺麗な顔だなあと羨ましさを覚えた。

「……よし、できたあ! どうかなどうかなっ? 他の子にはナイショだよ!」

 人差し指を唇にあてながら、彼はいたずらっぽく笑った。視線を上履きに落とすと、可愛らしいキャンディとスマイリー、キラキラマークが所狭しと描かれていた。

「かわいい……」

 不意に、頬に冷たい感触が滑る。今まで溜め込んでいたものが一気に溢れ出したのだと自覚した時には、もう遅かった。止めようにも止められなくて、ぽたぽたと床に水溜まりが出来る。

 友達に好意的な落書きをしてもらう、という行為に憧れを持っていた。でも現実の私にとって、落書きは心に刺さるナイフみたいな存在だった。教科書も、体操服も、鞄も、机も椅子も下駄箱も……先生だって見て見ぬ振りだった。だから「落書き」という行為には、悪い印象しか持っていなかった。
 それだけに、飴村くんに描いてもらった上履きは煌びやかな宝物のように思えた。

「ふっ……う、うっ……」
「よしよし、いい子だね」

 私の頭を、彼の手が優しく撫でる。視界は涙で滲んでいて、飴村くんがどんな顔をしているのかは分からなかった。
 でも、いきなり泣き出した私にきっと呆れているだろうな。せっかく仲良くなろうとしてくれているのに、それを台無しにしたことがとても辛かった。
とにかく飴村くんに謝って、上履きのお礼を言わなければ。ぐしぐしと目を擦って、少しでも視界をクリアにする。

「ご、ごめんね。みっともないところ見せて。でも、飴村くんのおかげで元気出た。……また明日から、1人で頑張れそう」

 ありがとう、と最後に言う前に、思わず口を噤む。
 飴村くんが私を、何の感情も込められていない瞳で見ていたから。

 どうしたの、と言葉を出す前に、彼は咥えていたロリポップのスティックを地面に投げ捨てて、靴で踏んづけていた。今までの彼からは考えられないような振る舞いだった。
 目の前の彼は、本当にあの飴村くんなの?

「……まだ堕ちないんだ。ここまで鈍いと、人格を作るのもばかばかしくなってくるよ」

 はあーあ、とわざとらしく溜息をついた飴村くんは、大きく伸びをした。
 身に纏う雰囲気が、声のトーンが、私の知っている飴村くんではないということを示していた。

「あ、飴村くん……それって、」
「”どういうこと?”なんて、今更分かりきった質問をするのはナシだよ。いくら鈍くても、周りを見ればなまえだって流石に分かるでしょ」

 飴村くんは周囲をぐるりと指差す。ここまでずっと置いてきぼりだった私は、やっと気づいたのだ。抱えていた違和感の正体に。

 人通りの多い本校舎の廊下なのに、いつも誰かに声をかけられている飴村くんが、通りすぎる誰からも無視されていた。そして、先程まで私を詰っていた女の子達が一瞥もせずに私達の横を通り過ぎた時、推測は確信に変わった。
 私達の存在が見えないかのように、他の生徒達は普段通りの学校生活を送っている。

 何がおかしいのか、ケタケタと笑っている飴村くんを見て、ふつふつと私の中で感情が湧き上がる。それは紛れもなく、怒りと嫌悪だった。

「み、皆で私を騙してたの? 飴村くんも私を笑ってたの? 私、飴村くんに何かした?そんなに私のことが嫌いだったの? だったらはじめから、」
「…………嫌い? 僕がなまえを? 逆だよ、逆。なまえが大好きだから、僕しか考えられないようにしてあげたんだよっ」

 すう、と無表情になった飴村くんは、指をパチンと鳴らした。すると、周りの生徒達は一斉に動きを止めて、ゆっくりと私達のいる方向に顔を向ける。全員が笑みを浮かべている異様な光景は恐怖でしかなくて、ひい、と情けない声が喉の奥から漏れる。酷い悪夢を見ているようだった。
 恐怖のあまり、根が生えたように足が動かない。さっきまで唯一無二の宝物だった上履きが、錆び付いた足枷にしか見えなくなった。

「僕のチカラで、皆が操り人形になるんだ。例えば特定の誰かをターゲットにして、追いこんだりすることも……ね」

 いつのまにか飴村くんの右手には、カラフルなマイクが握られていた。マイクの存在を認識した瞬間、普通の人間が踏み込んではいけない領域を垣間見たようで、空間がぐにゃりと歪む。身体の内側からせり上がってくる吐き気に、必死で耐えた。

「で、どうする? なまえが僕を受け入れるなら、悪夢のような毎日はもう終わり。でも、僕を選ばないなら……なまえの人生はずっとこのままだよ? ずーっとね!」

 廊下を誰かが駆けていく音、吹奏楽部が鳴らすチューニング音、あれだけ煩わしいと思っていた毎日の騒めきが、一切聞こえない。時が止まったような感覚に焦燥を覚えると当時に、底無しのような不安に襲われる。

 私の学校生活が台無しになったのも、飴村くんが裏で糸を引いていたからってこと?
 私をいじめていたあの子達も、先生達も、飴村くんにコントロールされていたってこと?
 私は一体、何を信じればいいの?

「……じゃあ、もう一回聞くからね! なまえおねーさんっ、僕のものになってくれる?」

 悪魔のような甘い囁きに、私はごくりと喉を鳴らした。
 青いガラス玉みたいな瞳はどこまでも透き通っていて、意識ごと吸い込まれてしまいそうだった。彼に意識を委ねれば、苦しみから全て解放されるのだろうか。……もう、何も分からない。

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